本日八日拝読の御文は、『三大秘法抄』の一節でありました。

 

『三大秘法抄』は、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の三大秘法の内実について、初めて明確な仰せがくだされた御書と記憶しております。

 

改めて紐解いてみますと、この御書も問答体で書かれておりまして、「問ふ」→「答ふ」の応答が六度出てくるようであります。

冒頭、第一問答で、法華経神力品の結要付属における「要言の法」とは何かとの問に対して、「寿量品の本尊と戒壇と題目の五字」すなわち三大秘法であると断定あそばされております。第一問答で、ずばり三大秘法が説かれております。

 

次の第二問答では、弘通の時期が問われ、それは末法であると答えられます。

 

第三問答では、正像末の三時があるのに、末法だけとは、教主釈尊の慈悲が偏っていないかとの疑難が呈され、それに対して、時代に応じて衆生を救う法は異なるのだ、との答が述べられます。

 

この第三問答の答が、以下、本日拝読の箇所に当たっておりました。難解ですが、全体の流れがつかめますと、会通の糸口が見えてくるような気がいたしました。

 

時代に応じて教法は異なるという主旨を踏まえて、拝してみたいと存じます。

 

御聖訓一読集八日『三大秘法抄』

「諸仏の和光利物(わこうりもつ)の月影(つきかげ)は九法界(くほうかい)の闇を照すと雖(いえど)も、謗法(ほうぼう)一闡提(いっせんだい)の濁水(じょくすい)には影を移さず。正法一千年の機の前には唯(ただ)小乗・権大乗(ごんだいじょう)相叶(あいかな)へり。像法一千年には法華経の迹門機感(きかん)相応(そうおう)せり。末法の始めの五百年には法華経の本門前後十三品を置きて、只寿量の一品を弘通すべき時なり」(御書1593頁)

 

和光利物(わこうりもつ)とは、和光同塵(わこうどうじん)とも言われるようでありますが、仏菩薩が威光を和らげて、世の人と同じ姿をして俗世間に現れることのようでございます。実に有難いことであります。ちなみに、そのような仏菩薩を、どうせ同じ人間にすぎないだろうなどと考えるのは、不知恩と慢心と誹謗にもあたるように思われます。

 

日蓮大聖人様は、示同凡夫(じどうぼんぶ)のお姿で、衆生救済のため究極の教えを説かれました。それもやはり和光同塵と呼ばれると思いますが、上の御文では、爾前迹門の仏の御化導のことを指して言われているようであります。

 

正法時代には小乗・権大乗、像法時代には法華経迹門が説かれるわけですが、それらは「諸仏の和光利物の月影」にあたり、それでは、太陽の光には及ばず、謗法一闡提の衆生は救えない。しかし、末法に入れば、本門寿量品の教えが衆生救済の法として説かれるのであると。

 

ただし、ここで「本門」とは、文上の本門ではなく、文底独一本門のことと拝さねばなりません。

 

残りの三問答の流れをみますと、

 

第四問答にて、寿量品一品だけが末法濁悪の衆生の為との文証を確認され、

第五問答にて、三大秘法の内実が明かされます。本尊とは、題目とは、戒壇とは、と。

最後の第六問答にて、「一念三千」の証文を、方便品と寿量品から示されます。

 

が、もっとも肝心のところは、やはり、神力品結要付属の要法(要言の法)が三大秘法である、との御指南かと思われます。

 

その三大秘法とは、上行菩薩様が釈尊から付属された法でありますが、それは末法においては御本仏日蓮大聖人様が行じられる三大秘法であり、それはまたそのまま、久遠元初におけるところの三大秘法なのであるとの仰せが、この『三大秘法抄』の中に出てまいります。

 

第五問答の答にいわく、

「此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界(じゆせんがい)の上首(じょうしゅ)として、日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決(ぐけつ)せし相承(そうじょう)なり。今日蓮が所行は霊鷲山(りょうじゅせん)の稟承(ぼんじょう)に介爾(けに)計(ばか)りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり」と。

