昨日映画「メトロポリス」のことを書いたので、本日は2001年に公開されたアニメ映画「メトロポリス」について書こうと思います。

 

本作は手塚治虫先生の同名漫画「メトロポリス」を原作としたアニメ映画ですが、ストーリーもキャラクターの名前も原作とは異なるので、実際には「原案」程度といったところです。

 

 

まず本作の何が凄いって、製作期間5年、総作画枚数15万枚、総制作費10億円、監督・りんたろう、脚本・大友克洋、音楽・本多俊之、制作会社・マッドハウスという錚々たる顔ぶれを揃え、かつアメリカ公開まで実現させておきながら興行収入が7.5億円だったということです。2.5億円の赤字!製作委員会方式がとられ、そこに電通が名を連ねておきながらです。電通仕事しろよ!普通このメンツなら特別ヲタじゃなくても観に行くだろ!

しかも作画・ストーリー共に完成度も非常に高く、アメリカで最も影響力があると言われている映画評価サイト「RottenTomatoes」では高得点の「91%Fresh!」の評価が付けられました。当時アメリカではスティーヴン・スピルバーグの「A.I.」が同時期に公開されたことから、同作や「ブレード・ランナー」と比較した批評も多数公開されたそうです。とはいえ、手塚治虫先生の「メトロポリス」も「ブレード・ランナー」も「A.I」も全て1927年公開の「メトロポリス」がなかったら生まれていなかった作品なので、全ては「メトロポリス」に繋がるわけですが。つまり「メトロポリス」は全てのサイバーパンク作品の母であり、マリア型アンドロイドは全てのアンドロイドの母みたいなものでしょう。

 

 

ストーリーは、日本の私立探偵”ヒゲオヤジ”こと伴俊作と彼の甥っ子・ケンイチ少年が、人とロボットが共存する大都市メトロポリスを訪れるところから始まります。彼らは生体を使った人造人間製造の疑惑で国際指名手配されている科学者・ロートン博士を逮捕するためにメトロポリスにやってきたのですが、時折しも超高層ビル「ジッグラト」の完成記念式典の真っ最中で、街の警察は人手が足りないからといって人間の捜査員を貸してくれず、代わりにロボット刑事をあてがいます。

 

当然この超高層ビルは、1927年版「メトロポリス」における支配者・フレーダーセンのオフィスがあるビルをモデルとしていますが、名前が「ジッグラト」であることから、元ネタが古代メソポタミアの都市国家に建設されていた巨大建造物であることは明らかです。ちなみにそれら巨大建造物の一つであったマルドゥク神殿が聖書にある「バベルの塔」のモデルになったと言われており、またバベルの塔崩壊のエピソードは1927年版「メトロポリス」でもマリアのセリフに出てきているので、よく考えるとネーミングからラストの展開がある程度分かってしまうのですがこまけぇこたぁいいんだよ!それにしても聖書ってつくづく他の文化と土着信仰へのdisりで書かれているんですね。

 

面白いのは、本作が21世紀初頭に公開された映画だというのに、作品世界のデザインが「レトロフューチャー」であること。確かに超高層ビルが林立していたり、空飛ぶ車が街中を行き交っていたり、ロボットが働いていたりと未来的な描写はあるのですが、デザイン自体は『1927年版「メトロポリス」の時代の人々が想像したような未来』なのです。そのためどこか大正~昭和初期ロマン的なレトロな空気が感じられる世界観となっています。

 

加えて面白いのは、1927年版「メトロポリス」では地獄のような場所として描写されていた労働者階級の地下貧民窟が、本作では「これはこれで楽しそう感」と色彩が溢れる場所として描かれていることです。例えるなら中央線沿線と山手線沿線の下町を全部均等に混ぜたうえで縦に階層化した感じです。

 

これが貧民窟でも別に問題なさそうじゃないですか?むしろ整然としたオシャレが襲ってくるような街より、こうした猥雑な街の方が日常生活を送る分には快適そうです。

 

あとロボット刑事というと、石森章太郎先生著「ロボット刑事」を思い出します。しかも本作のロボット刑事も顔に赤いラインが入っているときた。何気に「手塚作品のキャラと石森作品のキャラのコラボ」が行われた可能性も捨てきれません。

ある時、謎のロボットがジッグラトの完成式典を妨害し騒ぎが起こりますが、1人の青年が平然とロボットを殺害(破壊)して去っていきました。メトロポリスは表では「人とロボットの共存都市」と言われていましたが、実際はロボットたちが様々な制限のもと人間たちに酷使され、一方人間の労働者階級はロボットに職を奪われたと不満と憎悪を募らせていました。つまり、街の上層にいる富裕層と下層にいる労働者階級の他に「人間たちに酷使されているロボット」という第三勢力がおり、それぞれが確執を持って対立する構造となっているわけです。それらに加えて上層部は上層部で街の支配者・レッド公と国の支配者・ブーン大統領が表向きは手を取り合いつつも裏では対立しているなど、とにかく上も下もめんどくさい。ヒゲオヤジとケンイチはそんな街の現実に辟易しながらも、ロボット刑事の手助けのもとロートン博士が潜伏していると思われる地下研究所を見つけます。

