御聖訓一読集十四日『内房女房御返事』(令和元年九月)

 

「例せば石虎将軍と申すは、石の虎を射徹したりしかば石虎将軍と申す。的立の大臣と申すは、鉄的を射とをしたりしかば的立の大臣と名づく。是皆名に徳を顕はせば、今妙法蓮華経と申し候は一部八巻二十八品の功徳を五字の内に収め候。譬へば如意宝珠の玉に万の宝を収めたるが如し」(御書1490ページ)

 

この御文では、すべてのものにおける「名」の大切な所以を説かれております。その例として、石虎(せっこ)将軍と的立(まとだて)の大臣(おとど)を挙げて、妙法五字こそ釈尊所説の一切経の功徳のすべてを収める御名であると仰せられております。一遍の題目に篭る功徳の甚大さを、改めて噛み締めたいものであります。

 

日蓮正宗の教学を通じて、「名」の大切さを幾度となく学ばせて頂いております。特に、印象に残っている言葉をあげますと、「名詮自称(みょうせんじしょう)」「佳名早立(かみょうそうりゅう)」「名同体異(みょうどうたいい)」「名異体同(みょういたいどう)」などがあります。天台大師の五重玄にも「名」玄義が出てきます。

 

五重玄とは、天台大師が法華経の幽玄なる意義を「名、体、宗、用、教」 の五つの視点から説かれたもので、その筆頭に挙げられているのが、やはり「名」なのです。一切の事象において、仏法においてはなおさら、名が大切であることが見てとれると思われます。

 

以下、日顕上人『妙法七字拝仰(下)』における五重玄(総説)に関する御指南の要点でございます。難関な点もございますが、今は特に、「妙=名」の部分にご注目頂ければと思います。

 

妙=名:妙とは不可思議、「不思議の一法」とは「妙」、「之を名付けて」とは「名」(『当体義抄』)。

法=体:法とは一切諸法、法界の一切の存在の実体。

蓮=宗:蓮は因果而二にして不二、凡夫即仏身の修行覚道。

華=用:華は果実を成ずるべく咲く。果実は目的、華はその手段にして用。

経=教:経とは仏・聖人の説いた教え。

 

もう少し咀嚼を試みますと、名とは、実体を表す言葉。体とは、そのもの本体。宗とは、こうすればこうなるという因果、所作。用とは、はたらき、効用、力用。経とは、教え(としての位置付け)。

 

上の「妙=名」で言及されている『当体義抄』について、以下、少々、繙いてみたいと存じます。

 

「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり」(御書695ページ)

 

この御文を、日寛上人は『御書文段』(p.631)において、五重玄に約して解釈されております。

 

名玄義=「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す」

 

体玄義=「此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し」

 

宗玄義=「之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり」

 

用玄義=「聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり」

 

ここで教玄義は明示されていないとはいえ、上の四つの玄義から自ずと「教」としての位置付けも明らかであるとの仰せと拝します。

 

劫初に聖人によって、不思議の一法に名付けられた御名が、妙法蓮華(経)であるとすれば、あり、その尊極無上の御名前に篭る法界の不思議、御仏智の絶妙さを感ぜずにはおられません。

 

以前、日顕上人の御著書の中で、「佳名早立(かみょうそうりゅう)」という言葉に初めて出会いました。その意味するところは、「縁起のいい名前は早くからある」というものです。

 

たとえば、「蓮華」もそうですが、「日本」「富士山」などもそうです。

 

「蓮華」については、妙法蓮華の当体蓮華と植物の比喩蓮華がありますが、その点について、『当体義抄』に以下の御文がございます。

 

「譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり。此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕はす」(御書p.695)

 

当体蓮華と比喩蓮華は誤解されやすいですが、肝心な点は、まず、因果倶時・不思議の一法を聖人が「妙法蓮華」と名づけ、後に、その因果倶時(華果同時)なる性質を帯びた華草に対して「蓮華」と命名される。よって、「比喩蓮華」とは、「当体蓮華」の妙法蓮華経を(それをただちに理解することは凡夫には望むべくもないために)比喩的に助け顕す、華草の蓮華であるということです。

 

華草の蓮華が先にあって、それを喩えとして借りて説かれた法が妙法蓮華経である、という捉え方ではない。そう捉えてしまいますと、妙法蓮華経よりも華草の蓮華が先にあったということになり、妙法の功徳の甚深無量なる所以を説明できなくなってしまうからです。

 

実際に、大聖人様は、『当体義抄』の中で、上にあげた「因果倶時不思議の一法」の命名のくだりの直後で、以下のように仰せでございます。

 

「又劫初に華草有り、聖人理を見て号して蓮華と名づく。此の華草、因果倶時なること妙法の蓮華に似たり。故に此の華草を蓮華と名づく。水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華是なり。譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり。此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕はす」(695)と。

 

やはり、「妙法蓮華」が先に聖人に名付けられ、それに似た因果倶時をあらわす草花に対して「蓮華」という名が与えられたということなのであります。

 

