御聖訓一読集十三日『上野殿後家尼御返事』(令和元年九月)

 

「いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし。古徳のことばにも、心地を九識にもち、修行をば六識にせよとをしへ給ふ。ことわりにもや候らん。此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ。秘しさせ給へ、秘しさせ給へ」(御書338ページ)

 

文永二年御述作の御書でございます。上野殿後家尼とは南条時光殿のお母様ですが、お父様の南条兵衛七郎殿が亡くなられて未亡人の身となり、在家尼となられていたようであります。当時まだ南条時光さんは七歳の少年だったようです。

 

大聖人様は、種々の御法門を記されつつ、お亡くなりになった御主人の追善供養の誠をつくすようにと激励をあそばされております。

 

「心地を九識にもち、修行をば六識にせよ」とございますが、心をこめて、身体を一生懸命動かして、追善供養をしていきなさいとの仰せと拝します。

 

当時、南条家には日興上人がおられて大聖人様からのお手紙の内容を詳細にご指導されていたと思われます。それは、「日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ。秘しさせ給へ。秘しさせ給へ」との一節からも拝される次第でございます。大聖人様の御真筆には日興上人のルビがふられていたと伺ったことがございます。

 

「日蓮が秘蔵の法門」とは、例えば、

 

「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」

 

「夫浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず、ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏といふ。これにまよふを凡夫と云ふ。これをさとるは法華経なり。もししからば、法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ。たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるゝならば、たゞいつも地獄なるべし。此の事日蓮が申すにはあらず、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給ひしなり」

 

「提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき、竜女が即身成仏もこれより外には候はず。逆即是順の法華経なればなり。これ妙の一字の功徳なり」

 

等々にみられるようでございます。

 

これら秘蔵の御法門を、日興上人が上野殿後家尼のおそばにおられて、大聖人様の教えとして丁寧にご指導なさっておられたものと拝されます。

 

今日は、折角の機会と思いましたので、「心地を九識にもち、修行をば六識にせよ」との仰せにおける「六識」、つまり、眼耳鼻舌身意の六識と、一念三千論における五陰、衆生、国土の三世間のうちの「五陰」の対応について考えてみたいと思いました。

 

以下は、私個人の見解も含まれますので、お気付きの点等ございましたら、ご叱正を賜りますよう、お願い申し上げます。

 

さて、五陰は、「色受想行識」からなり、このうち、「色」は色法にあたり身体、「受想行識」は心法にあたり精神のはたらきとされます。ちなみに、「色受想行識」とは英語では、form, perception, conception, volition, consciousnessと訳されます。色形のある身体がform, 外界の何かを感受するのがperceptionで知覚・認識。そこから長期記憶が生じて、何かを思い描いたり、思い出したりする段階がconceptionで、つまり、概念や表象の世界(対象がその場になくても思考を営めるのは概念が存在するゆえ)。そして、volitionは行為に向かう意思のことで、判断、決断、意向などとかわる心のはたらき。consciousnessは、精神的はたらきを統括する意味で「心王」とも呼ばれます。

 

五陰で心法の中枢にくる「識」はconsciousnessと訳されますが、これは六根の「意識」と同じなのでしょうか。

 

大づかみには、そう捉えて問題ないと思われます。厳密には意味する範囲は微妙にズレるところもあると思われますが(六根の「意識」は、五陰の「受想行識」をカバーすると捉えられます)。

 

定義の問題よりも、ここでの御指南の趣意について、掘り下げたいと思います。「心地を九識にもち、修行をば六識にせよ」との御指南です。

 

心は妙法唱題の功徳によって九識心王真如の都に絶えず住し、修行は五感と意識をフル稼働して、目と鼻と耳と舌と皮膚を研ぎ澄ませて、心を砕いて、仏道修行をしなさいとの仰せと拝します。

 

五感のはたらきを統括するのは意識(第六識)です。ですから、意識が乱れれば、五感による「受」のはたらきが乱れます。

 

この意識(第六識)に影響を与えるのが煩悩の第七識(末那識)ですから、第七識が煩悩充満していれば、意識が乱れます。

 

この第七識(末那識)に影響を与えるのが宿業がたまる第八識(阿頼耶識)ですから、第八識(阿頼耶識)が悪業充満であれば、第七識が濁ります。

 

これらの一切の心の作用と所在を浄化するのが心王真如の都である第九識(阿摩羅識)とされており、これは妙法信受のみによってかなえられます。

 

「心地を九識にもち、修行をば六識にせよ」との御指南ですが、これは

心は妙法唱題の功徳によって九識心王真如の都に絶えず住して、修行は五感と意識をフル稼働して、目と鼻と耳と舌と皮膚を研ぎ澄ませて、心を砕いて、仏道修行をしなさいとの仰せと拝します。

 

以下は、仏道修行における自己鍛錬のためのヒントとして:

 

●心が乱れたとき

 

→ 五感から六識(意識)を通じて、自分の煩悩(七識)、宿業(八識)を見つめ直してみる。

 

→ 妙法=仏性(九識)から八識、七識、六識を照らしてみようと努める。

 

→ 意識をできるだけからっぽにして、とにかく、身体を動かして修行する。

 

●体が言うことをきかないとき

 

→ 九識(仏性)の輝きが全てを浄化するということを思い起こしして、心の中で唱題する。

 

→ 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚等に、やさしい意識を向けて、そこからゆっくりささやかな方向転換をはかってみる。

 

今後も、継続的に考えて参りたいと思います。