【エンリル系ヤーウェが神道の背後にいた可能性】

今、新時代到来へ向けて、いろいろなジャンルで過去の精算を行いながら、未来へ向けて夢を膨らませたり、構想を語り合ったり、心構えを固めたりする時期にあたっていると思います。そういう趣旨で、今後とも、皆様と情報の共有が続けられたらと念願しております。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて、そのような新時代構築への準備において欠かせない側面として、精神的思想的な面における振り返りがあります。そのことの一環として、少し掘り下げてみたいと思いました。一般に認められていない説が多々含まれているかと思いますが(例えば歴史学会ではすべて“陰謀論”扱いするだけでしょう)、相応の真理が含まれているのではないかと感じております。アマテラスの暗号、マイケル・サラ博士、エレナ・ダナーンなどを参照しています。

 

日本の国体、国家のあり方との関連で、よく、神道は多神教が前提だとか、西洋流の一神教創造神とは別の系統であると言われたりするのですが、その点、検証が必要であろうと以前から感じておりました。どうも、国づくりのプロセスに遡っていくと、やはり、そこに一つの共通した起源のようなものに辿り着くような気がしております。以下、その点についての走り書きになります。

 

神社庁管轄の神社数は約八万社、管轄外を含めると約十二万社。そのうち最多の二つの系統は、八幡神社四万社(総本山宇佐八幡)と稲荷神社三万社(総本山伏見稲荷)で、日本の神社の半数以上を占める。いずれも、創始は秦氏。ちなみに、秦氏の本拠地京都にある八坂神社は全国に二千九百社ある、ヤサカやイヤサカからきており、ヘブライ語で「ヤーウェ偉大なり」を意味する。秦氏はもちろん、ユダヤ系であり、日本の過半の神社がユダヤの神を崇拝の対象としてきたことを示唆している。

 

八幡とはハチマンともヤハタとも読む。ヤハタこれはヤフダから来ており、その意味するところはユダであり、これは南ユダ王国のユダ族を示す。一神教を信奉していたユダヤ系の民であった。

 

一方、稲荷とは、キツネが好物とするお稲荷さんのことではない。お稲荷さんは、ただの連想から生じたもので、そもそもキツネですらない。キツネと思われるのは、実は、狛犬であり、それも元来は、獅子と一角獣だった。実際に、一角獣の角が残っている神社もある。この獅子と一角獣はロスチャイルドの家紋と通じる意匠である。これと関連して、鳥居の2本の柱はフリーメイソンの2本の柱に梁を加えた形に相当している。実際に、2本の柱の中央に注連縄をかけただけという神社もある。

 

稲荷は、INRIの音写からきている。祇園もシオンの音写。INRIとはユダヤの系統を汲む原始キリスト教以来、イエスを崇拝する文字であり言葉である。IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)の頭字語(アクロニム)。イエスが磔刑に処された際に十字架の上に掲げられた罪状とされるが、信者にとっては崇拝の対象を意味する。言うまでもなく、神と子と精霊の三位一体というアタナシウス派”正統”神学が前提だ。この正統とは要するに異端を抹殺するという意味でしかなかったのだが(→異端審問、魔女狩り等参照)。

 

イエスを神に祀りあげたのは、勿論、イエス本人の意図とは関係ない。彼はエンキ由来の優れたDNAを有するヒトとして生きる「人の道」を示したかったのだろうが、それを「神の道」として悪用されたのだ。それが邪悪な影を落とし続けてきたのが世界の歴史だった。利用したラスボスは究極、アヌンナキのエンリルである。「エンリルは、邪悪な存在として、ディープステートの背後にいて、彼の一味とともに全ての闇の宗教を創造した」とは、エレナ・ダナーンの言葉である。エンリルとは、聖書の神、嫉妬と支配欲と復讐心旺盛なヤーウェを演じた張本人であった。そこに人身売買、悪魔崇拝、異端虐殺、宗教戦争等がまるで神意の顕現であるかのごとくに展開されたてきたのであり、その余波はもちろん今現在にも及んでいる。

 

この展開の一派生経路が、例えば、失われた十支族も含めて渡来したユダヤの民が創始した日本の神社のしきたりなどにも現れていたのだろうと推察される。故に、たとえば、伊勢神宮ともつながりの深い諏訪大社の背後にはモリヤさんをもした守屋山がある。モリヤ山はヤコブが我が子イサクを生贄に差し出すよう(邪悪な)神に求められたところだが、守屋山の麓で行うその儀式は幼い子供の四肢を縛りつけて短刀で刺す(場面を模した)儀式である。神に捧げる生贄の儀式を正確になぞるものであり、それを神への忠誠として称揚している。これが日本神道中枢の神社に受け継がれる秘儀なのである。そのことの意味は改めて熟考すべきであると思う。

 

生贄儀式を正当化する宗教とはいったい何であろうか。

 

それは人間のための教えなのではなく、人間をコトバの正確な意味で“喰い物にする”側の種(人類ではない)が、その宗教を人類の洗脳支配のために利用してきたという争い難い証拠と言わざるを得ない。

 

今ひとつ興味深い事例として、天皇家に伝わるとされる大嘗祭がある。これはどうやら、天皇が神と一対一の対話状況で、食事をとり神の床に添い寝をして起き上がるという儀式であり、他者の介在を挟まないという独特な儀式であるようだ。

 

その意味するところは、キリストの復活に自らをなぞらえてそれと一体化することを狙いとしている。食事は最後の晩餐を意味し、添い寝は一度磔刑により滅びるが起き上がることによって復活を示すということのようで、それを自らが身をもってなぞることを意味していたようだ。神道を統べる立場にあった皇室の伝統行事にも一神教の三位一体を前提としたイエス崇拝が流れていたようだ。その背後にいたのが、ほかでもないエンリル系のヤーウェであったろうことは想像に難くない。

 

日本の神道には、八百万の神が関連するものもあると思われるが、その中枢部分は、むしろ古代ユダヤ以来の一神教創造神の世界と相通ずる要素が濃厚である。その背後にアヌンナキのエンリルがいたであろうことは、ほぼ争い難いというのが現段階での印象である。

 

新時代構築において、日本の精神史の振り返りはとても重要ですから、今後も、折にふれて、考えていきたいと思います。

 

それでは、皆様、未来を構想しながら過去を振り返る、時局を追いながら内面に静寂を求めるという精神のしなやかさを大切にして、日々過ごして参ろうではありませんか。