白馬村で「戦争を語り継ぐ集い」 | 九代目七右衛門の徒然日記

白馬村で「戦争を語り継ぐ集い」

「戦争を語り継ぐ白馬の集い」(同実行委員会主催)が13日、白馬村ふれあいセンター学習室で開かれたという記事が12月15日の大糸タイムスに掲載されており、白馬の爺さん(父)も写真に写っていました。
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安曇野市出身で映像制作会社代表プロデューサー・吉丸昌昭さんが制作したドキュメンタリー映画「語らずに死ねるか」の上映と、父を含む白馬村在住の戦争体験者が戦時中の体験談を語り、100人余の来場者が戦争の悲惨さと平和の大切さを心に刻んだとの事でした。父の体験談を下記に転記します。
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『戦時中を顧みて』

 皆様ご苦労様でございます。ただいまご紹介にあずかりました内山の伊藤馨でございます。当年とって83歳になります。本日は既に64年前になります戦時中の体験をお話しするのですが、実は私、最後の徴兵検査を受けてわずか42日間の軍隊生活を送っただけで終戦となったため、お恥ずかしい事に戦時中の体験をお話しするような資格は殆どないのです。当時は国民皆兵の時代で、軍人が連隊に入っておらず、私どもは転々と学校へ寝泊まりして、勿論一切の財産をみんな持って歩いたのでした。したがって悪く言えば、軍隊へ物貰いに行ってきただけとも言われたものです。

 現在、日本国民は1億3千万人ほどと言われておりますが、その半数以上が戦後生まれの方々となっております。お若い方々が多い中、私のこれからの話は、多くの方々には全く分からないのではないかと心配しております。いたずらに年ばかりとっている老人が、なにかしゃべっているなぁというような、気楽な気持ちで聞いて頂ければと思います。

 今日では、皆さん立派な服装をされていますが、当時は「ツギ」(洋服の破れたところへ布を当てて繕った部分)の無い服を着ているものは一人もいませんでした。また、冬場はケット(毛布)を頭からかぶって通学していました。私は昭和13年、小学校6年生の頃、一人だけ新しいマントを着てきた友人が羨ましくてたまらなかったものでした。

 洋服だけではありません。運動靴、革靴などはまったく無く、夏はワラ草履、冬はスッペンジョ(ワラで作った長靴)を履いていました。雪深い凍っている時は良いのですが、雪が少し溶けて靴の中まで濡れるようになってきたら始末が悪かったのです。どこの家にも囲炉裏があって、火棚の上で一晩中乾かして、また次の日は履いて出かけたものでした。

 それから家族構成も今とはまったく違っていました。私ども内山地区は、現在22軒の家がありますが、私の子供の頃には、24軒、全戸に三代、すなわちお爺さんお婆さん、お父さんお母さんと子供が住んでいたものです。現在では三代住んでいるのはたった一軒だけとなってしまいました。11月から四月半ばまで、雪が積もって畑仕事が出来ない間は、お婆さんお母さんはコタツで繕いものをし、お爺さんお父さんは囲炉裏端でワラ草履やワラグツ作りに明け暮れていたものです。

 次に食べ物の話ですが、我家は農家だったにもかかわらず、家で作ったお米は土蔵の中に入れて役場の人が封印をしてしまい食べる事が出来ず。配給だけで暮らしていました。終戦前の私が兵隊に行く前頃の配給は、白いご飯はほんの少しで、大豆やトウモロコシが大部分の食事をしていたものです。私は子供のころに父が戦死し、母も若死したものですから、祖父母に育てられましたが、お婆さんが私の茶碗の中から大豆やトウモロコシを拾って、白いご飯だけを食べさせてくれたのをはっきりと覚えています。もちろん、魚などは一カ月に何回かひものを食べる程度で、肉は大晦日に一年間家で飼っていた兎の肉を食べるのがせいぜいでした。今では容易に手に入る鶏の卵は、鶏を家で飼っていたにもかかわらず、家では食べずに、大町から来る行商に売ってお菓子に替えていました。

続いて当時の暮らしぶりのお話です。お勤めの方は別でしたが、殆どの家で養蚕をやっていて、繭(まゆ)を売って生計を立てていました。冬の間食べる野沢菜は、蚕のえさの桑が終わった後、その桑の木を倒して、その間に蒔いて育てたものです。今では多くの家で庭に花を植えていますが、当時は空いた敷地があれば野菜を作っていたので、庭などは全くなかったものです。我家も今では年間2~3百人泊める民宿をしており、以前は畑だった庭は駐車場となり、野菜畑には花がいっぱいに植わっております。当時では考えられない事です。

 私は学校を卒業して一年半近く家に居ましたが、毎日のように松根油を掘りに山奥まで出かけていました。また、家にある金物はすべて供出しなければならなかったため、立派な模様のある火鉢なども土蔵から持ち出してお堂(公民館)の庭へ集めました。それをそこかで溶かして鉄砲の弾にするのだと言ってぶち壊してしまったのです。まもなく終戦となってしまいましたが、あの壊れた火鉢は何処へ行ってしまったのでしょうか。

 本日これから上映される映画は、役者の出る物語ではありません。これを作った会社の社長さんは、篠崎久美子さんの古くからのお知り合いで、大町高校の先輩です。長尾監督さんからもお話があると思いますが、二度とない尊い体験をされてきた生の声を、つぶさにお聞きいただきたいものです。

 なお、私は老人クラブで、白馬村内のこのような戦争体験者の声をあまねくお聞きして、なんとかまとめようとお計りしましたが、私の力不足からついご承諾を実現できなかった事は、私の生涯の中で最も遺憾に思う処であります。

 これは本題とは全くかけ離れた事になりますが、現在全国的に少子高齢化が叫ばれております。私ども白馬村もご多聞にもれず、人口9千百人余りのうち、60歳以上が2千3百人余り、高齢化率23.1パーセントとなっております。先日行われた敬老会には75歳以上の1053人ほどに通知を出して招待したそうですが、集まったのは2百人そこそこでした。それ以外の、寝たきりだったりして来られなかった8百人余りの方々にこそ、真の慰労をして差し上げたいものです。

 大変雑駁な整わないお話となってしまいましたが、なにかの参考にしていただければ幸いです。貴重な時間を駄弁を弄しまして、大変申し訳ありませんでした。ご清聴ありがとうございました。
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