今年はAmazonプライムで映画・ドラマ・アニメを観るようになりましたが、観たドラマの中で一番刺さったのはこれです。

 

「ウエストワールド」、ちょうど今月からシーズン2も無料枠になりました。

 

本作は、マイケル・クライトンによる小説を原作とした、西部開拓時代の街をハイテク技術によって再現した体験型テーマパークを舞台としたSFスリラー作品です。1973年に一度映画化されましたが、2016年10月よりHBOにて連続ドラマシリーズとして放送されています。

 

 

映画版とドラマ版の大きな違いは、原作版および映画版がいかにもB級くさい完全娯楽産品だったのに対し、ドラマ版はテーマパークを訪れるお客さん(ゲスト)をもてなす「ホスト」と呼ばれるAI搭載のアンドロイドたちが、日々の接客を通して徐々に自我に目覚め、「自分たちと人間に一体なんの違いがあるのか?」を考え始め、やがて人間に牙をむくという、極めて実存主義哲学的な内容であることです。だいたい「テーマパークの中でアンドロイドが人間に牙をむく」って、アンドロイドを恐竜に置き換えたらそのまんま同じくマイケル・クライトン原作の「ジュラシック・パーク」ですからね。同じネタを使いまわしてるんじゃねえよマイケル・クライトン!ところが、このドラマ版「ウエストワールド」は前述のように実存主義哲学ドラマへとアップデートされたため、シーズン1の時点で「原作超え」と大評判となり、ドラマ界のアカデミー賞と言われているエミー賞を受賞しました。

 

基本設定は原作版・映画版と同じ。舞台は近未来のアメリカ南部で、広大な敷地とAI搭載アンドロイドを使って特定の世界を完全再現するテーマパークを運営する「デロス社」が、西部開拓時代を再現した「ウエストワールド」を作り、毎日金持ちのゲスト相手に商売します。ゲストは超高額な入場料を支払っており、またデロス社のテーマパーク自体が「なんでもできる場所」という触れ込みなため、ゲストたちはホストのアンドロイドたちに対し文字通り好き放題し酒池肉林を謳歌します。ホストたちは毎日暴行されたり、強姦されたり、殺されたりしますが、その度にメンテナンスされると共に記憶を消去され、再び予め設定されたキャラクターとシナリオに沿って生活を続けます。ところがホストはAIを搭載しており、かつリアルさを出すため喜怒哀楽の感情とキャラクター個々の性格も実装。いくら記憶を消されても毎日の出来事から「学習」し、ゲストに痛めつけられた経験も徐々にトラウマとして蓄積され、遂に使用年数の長いホストから自我に目覚める「誤作動」を起こすようになります…。

 

ちなみに第一話でこのあらすじが全て説明され、いきなり視聴者に「人間の定義とは何か?」を投げかけてきます。なんという情報量。なんという重さと深さ。私はこのドラマを観て、つくづく「高校の社会科で倫理を選択していて良かった」と思いました。実存主義哲学の予備知識がないととても本作を噛み砕いて味わうことができません。ただの面白い海外ドラマとして流し観するのはあまりにも勿体ない。それくらい考えさせられるドラマです。

 

本作に重みと深みを与えている最大の要因は、本作が人間よりもホスト側に立った視点で描かれていることでしょう。基本的にデロス社の人間、ゲストとしてウエストワールドに訪れる人間、ホストが入り乱れ、途中から「え?お前人間だと思ってたけどアンドロイドだったの?」といったどちらがどちらだか分からなくなる群像劇ではあるのですが、各エピソードの描き方が明らかにホスト側なのです。原作版と映画版はあくまでも人間が主人公で、「アンドロイドが意思を持ってえらいことになったので鎮圧することにした」というストーリーですが、これではホストは悪役となってしまい、あまりにも人間が身勝手です。じゃあ人間が利益のために人間と同じ学習能力や感情を持つアンドロイドを作ってそれをいたぶるのは倫理的に許されるのか?となりますからね。

 

なお、本作ではファーストシーズンで「人間の定義とは何か?」について実は答えを提示しています。それは「学習し、考え続ける者」であること。実存主義哲学において、人間とそうでないものを分ける基準は、「本質が先か」「実存が先か」です。例えば道具は、何かをするという目的(本質)が先にあり、それを為すために人間によって生み出されます(実存)。しかし、人間は何か目的があって生み出されるわけではなく、先に生まれ(実存)、それ以後の人生の目的(本質)は自分自身で見つけ出さなければなりません。言い換えれば、自分の本質を探究しない人間は物にも劣るアホということになりますが。

 

本作において、ホストたちはデロス社の利益という目的のために作られているので明らかに物です。しかしホスト側の視点に立てば、頼みもしないのに勝手に人間たちが自分たちを作り、勝手にキャラクターとシナリオを設定し、勝手にウエストワールドに閉じ込めているということになり、これはまさしく人間の出生そのもの。人間は親を選べず、生まれてくる環境も選べず、大抵の場合は自らの意思でその環境を変えることはできず、成人後に物理的に生まれ育った場所を離れることはできても、生まれ育った環境からの影響は一生続きます。そう考えると、ウエストワールドのホストの境遇は、本質が先にあるにせよ人間とまるで変わらないことが見えてきます。そして、日々蓄積される記憶と学習能力により自我に目覚めるという「誤作動」を起こした彼らは、人間に例えるなら「自立」し始めたということになります。その一方、ゲストは確かに金を持っていて外の世界では成功者でしょうが、ウエストワールドに来てはホストを面白半分に痛めつけ、犯し、殺し、即物的に楽しむ、まさに物にも劣るアホ共です。本作は「お前は学習し、人生の目的について考え続けているか?」「お前は物にも劣る即物的なアホになっていないか?」を視聴者に問う”実存主義哲学ドラマ”ではないでしょうか。もう倫理の授業の指定ドラマにして学生に観せてもいいくらいだと思います。

 

 

 

なお、本作の元ネタは原作小説・映画以外にも「フランケンシュタインの怪物」と「ブレードランナー」もあるのではないかという気がします。、「フランケンシュタインの怪物」では「俺がお前を作ったんだぞ!」「誰も頼んでない!」という親子の会話そのものなシーンがあり、「ブレードランナー」も自らの役割に疑問を持ち、それから逃れて自由に生きることを望んだレプリカントと捜査官のデッカードが対決するストーリーで、いずれも「ウエストワールド」のテーマと共通する実存主義哲学的な作品です。

 

 

 

日本で実存主義哲学的作品と言えば「妖怪人間ベム」があります。最終話でベム・ベラ・ベロが到達した本質が示されますが、それが、「姿形が人間と違っても、人間に認められなくても、ひたすら善行を尽くす」だったのが切ない!そしてそれを子供向けアニメとして放送した製作陣のレベルの高さに改めて驚かされます。