昨年は

思いの外

みんながドラマに出てくれたおかげで

(特に風磨…3クールとか若干イジメですよ) ←喜んでます!




おかげで2020年末に増設したHDDでは

どうにもやりくりできず

(だって大河とか1年よ?) ←喜んでます! 




格安で売っていた

大容量のSSDを追加購入し

PC用に使っていた小型HDD(2T)を

レコーダー用にまわしたのが秋頃か…




HDDの中身をSSDへコピーして

全部空にしてからレコーダーに繋いで

快適に使ってたんだけど




年末にSSDの中を確認したら

フォーマットの仕様を間違っていたらしく

全部見られなくなってたんですよ



焦って色々やってみたけど

どうにもなりませんで…

大量のデータが吹っ飛びました

(ほぼ2T分のテレビ映像なくなりました)

もう諦めてフォーマットし直しました




入ってたのは

過去の

相葉ちゃんと翔ちゃんのレギュラー番組と

最近の風磨のバラエティーのレギュラー番組

(ほぼ全部未視聴)




不思議なほど

すんなりと諦めがついた自分がいた




私の人生が

あと50年あったとして

これらを全部観る日が果たしてくるか

という質問の答は

多分『否』で

そう思うと

そもそもコレらは

私にとっては『不要なもの』だったのかもしれない





すんなり諦められた理由の中に

消えたデータの中に

嵐関連とニノちゃん関連がなかった

という点も大きかった




私の中で

嵐・ニノちゃん > その他メンバー・風磨

って式が成り立ってて


嵐・ニノちゃん・その他メンバー  > 風磨

でいたかったけど

多分違うんだろう











2019年

この場所で『ちぃず』になった


その前の私は

嵐ファンを数年やっていても

レギュラー番組をろくに見ず

ラジオも聞かない

何なら結成記念日やデビュー日

メンバーの誕生日さえ覚えていない(ニノちゃん含)

そんなファンだった



それファンじゃないだろ



と言われたら

まぁ甘んじて受け入れますよ

そんな事言われたら勝ち目0なんで…

もうファン名乗れなくてもいいや

ただのファンクラブ会員に成り下がろう




私にとって

『愛着』があったのは


嵐の音楽と

音楽番組で目にする嵐

過去のまだ追えていた頃の

(何ならお茶の間ファンレベルだった頃の)

嵐のレギュラー番組



この場所に来て

色んな人の色んな愛し方(表現重たっ!)を知って

こうするのがファンなんだなぁって知った


ちゃんとファンにならなきゃと

真似をし始めて ←これが問題点



誰か1人を祝ったら

全員平等に…

だって嵐ファンなんだから!



いつからか

『やりたかったこと』は

『やらなきゃならないこと』に

変わっていった気がする



それがきっと『執着』





私は執着心が強い

その自覚はある

多分

私の仕事的には

執着心はあまり強くない方がいいんだろう

余計なことで凹むし悩むし傷つくから





私が執着してるもの

それは『モノ』かと思っていた


私は思い出があって

『モノ』が捨てられない


私は人から貰った『モノ』が

勿体なくて使えない


でもその『モノ』の奥にあったのは

その『モノ』自体じゃなくて

そのモノに関与した『人』なんだと思う




あの『人』との思い出があるモノだから

あの『人』が(作って)くれたモノだから











今まで嵐のレギュラー番組や

ニノちゃん含め嵐の出てるドラマを

ずっと観られずにいた


誰にも邪魔されずゆっくり観たいから


それもきっと『執着』だったんだろう









『ちぃず』になる前の私は

ニノさんはもちろん毎週録画して(未視聴)

メンバーの出るドラマは録画して(未視聴)

音楽番組は録画して(視聴)

って感じで



ニノちゃん以外のメンバーの番組は

録画さえしなかったし

Johnny's webとかも ←今もこの名前?

別にこまめに見てなかったし


何なら嵐の結成記念日やデビュー日

メンバーの誕生日(ニノちゃん含む)さえ

ちゃんと覚えていなかった

相葉ちゃんは毎年

ミュージックステーションのスーパーライブとかで

祝われてたから覚えてたけど






じゃあ何故

『ちぃず』になってから

色々録りだめてきたのは何のためだったのか…




それは

いつかまだ見ぬ誰かの役に立つかもしれないから




…出会ってもいない『人』に対しての執着

もう軽く ←軽くないか。。。

病気の域なんじゃないかと

書いていて思っている ←今自覚






そんなまだ見ぬ誰かへの執着は

データが吹っ飛んだことで

何か憑きものが取れたみたいな ←マジで憑いてたのかも

そんな感覚で


結構面倒な作業して

時間と労力と電気代と

HDD代かけてきたわけで 

PC用の外付けHDDも10T超ある人 ←全て嵐関連ではないが…多分








昨年

潤くんの誕生日

記事は書いたけど絵は描けなかった


大野くんの誕生日は

絵どころか記事を書く暇さえなかった


相葉ちゃんの誕生日も

バタバタしてて記事を書けなかったのは事実

でも

大野くんのときも書かなかったなら

書かないのもありかな…と思ったのも事実




少しずつ削がれていったソレも

愛着ではなく『執着』だったんだろう


少し剥がれたら

次から次へと剥がれていって

今は予約録画がされてなくても

まぁいいか〜と思えてる

(ニノさんは別) ←ここは容認した執着

(翔ちゃんのドラマも別) ←これは…??





