平成二十八年御聖訓一読集『妙心尼御前御返事』-病、薬、医師について-

 

以下、3年前のノートに少々編集を加えて紹介させて頂きます。情報として旧くなっている部分がありましたら、ご容赦頂けましたら幸いです。

 

たまたまついていたテレビに目をやると、渡辺謙さんのガン早期発見、手術のトピックでした。

 

奥さんに薦められて人間ドッグに行ったら、早期発見できて手術したと。

 

解説で統計が出てきて、人間ドッグを受けている男性は45%程度、女性は30%にも満たない。一番発見し難いのは早期ガンだから、人間ドッグに行きましょうと。メッセージはそこにあるわけです。

 

ですが、人間ドッグがあるのは実は日本だけらしいですし、また、テレビのスポンサーには製薬会社等の医療関連業界が名を連ねているという事実も忘れてはならないでしょう。

 

私自身は、医術は慎重に選択して信頼に足るものを活用するという立場です。

 

その点、大聖人様の御書における仰せはどうなのか、大変に気になるところです。

 

たしか、今月のお講で、「医療」「病」「薬」等に関わる御法話をうかがったように記憶しております。

 

『妙心尼御前御返事』の以下の御文でした。

 

「この仏不死の薬を説かせ給へり。今の妙法蓮華経の五字是なり。しかもこの五字をば『閻浮提人(えんぶだいにん)、病之良薬(びょうしろうやく)』とこそとかれて候へ」(御書900頁)

 

不死とは、実際に死なないという意味ではなく、過去・現在・未来を貫く「三世の生命」を自覚することであると以前教わった覚えがございます。

 

妙法蓮華経こそ、末法の一切衆生救済の大良薬であるとの御金言であります。

 

関連事項メモ)

 

キーワード:「病」「薬」「医師」

 

ということで、今回は、「病」「薬」「くすし(医師)」について、掘り下げてみたいと思いました。

 

現代社会は、本当に、薬づけといっていいほど、薬物に依存していますね。

 

一定の年齢になって、病院に通って、薬を処方されていない人の方が珍しいくらいです。

 

日蓮正宗の教えは、医術を決して否定しない。それは確かです。その点をまず確認しないわけにはいかないと思います。

 

以前、江戸時代だったでしょうか、時の御法主様が、ある篤信の御信徒から、「信心強盛であれば医術に頼るのはおかしいのではないか、信心によってこそ病を乗り越えるべきではないか」というそういう主旨のお手紙がありまして、それにお返事をされたのです。

 

そこで、御法主様は、たしか、以下のような主旨でお答えになられていたと思います。

 

「富士門流(日蓮正宗大石寺の教え)では、医術は決して否定しない、信心を根本とするが、効果的な医術をも活かしていくのが、当門流の捉え方である」と。

 

変てこりんな新興宗教などは、えてして秘儀やら呪術やらで治すんだとかいって、医術を全否定することがあります。が、それは、明らかな邪義であり、間違いでありましょう。

 

ここまでは、基本原則の確認であります。

 

が、問題はここから先です。というよりも、現代的な世相をふまえての問題意識が生じてくると言うべきでしょうか。

 

つまり、謗法充満の故に、世相の乱れが医療の現場をも乱してしまっていたとしたら、ということです。

 

日蓮大聖人の御金言を通じて、このことを改めて考えてみたいと、そのように感じた次第であります。

 

● 「身の病」と「心の病」

 

大聖人様は、病には「身の病」と「心の病」があると仰せです。

 

「中務左衛門尉御返事」にいわく、

「夫(それ)、人に二病あり。一には身の病。所謂(いわゆる)地大百一・水大百一・火大百一・風大百一、已上四百四病。此の病は治水・流水(るすい)・耆婆(ぎば)・扁鵲(へんじゃく)等の方薬をもって此を治す。二には心の病。所謂(いわゆる)三毒乃至八万四千の病なり。仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし」(御書1239頁)

 

地水火風は四大とも言われ、法界の構成要素でもありますが、身体の構成要素でもあります。

 

地は骨格等。水は体液系。火は熱、体温。風は呼吸器系。これらが不順であることが「四大不順」で、それは身の病の異名でもあります。

 

その地水火風に関連して起こる「身の病」は、名医が処方する薬で治る。しかし、「心の病」は、仏様にすがる以外に治す術はない、との仰せです。

 

● 「病の起こる因縁」の六種

 

関連する御書として、『太田入道殿御返事』が有名です。

 

大聖人様は、『摩訶止観』(第八)を引かれて、以下のように御指南されています。

 

