昨年から一握りの権力者によって、何十万人何百万人の方が苦しみながら、
家族の悲しみと共に天に還りました。
責任の「責」とは、他人の行為や罪などを咎め、なじることです。
プロパガンダに操られると、破壊・暴力・へイトスピーチ等、個人で有れば決して
しないであろう他者への攻撃をしがちです。
そこには自分自身への責任など、ありません。どこまでも攻めまくることも出来て
しまいます。もしもその行為が全くのデマだったとしたら――それは悲劇です。
地球上に80億人いるならば、80億の正義と80億の別の正義が有ります。
正義の反対が正義とは、なんと皮肉なことでしょう。
理不尽で人間性を失った権力者の圧政や暴挙からの解放を求めて、個々では弱い
民衆が集団を作りデモを組んで抗議する気持ちは、誰もが理解できることです。
しかしながら多くの犠牲者が出てしまうと、そのデモ行為は悪意として裁かれて
しまいます。マスコミも真実に対して及び腰です。
責任者とは「責任を取らせる者」では無く「責任を取る者」のことです。
暴力で勝ち取った権利は、やがて暴力で滅びていく事を歴史は教えてくれています。
自分を見失い悲しい非難を受けない
扇動されるデモが必要ない
赦し合い理解し合える世界が一日も早く訪れますように。
その為にも
苦しむ人に迷わず手を差し延べられる自分自身で在りたい、と切に思います。