今はソレがすごく楽で

すごく生きやすいと感じる










いつでも心の片隅に 5人の笑顔を抱きながら

好きなことに素直でいられる

そんな1年になりますように









年末にそう思ったのは

執着している偽りの好きではなく

愛着のある本物の好きに囲まれて

生きられる自分になりたいと思ったから



嵐のことに限らず

家の中に溢れかえる執着を手放し

本当に愛着のあるものだけにして

スッキリと暮らしたい

そう思うようになってきた

まぁ歳のせいかもしれないけど…




年末

少し家のものを捨てました

普通の人から見たら

ソレ家にある方がおかしいだろ

みたいなものばかりだけど

やりたくて買ったけど

やらずに何年も放置されてるものとか

未開封だったりするものもあったけど

捨てました




執着を捨てる

それも断捨離なんだな

いや

もしかしたらソレが1番の断捨離なのか…




いい歳して

ようやく解った

本当にだめな人間です




ミニマリストにはなれないけど

もう少しスッキリした環境で

無理なく無駄なく生きていこうと

何となく思っている今日この頃






そんな中で

ふっと思ったこと



『ちぃず』になる前の私に戻ろう




『ちぃず』になる前の私に戻るからといって

『ちぃず』を辞めるってわけじゃないけど

今そんな心境でいます

じゃあ具体的にどう変わるんだ?と言われたら…

今の現状と大差ないだろうけど

気持ちの問題?




…うん

ちょっと成長できたかな

なんて思ってます




そんなこんなで

最近ようやく

頂いたものを勿体ないと言って

使わないことのほうが勿体ない

ということがわかるようになってきました


今年の目標は

『頂いたものはちゃんと使う』です

(低い目標だな…)







































私は毎年

年賀状を90枚前後出します


昨年は本当に時間が取れなくて

29〜30日に大慌てでやりました

もう何書いたか記憶ないくらいで

書いた人は表にチェック入れていくから

書き漏らしはないはずなんだけど

書いた記憶がない人もいて ←怖すぎる

しかも慌てて書いてるから

10枚くらい書き損じたという…




大変だけど

別に面倒だって感覚はなくて

何ならもう何十年も

年賀状でしか繋がってない人もいて


これを辞めたら

もう二度と繋がれないんじゃないか


という想いのほうが強くて

辞められないでいたんだけど

これも一種の『執着』だよな




お正月に蓋を開けて

戻って来る年賀状なんて

実際は半分に満たなかったりするんです





一昨年

もう20年くらい

年賀状で繋がっていた友人が

年賀状じまいをすると

年賀状に書いてありました

『来年からはメールやLINEで…』


20年以上前に交換したメアドは

今でも使われているのでしょうか?

20年前に存在していなかったLINEは

どう繋げれば繋がるのでしょうか?



今年

その友人からは

何の連絡もありませんでした


私は20年前から

携帯番号もメアドも

変わってないですけどね…





また別の友人から

今年届いた年賀状には

年賀状じまいのコメントとともに

『またね』

と添えられていました


私にはその『またね』が

『さようなら』に聞こえた




毎年年賀状をくれていたけれど

私が長年

繋がっていたいと思っていた想いは

迷惑なものだったのかな…



返事をくれない友達なんかは更に

私が友達と思っているだけで

向こうにとったら

既に友達なんかじゃないってことなんだろう

私的には年賀状を出すことで

『今年も生きてます』ってお知らせするような

生存確認的な意味合いもあるんだけど

要は私が生きてようが死んでようが興味はないし

自分の生死を私に知らせる気もないってことなんだろう

(解釈が重たい…)




きっとそういうことなんだろう




前記事に書いた

糸の先にあるものの話は

そういう想いを書いたもので


きっと

糸の先が繋がっていないものは

もう『断捨離』すべきなんだろうな

と思ったりしている






年賀状じまいをすると言ってきた

友人のうちの一人に

LINEのIDを書いてくれたがいて

新年に新しくLINEで繋がれた子もいて





繋がっていない糸に執着して

大切なものを見失わないように

今の私を大切にしてくれている人に

ちゃんと向き合えるように



繋がっていない糸は

断捨離すべきかな…と

そう思えるようになってきた

2024年の年始でした

そういう人への年賀状は

もう来年辺りで終わらせようかな…と

思い始めている ←わぁ〜私成長してるじゃん!