ですが、いずれにしても、比喩蓮華である「蓮華」という名前は実に有難く、我々が知らないほどの大昔からある名前だということになります。

 

また、「日本」とは、「日」蓮大聖人が御出生される国であり、「本」門の戒壇が建立される国であります。「日」とはまた「太陽」を表し、釈尊の「月(月氏)」の仏法(白法)が西漸したのに対して、大聖人様の太陽の仏法(大白法)が東還し、やがて、世界に流布するその根「本」の国であります。

 

さらに、「富士山」の正式名称は、「多宝富士大日蓮華山」であり、そこには多宝如来、日蓮、蓮華がすでに含まれています。大聖人様に宿縁深厚なる大霊場を守護すべき神聖なる大霊山であること疑いありません。

 

やはり、縁起のいい名前は、はるか以前からあるのです。これは御仏智によるものとして、報恩感謝の念を深めるほかありません。

 

脱線気味な世俗の話ですが、日ユ同祖論というのがあり、日本人とユダヤ人が同じ祖先から来ているというような説で、あながち、素っ頓狂な話とも言えない根拠もあるようです。これで驚く人もいるようですが、仏法の視座からみれば、それとて、わずか数千年スパンの話です。そこで多様な民族同士の交流があったとて、何も不思議はないだろうと思われます。

 

話をしめくくらねばなりません。名前の大切さでありました。

 

大聖人様は、『寂日房御書』においてこう仰せです。

 

「一切の物にわたりて名の大切なるなり。さてこそ天台大師、五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし」(御書1393ページ)

 

自解仏乗とは、師なくして自ら悟られた仏様の御境涯と拝します。その御境涯を表されるのが、日月の「日」と当体蓮華の「蓮」の字を含む、「日蓮」の御名であると。そこに、一切衆生救済の御本仏の尊極無常の大慈大悲を感ぜずにはおられません。

 

また、『聖愚問答抄(下)』にいわく、

「所有一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経とは名づくるなり。されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕はれ出づる、是を成仏とは申すなり。例せば篭の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し」(御書406ページ)と。

 

妙法蓮華経は、一切衆生の仏性が籠められたお名前です。一遍の題目が、その仏性を呼び起こすはたらきがあるとの、実に有難い仰せであります。

 

同抄にいわく、

「法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に篭れり。一部八巻文々ごとに、二十八品生起かはれども首題の五字は同等なり。譬へば日本の二字の中に六十余州島二つ入らぬ国やあるべき、篭らぬ郡やあるべき。飛鳥とよべば空をかける者と知り、走獣といへば地をはしる者と心うる。一切名の大切なる事蓋し以て是くの如し。天台は名詮自性・句詮差別とも、名者大綱とも判ずる此の謂はれなり。又は名は物をめす徳あり、物は名に応ずる用あり。法華題名の功徳も亦以て是くの如し」(御書407ページ)と。

 

名前が一切の徳を含むというのは、冒頭の『内房女房殿御返事』の一節と同趣旨と思われます。「名詮自性」とは、名は自らの性分をそなえ、ときあかす。「句詮差別」とは、字句や言葉をみれば、差別があきらかになる。「名者大綱」とは、名が大綱(全体の骨格)であるということ。

 

「名は物をめす徳あり、物は名に応ずる用あり」は、特に味わいたいところです。

 

名には、対象を呼び起こす徳が備わっている。物には、名を呼ばれてそれに応じるはたらきがある。これは言われてみなければ、なかなか気がつくことではありません。あまりに当然のことで私たちは、これほど有り難いことに、不可思議を感じれない。それが凡夫の感性であり境涯であるからです。

 

しかし、名の「徳分」と対象の「用き」というのは、大変に有り難いことです。だから、名前を呼べば相手は応じてくれるのです。でも名前を間違えたら無視される。初めて会った人でも、名前を覚えると顔がちゃんと記憶に残って存在が始まります。名前を忘れると顔も忘れてしまって、存在が始まらない。名の徳と対象の用き。有難いことです。

 

最後にひとつ破折です。

 

創価学会など、今や、日蓮宗身延派に与同するかのように、題目偏重の邪義に堕しています。

 

本来、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目からなる三大秘法は、一大秘法の本門の本尊から開かれるわけですが、今や、創価学会は、弘安二年十月十二日御図顕の戒壇の大御本尊を信仰の対象から捨てたと宣言して憚らない。にもかかわらず平気で題目を唱えている。すると、どうしても、本尊を軽視しつつ題目を重視する、という方向に傾かざるを得ないわけです。

 

しかし、「名は体を表す」と言うように、体のない名は実体がなく空っぽなのです。本尊のない題目とは、体のない名にすぎない。いくら名前を呼んでも、それに応じてくれる仏様の功徳聚が存在していないのです(あるのは偽本尊を作成した者の嫉妬と怨念との感応作用だけ。だから悩乱するのです)。

 

ゆえに、創価学会が唱える題目は、言葉の正確な意味において、「空題目」なのです。

 

今日は、一切のものにおける「名」の大切なる所以でありました。

日々、研鑽を深めて参りたいと存じます。