久しぶりに映画を観ました。
スウェーデンで北欧スタイルのミニマムインテリアを学び帰国したジーンが、
物と埃で溢れ返った自宅を理想のオフィスにリフォームしようと、
年末から年明けにかけての捨て活のお話。
「使わない物は不要なもの」
と作業を進めるうちに、家族や旧友たちを巻き込み、ジーンの気持ちも大きく揺れ動いていきます。
時に停滞する作業を鼓舞するように
「ときめく捨て活」で有名な日本人女性の映像が挟み込まれるのですが(笑)、
見ないふりをしてきた自分の感情、他人の感情に想いもかけずジーンは向き合うことになります。
捨てるという行為も含めて、
見ないふりをしてきた自分の感情、他人の感情に想いもかけずジーンは向き合うことになります。
捨てるという行為も含めて、
私たちはなんて自分本位で身勝手で、自分の見たいものしか見ていないかを
痛感させられました。
「物」は自然発生的には「ここ」に存在しないのではないでしょうか。
他者との関係性、自らの行動と選択によって目の前の空間にもたらされます。
そして多かれ少なかれ、そこには自分と自分以外の他者の感情も織り込まれることでしょう。
「ときめく物だけを残す」という視点も
痛感させられました。
「物」は自然発生的には「ここ」に存在しないのではないでしょうか。
他者との関係性、自らの行動と選択によって目の前の空間にもたらされます。
そして多かれ少なかれ、そこには自分と自分以外の他者の感情も織り込まれることでしょう。
「ときめく物だけを残す」という視点も
「ありがとう」と言って捨てる行為も
結局は聞こえのいい自分本位の自己満足なのかもしれない、
結局は聞こえのいい自分本位の自己満足なのかもしれない、
と映画を見ながら私は感じるのでした。
多くの物を捨て続け、涙と笑顔で他者と向き合う一か月ののち、
多くの物を捨て続け、涙と笑顔で他者と向き合う一か月ののち、
ジーンはあえてひとりで新年を迎えるのですが
迎えたエンディングは、人生のひとつの過程、句読点に過ぎないという
私が個人的に期待していたものとは少し違った後味のエンディングでした。
私たちは生きているかぎり、傷つけたり傷つけられたり、愛し愛されたりを選んで、
それらを後にしながら前に進んでいきます。
自分で自分の人生ひとつひとつ、瞬間瞬間を選び取って生きていく。
ときめきを感じても感じなくても、感じたと思い込むにしても、
自分の選択として、目の前の現象を受け入れながら生きていくのですね。
映画タイトル「ハッピー・オールド・イヤー」。
古い過去の物(記憶も含めて)は他者の手へ受け継がれたり、少しだけ遠い見えない場所(黒いゴミ袋も含めて)へ散っていく、
それらを見送る覚悟が、新しいハッピーへとつながるであろう未来へ向かう手段であると、
最後に画面いっぱいに映るジーンの表情を見ながら、
私は息を深く静かに吸いこみ映画館を後にしました。