【直線論的時間観、成長神話を乗り越えて】

エレナの本の中で、ソーハンが時間について述べているくだりがあって、それが目に止まりました。

 

時間は誰にとっても尊いものですが、地球の時間と宇宙の時間でどう違うのか、そもそも、今の時間の感覚がどこからきたのか、改めて、少し掘り下げてみたいと思いました。

 

ソーハンは、時間についてこう述べています。

 

「あなたたちが直線的なものとして感じ取っている時間は、あなたたちが今転生している次元地平に縛られた感覚的な幻想なのです。時間は実はむしろ球状で、どの時点からどの時点にアクセスすることもできるのです。前もなければ後もなく、ただ今があるだけなのです」(原文英語:Time, as you perceive it in a linear way, is a sensorial illusion bound to your dimensional plane of incarnation. Time, in truth, is spherical. You can access to any point from any point. There is no “before”, no “after”, there is just “now”.)

 

これは、ソーハンが別の折に、「宇宙には始まりも終わりもなく、あり続ける存在であり、ビッグバンのような特異点(シンギュラリティ)は存在しない」と述べているのと、軌を一にしています。

 

先に確認しておくと、このことから、神が世界を創造したという神学的立場は架空の物語であったということがわかります。

 

始まりがないなら、創造した主体など実際には、存在しなかったのであり、宇宙は常にあり続けてきて、今もあって、これからもあり続けるのが、実相ということになるからです。

 

栄枯盛衰はあれども、いったん滅んですべてが終わる、のではなく、また生まれて成長しては衰えて滅んで、また生まれて、を繰り返す。成住壊空とも生住異滅とも呼ばれるプロセスです。人にあてはめれば生老病死でしょうか。

 

この円環的時間の感覚は、実は日本をはじめ東洋においては生活感としても馴染みが深いし、別段、難しい話ではありません。

 

時はめぐる。その巡る時に身をまかせる、というのは、そんなに恐ろしいイメージではない。

 

輪廻転生というのも、生まれて死んでの繰り返しであり、銀河の仲間も皆、reincarnation(転生)というタームをふつうに使っています。

 

エレナも、プレアデスのエラで生を受けていたけれども、今は地球の覚醒のために「転生」してきたということで、過去世以来の「縁」でソーハンとはつながっているようですね。

 

では、ソーハンが指摘する、地球文明で常識とされる「直線論的時間」の観念はどこから生じてきたのか。

 

上にすでに有力な仮説を示唆しているように、それこそが、創世神話だったのではないかと考えられます。

 

世界には始まりもあれば、終わりもあるはずだ。それはわたしたちが生きて死ぬまでの時間が一定の長さで限られているのと同じだと。

 

そこから、時間というものが、円環よりもむしろ一定の長さを有する線分のイメージで、定着していくことになります。

要するに、西洋文明的時間意識のソースとして、聖書と創世神話、そして、それを支える神学があった。

 

それが神話、文学、思想や哲学に影響を与え、学問的にやがて生物学、経済学における中心学説をも派生させていったのではないか。

 

この時間意識が、また日常の生活感覚にも深く浸透してくるのは、もちろんのことです。

 

今、試みに思いいつくままに、聖書の創世神話からスタートして、連想ゲームのように、「始まり」と「終わり」をふくむ「時間」の観念に関連する概念を、いくつか挙げてみましょう。

創造神話、終末思想、ハルマゲドン、磔刑と復活。
すべてが始まりと終わりのエピソード。復活は終わりのあとの再びの始まり。

 

ギリシャ神話の時間の神クロノスは、文学的象徴としてはGrim Reaper“死神”のイメージ。黒いフードをかぶって鎌を背負ったあの悪魔の遣い。時間がくればお前の命を摘み取ってやる、という脅迫観念の起源。

 

「時間」が、どんどん、おどろおどろしくなっていく。

 

西洋哲学で有名なのは、あのハイデガーの死へ向かう「現存在(=人間)」。

 

直線論的時間感に支配された、死にゆく存在の煩悶、と思えなくもない。

 

主な著書は「存在と時間(Being and Time)」。

 

生物学では、進化と生存競争と自然淘汰が、まさに直線論的時間によって展開するストーリー。

 

これを社会的ダーウィニズムへ展開すると、優生思想、人口削減へと容易に接続される。

 

淘汰に耐えられない劣等種は、あらかじめ消去するのが世のため人のためだ、という邪悪な思想の起源がここにある。

 

参政党あたりで人口削減を容認する輩など、その末裔というべきではないでしょうか。

 

経済学的には、成長神話、GDP志向があるが、その土台の仕込みとして、マルクス流の資本論が、対価としての賃金と交換される労働、という思想を世界に撒き散らす。

 

これがのちに、タイムカード、時給、月給、年棒、ボーナスという「時間奴隷」の装置を生み出していく。

 

これらが実は「借金」「利子」「担保(没収)」の換言に過ぎないということに、人類一般はなかなか気づかなかった(今、この点も、ようやく覚醒を遂げつつある)