「『病の起こる因縁を明かすに六有り。一には四大順ならざる故に病む、二には飲食(おんじき)節せざる故に病む、三には坐禅調はざる故に病む、四には鬼(き)便りを得る、五には魔の所為(しょい)、六には業の起こるが故に病む』」(御書911頁)

 

「坐禅」とは心身の姿勢が整っているかということと拝します。「鬼」はウィルスやバクテリアの部類でしょうか。「魔」は仏道修行に励もうとするとそれを邪魔しようと起こってくる。「業」は過去世以来の悪業の影響ですね。

 

四大不順、飲食不節、坐禅不調、鬼、魔、業。これらの六種が、病の因縁としてあるとの仰せです。

 

これらのうち五つまではしばらくおくとして、第六の「業病」。これが最も治し難く、それを治すのは妙法の大良薬以外にないと。

 

ここまでの内容の要約を試みますと、以下のようになるかと思います。

 

日蓮大聖人の教えでは、信心根本であるが、病に対しては、効果的な医術があればそれを否定せずに活用する。ただし、薬で治せる病とそうでない病があり、薬で治せない「心の病」「業病」は、妙法の大良薬による他ない。

 

● 「仏(医師)」と「衆生(病人)」;十種の医師

 

法華経寿量品に「良医の喩え」がありました。

 

良医としての仏様が、悪業の罪障によって苦しむ衆生を病から救う。その薬こそ、妙法蓮華経の大良薬であると。

 

このように「仏」と「衆生」を「医師」と「病人」にみたてる喩えを借りて、天台大師は『法華文句』の中で、医師の資質を十種に分けて説明されています。

 

以下は、『寿量品説法増補版下巻』で御隠尊日顕上人猊下の解説に依る内容です。

 

第一の医師:病を治療してもかえって増加して減少することがなく、はなはだしきは病人を死に至らしめる。

 

第二の医師:病を治療するに、その病がいささかも治らないけれども、しかし進むこともない。

 

第三の医師:病を治療してその病を減少せしめ、一往の治癒に導くが、表面的な治療であるために、治ったかと思うと、また次に同じ病が再発して安定しない。

 

第四の医師:一部の病のみを治すが、すべてを治すことができない。

 

第五の医師:すべての病に意欲的に取り組むが、医術が下手であり、治療にあたって苦痛が伴う。

 

第六の医師:病を治する妙術を持つ故に、治療を受ける者に苦痛を与えることなくその病を治療するが、死に病の如き大病を治すことはできない。

 

第七の医師:死病の如き難治の病をもよく治すことができるが、その治療に際し、その患者の身体にわだかまる、すべての病を治することはできない。

 

第八の医師:病人の身体にあるすべての病を治す方策を知り、治療にあたって相当の効果をあげるが、まだその道に未熟なため、完全に元のような健康体にまで回復せしめることができない。

 

第九の医師:病人の一切の病を見抜き、よくこれを治療して元の如き健康体に復せしめる。ただし、それ以上の優れた状態にまで病人の生命を高めることはできない。

 

第十の医師:病人に篭る病の一切を見てこれをことごとく治し、平復せしめるとともに、さらに元よりも優れた健康体にまで仕立て直すことができる。

 

これらの医師の中で、最後の第十の医師が最良の名医であることは明らかです。

 

天台大師の『文句』では、悪業の罪障という病に苦しむ衆生を救う仏の資質を問う意味で、十の段階を設けて、第十の名医こそが、法華真実の仏であるとの主旨であります。

 

●現代の医療はいかに

 

上に説かれている医師の喩えは、まさに、現代医療の現場においても十分に通用する真理を含んでいるように思われます。

 

もし、謗法充満の故に世が乱れ、医療全体のシステムが濁り切ってしまっているとしたらどうなるでしょうか。

 

たとえば、ある薬品会社が、効能はあまり優れていないにもかかわらず、余計な化学物質を多量に含んでいるために副作用が危惧されるような新薬(つまり利益にはつながるが治療にはあまり役立たない薬)を開発したとしましょう。

 

薬品会社は、有名大医学部に研究助成金を億単位で提供し、自分たちの降圧剤が他社の薬より効能が優れているという論文に、医学部教授たちの名前を載せてもらうよう依頼する。

 

その論文は薬剤会社の側で作成したものであるにもかかわらず、医学博士たちは、論文に名前が乗ると箔がつくので喜んで載せてしまう。内容に賛同する場合もあるかもしれないが、むしろ、製薬会社からもらえる謝礼金が目あてである場合もある。

 

やがて、お墨付きを得た新薬がどんどん宣伝され、病院でも使われるようになる。

 

しかし、そもそも効能がないどころか、最初から副作用が危惧されるものだから、具合が悪くならないはずはない。

 