結要付属の要法とはすなわち三大秘法であり、それは今、日蓮大聖人が行じられる寿量品の三大事なのであると。「色も替はらぬ」とまで仰せであります。まったく同じであると。

 

それに先立ち、第二問答の答にいわく、

「夫(それ)釈尊初成道より、四味三教(しみさんきょう)乃至(ないし)法華経の広開三顕一(こうかいさんけんいち)の席を立ちて、略開近顕遠(りゃくかいごんけんのん)を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得(じっそうしょうとく)の当初(そのかみ)修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」と。

 

「当初」とは「元初」と教わるものであります。故に、「実相証徳の当初」とは、釈尊本果妙の成道ではなく、それよりさらに本因に遡る、本果妙ではなく本因妙の、久遠元初における下種本因妙の仏様の因果倶時のお悟りの砌のことであり、そこで修行された法門こそ、やはり、寿量品の本尊と戒壇と題目の三大秘法であるのだぞとの仰せであります。

 

(この点、法華経が先にあって題目が生じるという具合に歴史主義的に考えますと理解不能と思われます。御法主日如上人猊下が仰せのごとく、下種の妙法が根本にまずあって、そこから法華経が生じてくるのであると捉えねばならぬと拝します。久遠当初すなわち久遠元初であるにもかかわらず「寿量品の」と仰せられるのは、久遠元初の自受用報身如来を文底下種の「釈尊」と呼ばれることと通じていると思われます)。

 

久遠元初

神力品結要付属(釈尊説法の会座)

大聖人様御在世

 

ここを貫く不滅の法体こそ、三大秘法であるとの仰せと拝し奉るものであります。久遠即末法の御指南を思い起こし、末法で正法に巡り会えることの畏れ多いほどの有難さを思わずにはおられません。

 

今年(令和二年)に入り、ひとつ決意していたことがありました。

 

昨年九月に御遷化あそばされた日顕上人への御報恩を万分の一でも果たすべく、以前、『百六箇種脱対見拝述記』の拝読を途中で挫折してしまいましたので、年頭にその改訂版を購入し、どれほど難解でも、せめて通読させて頂こうと決めました。

今、日々少しずつもがきながら拝読を行なっているところであります。この上なく難解ですが、少し見えてきたこともございます。

 

その一端。本門と独一本門の違いは何か。迹門の一念三千は理、本門の一念三千は事。ただし、これは文上の所談であり、文底からみれば、いずれも理の一念三千、文底下種こそ真の事の一念三千。そこに独一本門があるとするならば、それをこそ「本」と呼び、文上の本迹はいずれも「迹」にあたる。かくして、文底下種を「本」、文上脱益を「迹」として(=種本脱迹)、権実、本迹、種脱の三重秘伝の法門を中心に縦横無尽に説かれたのが『百六箇抄』であり、その前代未聞の解説書が日顕上人御著述の『百六箇種脱対見拝述記』であると拝し奉るものです。

 

今日拝読の御文との関連で、「脱の四十二」と「種の四十六」の対見拝述の部分が、目にとまりました。

そのうち、種の四十六における「流通を本と定む」とのくだり、日顕上人の解説に、以下のお言葉がございます。

 

・・・・・

 

故に本尊七箇相承に云く、

「流通分の大曼荼羅」云々と。

この文は、下種の法体・南無妙法蓮華経を大曼荼羅本尊と仕立て給うことを以って、末法流通の正体なる意を示し給うなり。則ち宗祖大聖人の本門弘通の体は、(中略)妙法大曼荼羅本尊なり。これ久遠元初の法体なるが故に本にして、釈尊本果の上の本尊は迹となる。併して能詮の内証の寿量品一品二半たる正宗分より、所詮の妙法本尊を末法万年の流通として開き給う故に、「流通を本と定む」と決判せられたるなり。

 

・・・・・

さらに研鑽を深めて参りたいと存じます。