 

無自覚な時間奴隷制度の誕生。

 

奴隷制度+洗脳支配が、地球人類の置かれた現実であった。

 

チャップリンが描いたモダンタイムズ、工場の車輪のあいだをチャプリンがぐるぐるとひきずられていく。

 

実験用のネズミがぐるぐる走り続けるのと、かわらない。

 

経済で「成長」が当然の前提になってしまうと、必ずその「限界」が指摘されるようになる。それが危機として煽動される。

 

「成長の限界」(ローマクラブ)は、グローバリズムの地球一元支配のバイブルともなった。

 

今の脱炭素社会などの似非環境運動をも生み出し、優生思想の論拠ともなって、トランスヒューマニズム的な人類種抹消イデオロギーとして、今に隠然たる(否あまりに白昼堂々たる)影響をもたらす。

 

などなど、直線論的時間論の影響は、まさに世界を覆っているというのが現実です。

 

時計の針がまわるのは、12進法360度で、これは惑星の公転と自転からきているものです。

 

一周は360度。

 

ですから、惑星の公転周期で1年の長さが決まり、自転周期で1日の長さが決まる。

 

空間内における相対的な位置の変化を、変換記述したのが、時間であれば、時間が球体である惑星の運動に依存しているのは、自然の摂理です。

 

それはまた、時間を語る言葉がほとんど空間比喩で成立することの説明ともなります

 

「時間が短く感じる」は基本ですが、「トイレが近い」は応用例です。

 

ただ、この自然の営みに発する時間を円環的にとらえればよかったものを、そこに創世神話が入り込んできていたために、直線論的に捻じ曲がってきてしまった。

 

時計の発明も、本来、日時計から来ているでしょうから、やはり円環のイメージを即物的に維持していたはずです。アナログ時計もやはり円環のイメージなのです。

 

しかし、そこに後日、たとえばデジタル表示などが出てきてしまって、その意識もまた薄らいでしまっているということでしょう。

 

モダンタイムズでまわる歯車は、すでに健全な惑星の運行のイメージではなく、時間に縛られた機械の歯車になってしまっていた。


以下、蛇足です。


以前、英和辞典の執筆をお手伝いした折に、timeの記述をしていて、「時間」と「時」について改めて考えさせられたことがありました。

 

イメージとしては、「点」「線」「流れ」「量」の4つが支配的です。

 

timeと「時間」と「時」
点的イメージ(例.Now is the time to stand up! 今こそ立ち上がる時だ)
線的イメージ(例.for a long time長いあいだ)
流れるイメージ(例.Time flies like an arrow. 光陰矢の如し)
量的に計るイメージ(例.Time is money. 時間はお金である)

 

ちなみに、最後の例は、ふつう「時は金なり」と訳されますが、それだと、金がゴールドのように思えてしまって、別の話になってしまいます。

 

英語の感覚としては、もちろん、ゴールドではなく貨幣経済のお金を意味しています。だから、「時間はお金である」が正しくて、奴隷経済的時間観を意味する表現です。

 

ひとつの気づきとして、日本語でそもそも、「時間」と「とき」には違いがあるということ。

 

「時間」は、量的に計測可能で、線分として把握されやすい。

 

「とき(時)」は、流れるもの、自然や生きとし生けるものの営為がなされる刻みまたは砌(みぎり)。

 

そもそも、「時」は、直線論的ではない。自然の営みの汀(みぎわ)を感ずる折節なのです。

 

だらだらとまとまりなく、すみません。そろそろ、まとめます。

 

現代文明を支配してきた奴隷経済的時間、それは人類洗脳支配を開始した創造神話に基づく直線論的線分的時間感覚に支えられていた。

その「時間」よりも、むしろ、自然の営みとのつながりを重視する「時(とき)」の感覚を大切にしたいと思います。

 

とはいえ、ソーハンがいうように、球体的に時間をイメージするのは容易ではありません。まったくイメージ不能とも思えます。

 

そこで、ひとつの入り口として考えられるのは、「今」を極大化するというアプローチです。「今」には、一定の長さがない。「一瞬」でも、ひとつの「時代」でも、「今」なのです。

 

そこで、自分の今を可能な限り未来へ、過去へと引き延ばしてみるのです。

 

自分の人生の前も後ろも含めて。

 

そうすると、「今」が「永遠」に近づいていきます。

 

「一瞬即永遠」の視座が(理論上)可能になります(実感できるか否かは主観的判断に委ねるほかありません)。

 

そして、これが実は、直線論的な線分のイメージではなく、地球が球体であることと同様に時間が球体のイメージである、ということを意識すると、なんとなく、この「今」から円環する時間を、伸縮自在なイメージで、捉えられるようになっていくのではないか。


地球で一方向に進むと、原点に回帰します。球体だからです。

 

時間もまたしかり、なのではないでしょうか。
 

兎に角、自らに与えられている「時」を改めて噛み締めながら、日々を生きていきたいと思います。