 

ところが、そこへ式典で平然とロボットを殺害した謎の青年がやってきて、ロートン博士をも殺害し研究所に火をかけました。彼は戦災孤児だったところをレッド公に拾われ養子になった、ロボット弾圧の最右翼マルドゥク党の党首ロック。レッド公は血のつながっていない息子の彼を愛していませんが、彼はレッド公に狂信にも似た歪んだ愛情を抱いています。

 

出火した研究所からロートン博士を連れ出すため火の中に突入したヒゲオヤジとケンイチは、それぞれはぐれながらもロートン博士の研究手帳と逃げ遅れた謎の少女を外に持ち出すことに成功。実は彼女は、レッド公が密かにロートン博士に命じて開発させていた、自分の亡き娘・ティマに似せたアンドロイドでした。

レッド公とロックの「先立たれた子供に似せてアンドロイドを作る」「父に愛されない血のつながらない子供」というモチーフは手塚治虫先生の代表作の一つ「鉄腕アトム」にも通じる設定で、本作は手塚作品のスターシステム・キャラおよび他作品の設定がてんこ盛りに盛られた「手塚作品よくばりセット」的な作品でもあります。

 

1927年版「メトロポリス」は、「ボーイ・ミーツ・ガール」からストーリーが動き出し、対立する人間の両陣営の中にアンドロイドが入り込んで双方を混乱させた挙句街を崩壊に追い込みますが、本作では既に人間社会にロボットが深く入り込み、人間対人間の対立に加え「人間対ロボット」という構図も出来上がっており、そこに純粋無垢なアンドロイドが生まれる…という筋書きになっているのが面白いです。どちらの作品もストーリーの始まりと終わりは同じなのに、真ん中がまるっと異なっているんですね。1927年版「メトロポリス」のそれは格差社会と人間の愚かさに対する痛烈な皮肉であったのに対し、本作はそれらももちろん描くものの、最も重要なテーマは「人間の定義とは何か?」という実存主義。アンドロイドと実存主義というテーマは現在ドラマ「ウェストワールド」で描かれていますが、これもまた手塚治虫先生が「鉄腕アトム」および他作品で繰り返し描いてきたテーマであり、やはり本作は「手塚作品よくばりセット」だったのだなあ…なんて思ってしまいました。

 

あと目に付くのは、やはりスチームパンクとサイバーパンクを程よくミックスした世界観と映像美です。これをセル画で描くとはさすがマッドハウス、その名のとおり狂っています

 

私が好きなシーンは、ヒゲオヤジがティマの力を使って街のシステムをハッキングし行方不明になったケンイチを探すシーン。ハッキングのツールとして使われるのが…

 

黒電話のパーツ!ギリギリ黒電話を見たことがある世代なら思わず膝を打つんじゃないでしょうか。インターネット接続→電話線→黒電話というわけです。

 

それをティマがビリビリっとやって…

 

これまたレトロなブラウン管モニターの内部を通って…

 

 

この演出ですよ。まさにレトロフューチャー!

 

ティマはまっさらな状態で生まれ、何も知らず言葉すら喋れませんでしたが、ケンイチと一緒に過ごす間に急速に言葉を学習し、人間の女の子と全く変わらない程の知能を身に着けます。これがまた人工知能の学習過程を上手く表現しているのですが、実は彼女は人間に代わって世界を支配する力を与えられた「世界の統治システム」だったのでした。人間が自ら世界の調停者を作り上げるという設定は「風の谷のナウシカ」の巨神兵的でもありますが、その結果どうなるかはだいたい想像がつくでしょう。

 

 

 
 

 

ラストの詳細まで書くのはさすがにつまらないので、後は実際に観て確認して下さい。それにしても、これだけのクオリティ、これだけのストーリーの映画をヒットさせられなかったなんて、繰り返しになりますが電通は一体何をしていたのでしょうか?今だったらSNSの口コミで評判が広がったかもしれませんが、2001年といえばまだインターネット黎明期、SNSどころか自分のサイトを持っている人でさえ稀な時代、おまけに2001年といえばアメリカ同時多発テロ事件があった年。それはアメリカ公開時にも当然動員に影響したでしょう。つくづく本作は不運な傑作だったと思います。

ということで、今からでも遅くないのでレンタル屋で借りるなりVODを探すなりしてなんとかして観て下さい。今見ても全く古さを感じません。特にスチームパンククラスタとサイバーパンククラスタは必見です。

 

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