御聖訓一読集四日『弥三郎殿御返事』

 

「構へて構へて所領を惜しみ、妻子を顧み、又人を憑みてあやぶむ事無かれ。但偏に思ひ切るべし。今年の世間を鏡とせよ。若干の人の死ぬるに、今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり。此こそ宇治川を渡せし所よ。是こそ勢多を渡せし所よ。名を揚るか名をくだすかなり。人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり」(御書1165ページ)

 

弘長元年伊豆流罪の折、伊豆伊東川奈の漁師、船盛弥三郎夫妻は、三十日にわたり大聖人様を自宅でお守りし、その後、大聖人様は、伊東の地頭、伊東八郎左衛門宅にお預かりの身となられます。伊豆配流後まもなく、伊東八郎左衛門は病に陥り、病悩平癒の祈願を願い出られ、これが叶ったために、海中出現の釈尊一体仏を大聖人に献じられたと言われています。

 

伊東八郎左衛門は、大聖人門下の檀那となられていたようですが、最終的には、念仏への執着が捨てられずに、船盛弥三郎も、地頭の伊東氏から圧力を受けていたようでございます。このことは、本日拝読の御書『弥三郎殿御返事』の末尾付近で、「地頭のもとに召さるヽ事あらば、先づは此の趣を能く能く申さるべく候」と記されていることからも、伺い知ることができます。

 

その意味で、四条金吾が主君の江馬光時氏から迫害を受けたのと同様の図式が、船盛弥三郎と伊東八郎左衛門のあいだにもみられたことがわかります。そこで、大聖人様が、船盛弥三郎に対して、決して迫害にめげて退転してはならぬという激励を、弥三郎にくださったものと拝されます。

 

蒙古襲来で多数の人が死んでいく中、これまで生きてこられたのは、まさにこの難にあって、それを乗り越えるためだったのだということを忘れてはならない。今こそ、名をあげるか名をくだすかの大詰めの時であると。

 

宇治川、勢多とは、上洛する寸前の大詰めのところであり、信心もはじめはしっかり頑張っていても、最後の詰めが一番肝心だということを仰せられているものと拝せられます。最後の詰めをあやまたないためにも、所領や妻子眷属にしがみつくのではなく、世間の人の目を憚って信心に疑いをおこしたりせずに、いざ決戦という覚悟を決めて、どこまでも正信を貫いていきなさいとの御指南と拝し奉るものです。