本書は2017年に開催された企画展「怖い絵展」の補完本ともいうべき解説書です。著者は以前より同様の西洋絵画の読み解き本を出版しており、前述の「怖い絵展」にもブレーンの一人として参画しています。
 
著者の本にせよ「怖い絵展」にせよ接して思うのは、絵画を本当に隅から隅まで存分に鑑賞し楽しむには「知識と教養」が絶対不可欠だということです。絵画は決して描き手が好き勝手に絵空事や見たものをそのまま描いているわけではなく、なぜそのモチーフなのか?なぜその色なのか?なぜこの構図なのか?その全てに意味と意図があり、それを鑑賞者も全力で読み取らなければ本当に絵画を楽しんだことにはなりません。少し前、絵画鑑賞に知識や教養は果たして必要なのか?自由な感性で見て楽しむのではダメなのか?という議論的なつぶやきがTwitterで話題になりましたが、本人がそれで満足だとしても、私としては絵画は決して鑑賞者の感性だけで見るものではなく、知識と教養に基づいて考察しながら味わった方が絶対に面白いと思っています。
 

 

まず最初に紹介されているのが、フランス・ニースのフランス象徴主義最後の画家と言われるギュスターヴ・アドルフ・モッサの「Elle(彼女)」。男を破滅させる「ファム・ファタール(運命の女)」をモチーフとした作品で、彼の全盛期だった20~20代の頃の作品です。同時期の代表作としては、下の「飽食のセイレーン」もあります。

彼はデッサン教室を経営していた叔父さんから絵画を教わり、以後ずっと地元ニースで暮らしながら作品を発表し、1905年頃から1918年頃まで退廃的な作風が脚光を浴び有名になりましたが、第一次世界大戦に従軍して負傷し、復員後は絵画製作から遠ざかり、地元ニースのためにポスターや山車を作ったり、ニース美術館の館長に就任したりと、画家というより「ニースの名士」として過ごしました。この二点も作品も彼が艦長を務めていたニース美術館に収蔵されています。

それにしても、パリ画壇から離れた地方にすらこんな素晴らしい絵画を描く画家がいるとは、才能は本当に人知れず埋もれているのだと思います。特に「Elle」、人を殺す武器であるこん棒、ナイフ、拳銃をアクセサリーとして身に着け、死の卵を孵す番のカラスを頭に乗せたファム・ファタールなんてどう見ても戦争のメタファーじゃないかと思いますが、それを描いた本人が第一次世界大戦で徴兵され心身ともにダメージを負い、その後ほとんど新作を描かなくなってしまった事実を考えると、もう二重にも三重にも怖くなってきます。

 

これは旧約聖書にある「ソドムとゴモラ」に天誅を与える天使をモチーフとしたギュスターヴ・モローの「ソドムの天使」。「ソドム」は「男色」「獣姦」を表す単語「ソドミー」の語源となった旧約聖書に登場する悪徳の町の名前で、神はこの町に二人の天使を遣わせて滅ぼそうとします。美しい人間の男に化けた天使たちはソドムでロトの家に泊めさせてもらいますが、ソドムの住人たちは天使(が化けた男)を自分たちに差し出せとロトに迫ります。それでもロトが天使をかばったため、これを良しとした神はロト一家だけは救い、町に硫黄の雨を降らせて地震を起こし

滅ぼしてしまいました。実際ソドムがあったとされる地域には古代に火山噴火やそれに伴う地震があった形跡が見られるとのことで、実際にあった出来事を基にした伝説なのでしょうが、象徴主義の画家だったモローは敢えて町も天使もはっきりとは描かず、ぼんやりと幻想的に描いています。しかし町との対比で分かる天使の巨大さ、その天使が正義の象徴である大剣を持っている姿、硫黄の雨が降って火の海となるソドムの光景が見て取れ、朧気な筆致だからこそより一層「怖さ」が増幅されているような気がします。

 

これは「叫びで知られるムンクの「聖母(マドンナ)」。これもまたモッサの「Elle」と同様、男を破滅させる「ファム・ファタール」のモチーフですが、こちらは「ダクニィ・ユール」という実在のモデルがいたとのこと。なお、「聖母(マドンナ)」にはフルカラー版があり合計5バージョン描かれたそうですが、「怖い絵展」では敢えて人物部分がモノクロのこちらの版画版(大原美術館所蔵)が展示されたそうです。もう正解。間違いなく正解。ムンクのゆがんだ筆致も相まって、嫌が負うにも見ているこちらの不安感増してきます。実際、モデルになった人物は自身もアーティストで、ムンクをはじめとする多くの若きアーティストのマドンナ的存在でしたが、その人間としての魅力が仇となり付き合った男性達だけでなく自分自身も破滅的な最期を迎えたのだとか。そうした作品背景を知ると、ムンクの洞察力と表現力がいかに鋭かったかが分かります。
 
残念ながら私は「怖い絵展」に行くことができませんでしたが、それでもこうして補完本でそれぞれの作品の概要と背景を知ることができ非常に楽しめました。でも読めば読むほど、「では実際に鑑賞できたらどんなに素晴らしかったのだろうか」と想像してしまい、残念とも悔しいとも何とも言えない気分になってきました。