【中空システムとしての貨幣と神学】

キリスト教正統神学とされるアタナシウス派三位一体説がローマ帝国の政治支配を支えたというのは、記憶が正しければ、ダン・ブラウンの指摘以来、一般にも知られるようになったと思います。

 

神と子と精霊を一体とみなすことでキリストの人性を神性に昇華させたことは、帝国版図拡大を支えつつ世界宗教としての普遍性を強化していったように感じられます。

 

世界宗教としてのキリスト教と民族宗教としてのユダヤ教。

 

この対立も気になりますが、しかし一方で、ユダヤはキリスト教の世界布教を表看板としながらその懐に常にあって世界進出を果たしたようにも見受けられます。

 

その民族がまた金融システムの生みの親でもあることもある種不思議な(しかしまた必然的な)符号です。

 

どこで読んだか記憶が定かでないですが、銀行とはそもそも神官が使える神殿であったと。貨幣に価値をもたらすのは所詮、人間の信用(クレジット)であるという点と、神に存在価値を与えるのが人間が抱く畏怖の念であるという点。不思議な符号を見出す思いです。

 

そして、畏怖の念が増せば信仰はより抗い難くなる。これが政治支配に援用されやすいのもきっと確かなことでしょう。

 

そこに神の神聖性と生贄の儀式のつながりも自然と(しかし政治的にであって神学的にとは言い難いかもしれません)理解されるようにも思います。

 

そのことを民族の起源から知悉してしまったのがユダヤの民(当初からエイリアン系の乗っ取り対象として目されていたか)ということであったようにも思います。

 

異端とされた景教の立場から、正当教義の形を借りてその内実を差替えるということは、迫害を逃れて彷徨してきたことを思えば、十分に有り得たことかもしれません。

 

正当神学に対する異端としての景教と、教会成立以前のユダヤ教と連続性を有する神学体系の相関や相克の問題です。

 

金融システムの象徴である紙幣などを見ればピラミッドや全能の目など基督教正当神学が禁忌とする意匠が散見されます。

 

むしろこれはダヴィンチコード的な話題かもしれませんが、ユダヤ教徒はユダヤ人から金利を取るのを禁じられていた故に、貨幣を特殊の券に換えていた。

 

本来、使用価値が希薄な貨幣に潜在的な交換価値を入れ込む通貨システムや国家が中央銀行を通じて国債発行に伴う利子を増大させるシステムなど、現代にいたる甚大な影響をそこに感じずにはいられません。

 

中枢部分は真空のシステム(紙幣は紙っぺら)のはずが金利という不可避的に随伴する犠牲がそのシステムに至高の価値をもたらす(ように感じられる)。このような経済システムを構想できる民族がいたとすれば、それを思想面においても応用していたと考えることは不自然ではないとも思います。

 

つまり、中枢部分は真空のシステム(創造神は想像神に過ぎない)のはずが生贄の儀式などの不可効力的に随伴する犠牲がその信仰システムに至高の価値をもたらす(ように感じられる)。

 

そのように想像力を膨らませながら考えますと、正当基督教神学(アタナシウス派)により迫害を受ける異端としての景教と、その正当神学を隠れ蓑としてそれを利用した神学体系(ユダヤ教を中心とする)というものが、かなり劇的な類縁関係をと浮上させるようにも思われます。

 

後者は、表看板とは裏腹のバチカン、イエズス会、メーソン、イルミナティなども関係するかと思われます。ルシフェリアンとも称される後者の範疇は旧約の記述によれば、カインの末裔として自らを位置付けるという指摘もあるようです。

 

諏訪神社における御頭祭(幼少児童を短刀で刺すことを模す生贄儀式)などは、この後者の系列の秘儀であろうと推測します。

 

それはバール神などともつながっていたでしょうし、バチカン地下のモロク像などもその類と思われます。

 

これらは決して人々に公開してはならない儀式として伝えられていく。

 

一方、三位一体の活釈などは、正当神学 VS 少数派神学の対立図式の中で、後者の陣営が智慧をめぐらせて編み出した、面従腹背の産物と捉えられるのではないでしょうか。