今、執筆中の短編小説のタイトルです。

 

 天正十一年四月二十四日、賤ヶ岳ノ合戦で敗れた柴田勝家が越前・北ノ庄城で自害します。その折に、実子だと伝わる乳飲み子の善右衛門勝春を城落ちさせたそうです。

 

 勝春は、家臣や乳母数人と共に、遠く九州の筑前・柳川に逃れて立花道雪に仕えたと伝わります。

 

 その子孫たちも、代々立花家臣となり維新を迎えました。

 

 数年前に、その現御当主とお知り合いになれ、共に滋賀県高島市にある我が家の菩提寺・幡岳禅寺を訪れ、勝家の位牌にお参りしました。

 

 その方の家に伝わる「柴田勝家像」は、勝春が城落ちした時に、形見として勝家から託されたものです。

 

 今、福井市にある福井市立郷土歴史博物館に寄託されておられます。その複製画がいつも展示されておりますので、ぜひ皆さんもご覧下さい。

 

 その勝春の一生をテーマにした小説を書いているのです。

 

 御先祖の供養になればいいのですが・・・・

 

        福井市立郷土歴史博物館のレプリカ像

 

 

 

 長沼藩佐久間家に仕え、飛び地の近江高島の浜分(はまぶん)の代官を勤めた家が岩佐家です。現在の滋賀県高島市今津町浜分の地に代官所がありました。

 

 岩佐家は、近江源氏の佐々木三郎兵衛尉盛綱の孫にあたる岩上五郎秀信の子であった、岩佐太郎右衛門信光が家祖と伝わります。

 

 永正年間に浜分に土着した信光の孫の広仲は、そこに飛び地を持っていた若狭小浜の京極高次に仕えて、大坂ノ陣の折に徳川秀忠の下で手柄を立てたそうです。

 

 その後、京極氏の国替えに伴い、新しい小浜藩主となった酒井忠勝に仕えます。

 

 寛永二年(1625)、長沼藩主・佐久間勝之は、飛び地となっていた高島の地の支配を広仲の子である広斉に任せました。また、その子・光次を長沼藩家老職としたのです。

 

 その次の光伯も佐久間家に仕えていましたが、元禄元年(1688)、長沼佐久間家が断絶し、天領となった後もその代官に仕えたそうです。

 

 小原家の御子孫同様、その岩佐家の御子孫とも数年前にお会いする事が出来、親しい交流が続いております。

 

 皆さんには、飯山の先祖たちの位牌新調の折に大変お力を頂きました。永いご縁に感謝しております。

 

 

 

 小原作左衛門久重の二男に左近右衛門久勝という人がいました。政信の弟です。

 

 この人は父の久重と共に飯山佐久間家に仕えていたようですが、寛永十五年(1638)の飯山佐久間家改易後に、会津藩主・保科肥後守(正之)に仕えたようです。

 

 その時に仲立ちしたのが、飯山初代藩主・佐久間安政の奥方・光寿院か、兄の京・金閣寺(鹿苑寺)の住持だった鳳林承章(ほうりんじょうしょう)だったようです。

 

 久勝は飯山三代藩主・佐久間勝次の近習だったようで、特別に配慮されたようです。

 

 承応二年(1653)十月、保科正之の上洛行列の先遣隊として京に来ていた久勝が、金閣寺の和尚の所へ挨拶に来ています。

 

 その手土産に木醂(きざはし)を持参しています。これは有名な会津塗の箸の事でしょうか・・・?

 

               信濃毎日新聞より