それで、副作用で訴訟を起こしたとしても、保険会社には免責事項として製薬会社の責任を問わないという項目が最初から謳われていたりする。

 

このように、製薬会社、厚生労働省、保険会社、メディアが一つのシステムとして、健康よりも利益を優先するという体制を作り上げてしまっている可能性があるということです。

 

実際に、ディオバンという降圧剤は、外資系のノバルティスファーマが、日本の複数の医大・医学部に億単位の助成を行って、捏造データを宣伝に利用して、莫大な利益をあげていました。

 

しばらく前に少しだけ報道されましたが、佐村河内、野々村騒動等にかきけされてしまいました。本当は、ノバルティスファーマ事件の方が、何千倍も重大な意義をもつ国民の健康に直結する事件であったにもかかわらず。

 

子宮頸癌ワクチンも主要政党があげて推奨していましたが、起き上がれない、自分の名前も言えない、等々の重篤な副作用が出るに及んで、誰も責任を取らないという有様です。ちなみに、ワクチンの健康被害は今、世界各地で訴訟が起こりつつあります。

 

●「業病」は信心根本に

上の『文句』の中で天台大師が指摘する、第一の医師を見ると、薬物依存社会と薬害問題のことを想起せずにはいられません。

 

「第一の医師:病を治療してもかえって増加して減少することがなく、はなはだしきは病人を死に至らしめる」

 

謗法充満の世に、名医とめぐりあうのも容易ではないでしょう。むしろ、制度的には、医療従事者、製薬会社、厚生労働省、司法当局というつながりそのものにある種の濁りが充満してしまっているという可能性を考慮しなくてはならないのではないでしょうか。

 

患者の健康を増進するどころか、むしろ薬付けにして病を慢性化させてしまう、そういう宿痾のような傾向性が、謗法充満した世相の反映として、医療の世界にも蔓延している可能性があるのではないでしょうか。

 

病院、医師、薬物、検査等への過剰な盲信は、身の危険を招く可能性もあるでしょう。このことを認識した上で、信心根本に、優れたものは積極的に活用する、という心構えが必要と思う所以です。

 

● 参考)医療の流派

 

医療の流派には、

ナチュロパシー(自然療法)

ホメオパシー(同種療法)

オステオパシー(整骨療法)

サイコセラピー(心理療法)

アロパシー(対症療法;現代の西洋医療はこれにあたる)

が、存在するとされる。

 

現在、メディア等で取りざたされるのは、圧倒的にアロパシ―中心。しかし、アロパシーは、化学薬品を通じて対症療法を行う医療法に限られます。

 

1920年代以降、この流派のみが、米国財団の助成を独占してきた結果、他の流派が駆逐されていったという経緯があるようです。

 

そうであれば、アロパシー(現代の西洋医療)から距離をとったとしても、他の医療を適宜活用していくという姿勢であれば、医術を全否定するということにはならないということにもなります。それは選択の問題です。

 

大聖人様御在世当時には、今のような医療はなかったので、鍼灸や薬草等を用いた医療が主流であったというお話を伺った記憶がございます。

 

実際に、抗がん剤を拒絶して、御住職の指導を仰ぎつつ信心根本に癌を克服した体験が、『妙教』(第264号)誌上に掲載されていました。埼玉県日成寺支部御信徒の体験です。

 

医師が頑固に抗がん剤治療を主張したのに対して、御住職は「強面のお父さんに一回ガツンと言ってもらえばいい」と言われ、それを受けてお父さんは医師に、「うちの娘をモルモットにするつもりですか」と抗議されたそうです。

 

一説に、抗がん剤は使えば平均寿命3年、使わなければ12年ともされており、日本医師界の理事の99%は自らはそれを使用することを拒絶するのだとか。猛毒を含み健康な細胞も侵されてしまうことを知悉している。

 

いずれにせよ、信心根本に、何が自分にとって最良の医術であるか、それを見極めつつ活用していく、という姿勢が肝要と拝するものです。

 

●「病」と「道心」

 

「病」はときに「発菩提心(ほつぼだいしん)」といって、道心を起こすきっかけともなる、と御法話で伺いました。

 

『妙心尼御前御返事』にいわく、

「この病は仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か」(御書900頁)

 

とうことでありますから、病気になった人を指して、あれは罰があたったんだ、などというのは控えるべきでありましょう。

 

生老病死は誰人も避けられないのですし、どのような因縁果報をその人がおもちであるかは、我々凡夫には知る由もありません。

 

病はときに健康であれば無為に過ごしがちな日常から離れることで、仏道修行の発心につながることがあるとの仰せ、深く噛み締めたいと思います。

 

病に陥らない心構えは大切ですが、いざ病にかかったときには、それを発心の場にかえていきたいと念願するものです。