平成二十八年御聖訓一読集三十一日『開目抄』

 

『開目抄』

「されば日蓮が法華経の智解(ちげ)は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はおそれをもいだきぬべし」(御書540頁)

 

上の一節について朝勤行にて御法話を賜りました。以下、そのメモから記させて頂きます。

 

前半は、法華経の理解、ご法門についての智慧と理解は、『法華文句(もんぐ)』『法華玄義(げんぎ)』『摩訶止観(まかしかん)』を顕された天台大師、その応作(再誕)である伝教大師には、及ぶべくもないと、謙遜されているわけであります。この御書の前段を読みますと、そういった天台伝教等が何をしてきたかといったことが書かれているのであります。

 

一方、後半では、難を忍び慈悲のすぐれたることは、おそれをもいだきぬべし、とございますが、これは、大聖人様が大難四ヵ度といわれるような難を堪えられて、慈悲深いことはまったく他の比較をゆるさないほどであり、おそるべきであると言われているのであります。

 

悪口罵詈(あっくめり)、刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)、数々見擯出(さくさくけんひんずい)、等の法華経(勧持品(かんじぼん))に予証された大難を身読(しんどく)され、それを忍びつつ衆生救済の慈悲の振舞を貫かれたのは、大聖人様おひとりである、との仰せでございます。

 

これも、このすぐあとの御書の内容を拝しますと書かれてあることでありますけれども、もし、大聖人様が、法華経に予証されているこれらの難を身読されなかったならば、法華経は虚妄(こもう)となり、仏(釈尊)が嘘をついたということになってしまうわけであります。大聖人様が御出現あそばされて、これらの難を身読されたからこそ、釈尊の予証も真実となり、御仏の衆生救済が真実のものとなったのであります。

 

われわれも大聖人様の弟子檀那として、正法を弘めていけば、折伏していけば、必ず難に遭うわけでありますけれども、大聖人様がそれらをすべて耐え忍び乗り越えられたように、われわれも難に遭っても決して怯む事なく耐え忍び乗り越えていくことが大切であります。

 

御法話を賜って後、御書の前後を拝し、確認させて頂きました。

 

「開目抄」は、五大部の一つで、(上)(下)に分かれているほど、大変に長い御書であります。最初から最後まで通して読むのは、とても大変なことです。

 

折角の機会でしたので、『日蓮正宗要義』を繙いて、改めて、主旨を確認させて頂きました。

 

「開目抄」は、古来、宗門では、「教の重」とされる御書。それは、五重の相対により従浅至深(じゅうぜんししん)して、それぞれの主・師・親(しゅししん)を示されるため。

 

「開目抄」の冒頭は、このように始まります。

 

「夫(それ)一切衆生の尊敬(そんぎょう)すべき者三つあり。所謂(いわゆる)、主・師・親これなり。」(御書523頁)

 

ちなみに、五重の相対は、一般に、「内外(ないげ)相対」「大小(だいしょう)相対」「権実(ごんじつ)相対」「本迹(ほんじゃく)相対」「種脱(しゅだつ)相対」のことですが、「開目抄」の中で具体的に展開されるのは、内外・権実・権迹(ごんしゃく)・本迹・種脱の相対です。

 

そして、「開目抄」は「人本尊開顕の書」ともされます。これは、究極の主師親の三徳を具備された末法の一切衆生有縁(うえん)の仏は、法華経の行者日蓮をおいて他にないということが、記されているためであると拝されます。

 

結文に、いわく、

「日蓮は日本国の諸人には主師(しゅし)父母(ふぼ)なり」(御書577頁)

 

「開目抄」といえば、いくつも有名な御文があります。そのうちの一つに、

 

「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然(じねん)に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかされ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑ひををこして皆すてけん、つたなき者のならひは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし」(御書574頁)

 

愚か者の習性として、約束していたことを、いざというときに忘れてしまうのだよ、と我々を戒めてくださっています。

 

ここで思い浮かぶ御書として、『此経難事書』(御書775頁)がございます。『四条金吾殿御返事』です。此の経を持つ者は難が来ると心得て持ちなさい。憶持不忘(おくじふもう)の人、片時も忘れることなくこの法を持つことができる人は稀ですよと。

 

ほとんどの人が、いざというときには、大切なことを忘れてしまう。難が来ると、あたふたしてしまう。嘆いたり、愚痴をいったり、不信を抱いたり、信心が弱まったり、退転したりしてしまうのですよと。

 

『種々御振舞御書』のあの有名な一節も思い起こされます。

 

「不覚のとのばらかな、これほどの悦びをば笑えかし、いかにやくそくをばたがえらるるぞ」(御書1060頁)

 

これは大聖人様が、竜口の首の座で太刀取りが今にも刀を振り下ろさんとしているそのときに、殉死の覚悟でお伴していた四条さんが、只今なり、と泣きながら声をあげられた。それを制して、仰せになられたお言葉でございました。

 

御本仏大聖人様のあまりに崇高な御境涯に畏れおののくほかありません。が、また、このように、大難を忍び乗り越えられて、衆生救済の慈悲行たる折伏のお振舞を貫かれる、その大聖人様のお姿を拝するとき、その弟子檀那たらんとする自分自身に、どれほど難を忍ぶ覚悟があるのか、それはいざというときに、あたふたしないだけの強固な覚悟であるのか。また、そのような難を受けてでも、衆生救済を貫く覚悟があるかということであります。

 

御当代御法主上人猊下が、「寝ていて、遊んでいて幸せという人は、本当の幸せを知らない。山坂を越えたところにこそ、本当の喜びがある(主旨)」という御指南をくださっておりますが、難を乗り越えていってこそ、本当の信心の喜びが得られるとの仰せなのでございましょう。

 

難を避けて安逸を貪るのではなく、むしろ難に立ち向かい、難を乗り越える、そういう境涯を目指して、信心修行をしていきたいと念願致します。