ナパーム弾の少女 | マルサの長女

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「泣き叫びながら全裸で走って来る少女。

ナパーム弾で重度の火傷を負っていました」


あんなに酷い火傷を負ったのに、生きてたんだね!えーん

ベトナムのチャンバン村にキムフックは産まれた。

テレビの表記がキム・フックになってる。笑

カメラマンのホルスト・ファース。

「ホルストは本当は必要が無い写真まで買い取っていました。

そうしておけば、スクープ写真を撮った時一番に持ち込んでもらえると分かっていたんです」


ホルストに雇われていた、ベトナム人カメラマンのフインタンミー。

後にナパーム弾の少女の写真を撮る、ニック・ウトの兄。

弟にカメラの技術を教えるが、27歳で亡くなる。


ニック・ウトは15歳からベトナムの町の写真を撮り始め、戦場カメラマンとして成長して行く。


民間人に対する裁判無しの処刑と思われた写真は、前日の夜軍の関係者を殺したゲリラ兵の写真だった。

それなら良いか照れ、ってなる!?


動画も残ってるんだ。

戦場カメラマンのパトリック・ショーベル。

「将校もある意味で処刑される事になります。

写真のせいで評判を落とし、最後はワシントン郊外のピサ店で働く事になったんです」

その程度で処刑と言う表現を使う?

差別意識の強い奴だな。


外国の軍隊が突然やって来たから戦ったのに、

「反撃した!

あれは民間人じゃなくてゲリラ兵だから処刑!」

って、どう考えてもおかしいでしょ。


ソンミ村の虐殺

「4時間もかけて容赦無く、途中で昼休みを取ってまた殺し続けた」


「アメリカ人全員に責任があります。

この戦争に反対しなければ、罪になると思います」

ランボー「戦時中は100万ドルの兵器を任せてもらえたのに!ムキー


ライダイハンの問題も残りました。


オハイオ州の大学の平和的なデモに州兵が介入し発砲、死者は4人。

反戦運動が激しくなる。


軍の多数をベトナム人に任せる、ベトナム化政策を進める。

もうさっさとアメリカに帰れよ・・・。ゲロー


キムフック「6月5日にゲリラ兵がやってきて、私達の村を占拠しました。

兵士達は地下トンネルを掘り、身を隠していました。

私の家には部隊の本部が置かれました。

その為母は、戦闘が近づいている事を知っていたんです」

母と寺院に避難した。


ニック「南ベトナム軍(友軍)がナパーム弾を使ったんです」


キムフック「走り続けないといけなかった。

でも私は立ち止まってしまった。

爆弾が4つ、こんな風に落ちて来た。

そして音がしたの、ブプブプ」


「着ていた服が一瞬でなくなって、炎が腕にまで燃え広がっていた。

右手を使って払い落としたの。

こう思ったのを覚えてる。

どうしよう、火傷しちゃった、醜くなってしまう。」


「カメラマンは、あれは撮れないと言いました。

あまりに悲惨でどうせ使えない、フィルムのムダだと」


ニックは車に少女と兄弟を乗せ、病院に連れて行った。

ニック「もし死んだら、明日の新聞に載せてやる!と言ったんです」

職権濫用。笑


「技士のジャクソンが私の写真に目を留めました。

そしてキムの写真を見て冗談を言ったんです。

何で裸の女の子なんか撮ったんだって」

自分では面白いと思ってるんだろうね。

 

アメリカ軍人「ナパーム弾を浴びて助かる者などいない。

少女が負った火傷は料理中の火事によるものじゃないか?」

1970年代でも皮膚についた成分は採取出来ると思うぞ。

よくそんな嘘がつけるよね。

男は女性の3倍嘘をつく。


皮膚科のあるバースキー・アメリカ病院への転院を勧められたが、アメリカの許可が必要だった。


アメリカ役人「その子の何が特別なんだ?

火傷を負った子は他にも大勢いる」

大勢いたらまずいのでは?


なんとか転院出来たが治療は14ヶ月に渡った。

その後村に戻り家族と暮らした。


ベトナムの民間人200万人が殺された。


アメリカ敗戦後、キムフックは北ベトナムのプロパガンダに使われてしまう。

キムフック「政府は私を探し出し、その事を触れ周りました。

その時は凄く嬉しかったけど、その内(外国からの)インタビューや撮影があまりに多くなり、勉強する時間が取れなくなってしまったんです」


「ベトナム人には屈伏するとか、権利を放棄するなどと言う考えがありません」

だからアメリカは負けた。

戦場カメラマンのクリスティーヌ・スペングラー。

カメラマンと言うよりデザイナーの様だ。


キムフックにインタビューし、背中の写真を撮らせてもらった。

傷があっても、今前向きに暮らしている事が重要なのだと思いますね。

こちらも動画有り。

キムフックはキューバに留学し、ニックと再開する。

「アンクル・ウト」

ユネスコの親善大使に就任する。


これ以降余計な写真を撮らないように、従軍記者には厳しい規制が課される様になった。