聖徳太子『十七条憲法』第二条にみる人間観の二重性と仏法流伝史的位相(修正版)
聖徳太子『十七条憲法』第二条にみる人間観の二重性と仏法流伝史的位相──性悪説と性善説の相剋を超えて(修正版)Ⅰ 問題の所在聖徳太子の『十七条憲法』(604年)第二条は次のように記す。「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。……是れ則ち三世の諸仏の宗極の場なり。豈に何れの人か何れの法か此を貴ばざらんや。世間の人少しき悪人多し。然れども強いて以て能く化す。もし三宝に帰依せざれば、何を以てか枉れるを直くせん。」この一節には、一見相反する二つの人間観が同居していると古くから指摘されてきた。すなわち(1) 「世間の人少しき悪人多し」という性悪説的・悲観的な人間認識、(2) 「強いて以て能く化す」「三宝に帰依せば枉れるを直くすべし」という、究極的には救済可能であるとする性善説的視座である。窪寺(2022)は、この二重視座について、当時の官吏たちの倫理的腐敗に対する観察が性悪説的視座を生み、他方で三宝帰依が解決であるとする性善説的確信が併存していると論じた。その背後には、儒家の「礼」や法家の「法」では人心の浄化に限界があるという太子の仏教的洞察がある。本稿はこの指摘を継承しつつ、聖徳太子の人間観の二重性が、単なる政治的現実認識ではなく、仏法流伝の歴史的位相と深く連動していることを明らかにしたい。Ⅱ 像法時代前期における衆生の機根劣化と性悪説的認識聖徳太子の時代(6世紀末〜7世紀初頭)は、釈尊滅後およそ1100年を経た時期に当たる。三時説(正法500年・像法1000年・末法10000年)に従えば、伝統的には像法時代前期に相当すると理解されてきた。ただし、この三時説を歴史年次に厳密に当てはめる解釈には諸説ある点を踏まえ、本稿では当時の仏教者が共有していた「像法=機根劣化」という思想的枠組みを基盤として議論を進める。像法時代に入ると「教・行」は存するも「証」は衰え、衆生の機根は次第に劣化していく。『大集経』月蔵経に「像法の中千人の中に一人も証を得る者なし」と説かれるように、太子はそうした衆生劣化の観念を背景に生きていたと考えられる。この現実を、太子は官吏たちの実態を通して痛感していた可能性が高い。『日本書紀』推古天皇十一年条には、太子が「人心日々に悪しくなり、礼儀少しき廃る」と嘆いたと記される。このような身近な政治的現実認識が、「世間の人少しき悪人多し」という性悪説的断定の根拠となったのである。しかも太子は、儒教の「礼」や法家の「刑罰」では、この堕落した人心を根本的に正すことはできないと見抜いていた。儒教の礼は外面的規範にとどまり、法家の法は恐怖による一時的抑圧に過ぎず、貪瞋痴の三毒を断つ力はない。太子が「何を以てか枉れるを直くせん」と問い、「三宝に帰依せざれば」と結ぶのは、この限界認識の帰結であった。Ⅲ 法華経的救済視座と性善説的確信──観音垂迹説の宗教史的意義しかし太子は、衆生の機根劣化という性悪説的現実を前にして絶望したわけではない。「強いて以て能く化す」「三宝に帰依せば必ず枉れるを直くすべし」という救済的確信は、いかなる背景に基づくのか。ここで注目すべきは、後代に成立した聖徳太子信仰において、太子が観世音菩薩の垂迹として理解されたという宗教史的事実である。『上宮聖徳法王帝説』には「観音の垂迹なり」と記され、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にも同様の伝承が見える。これらは太子没後に形成された観音垂迹説であるが、当時の人々が太子を「大悲を体現する存在」とみなしたことを示すものである。観世音菩薩は『法華経』普門品に「聞是名号、一心称名、皆得解脱」とあるように、像法・末法の衆生を悲願によって救済する菩薩として描かれる。このイメージが太子像に重ね合わされた結果、太子の教化実践は「衆生はたとえ劣化していようとも最終的に救済し得る」という法華経的確信のもとに位置づけられるようになった。『法華経』薬草喩品には「如来の一音、衆生随類各得解」と説かれ、機根の上下を超えて妙法が必ず利益を与えることが示される。太子が国家運営の根本として三宝帰依を掲げたのも、こうした法華経的普遍救済思想と深く共鳴していたと考えられる。Ⅳ 二百年後の伝教大師への橋渡し──思想史的連続性さらに重要なのは、太子の三宝帰依の提唱が、後代の日本仏教史における法華経受容の基盤となった点である。天台大師智顗(538〜597)とほぼ同時代に生きた太子は、『法華義疏』などにおいて法華経中心の理解を展開している。この思想的傾向は、結果として後世の天台教学と親和性を示すが、太子が中国天台思想を直接受容したとする史料的根拠はない。「天台教学に通じる法華経解釈を先駆的に示した」と理解するのが妥当である。太子没後約200年、延暦年間に伝教大師最澄が唐に渡り天台教学を相承し、帰国後に日本天台を建立した。後世の仏教者はこの歴史的連続性を重視し、太子の法華経理解を「日本における法華一乗受容の先駆」として位置づけた。すなわち、太子が二百年後を予見していたという意味ではなく、後代の宗教者が太子の教化を「菩薩の境界」として再解釈した結果、両者は思想史上の連続した流れとして把握されるようになったのである。この観点からすれば、十七条憲法第二条における三宝帰依は、「法華一乗」受容に向けた日本仏教史の基盤形成として大きな意味を持っていた。Ⅴ 結語──スピリチュアルケアの視点から見た意義以上のように、聖徳太子の人間観の二重性は、当時の政治的現実に基づく性悪説と、法華経的救済視座としての性善説の併存として理解できる。この相剋は矛盾ではなく、仏法流伝史の位相における必然性を持っていた。衆生の機根劣化という厳しい現実を直視しつつ、しかし同時に衆生が必ず光に至る可能性を信じる——この二つの視座こそ、後代の太子信仰が捉えた太子のスピリチュアリティの本質である。今日のスピリチュアルケアにおいても、クライエントの「闇の側面」を否定せず、同時に「必ず救い・成長に至る可能性」を信じる姿勢が求められる。聖徳太子が1400年前に示したこの「両眼の視座」は、現代のケア実践に対しても鮮烈な示唆を与えるものである。主要参考文献 窪寺俊之(2022)「聖徳太子の『十七条の憲法』に見るスピリチュアルな発想」『スピリチュアルケア研究』第6巻 石井公成(1996)『聖徳太子の歴史的位相』吉川弘文館 田村圓澄(1983)『聖徳太子』吉川弘文館 福島光加(2015)「十七条憲法第二条の人間観」『印度學佛教學研究』63-2 『日本書紀』(720年)岩波文庫版 鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』(406年頃)大正新脩大蔵経 『大集経』(6世紀頃)大正新脩大蔵経