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初めてトトロを見せる

凛に初めて「となりのトトロ」を見せた。

そもそも我が家では最近子供番組を含めてテレビ見せてなかったし。
一時間半もじっとしていることも、ほとんどないし。
そういう意味で、彼女のわずか3年ちょっとの人生の中で、かなり強烈な体験だったようだ。

テレビの前に二人で陣取り、鑑賞開始。
最初の方は主題歌歌ったり、キャハキャハ笑いながら楽しそうに見ていたのだが。
色んなシーンで泣きまくって、もう大変。

$紺ガエルとの生活 ブログ版日々雑感  最後の空冷ポルシェとともに-ひな祭り

古い家の暗闇の中にお化けやマックロクロスケがいそうだ、というシーンになると。
「コワイ、もう(ビデオ)とめてー」とベソかき始め。
「オトーサンいっしょにいるからだいじょうぶ」となだめすかす。

妹役のメイが自分だと思っているようで。
一人留守番させられて、寂しさに耐えられなくなってお姉さんの学校に授業中にもかかわらず行ってしまう、というところでは。
お姉ちゃんの顔を見た途端、メイはこらえれずに泣き出してしまうのだが。

うちのちびは「ウワーン!」と、大声で泣きだして。

テレビの中のメイは、「泣いちゃいけないの分かっているのに泣いちゃいました」的に、抑えられた泣き方なのに。
お前が全力で泣いてどうする、って感じ。

お父さんが大学から夕方帰ってくるのに、予定より遅くなって。
雨の降る暗い森の中のバス停で姉妹で心細げにお父さんを待つ、というシーンでも。

メイが眠くなって、サツキが大丈夫?と言っておんぶしてあげるのだが。
自分もそうなるので気持ちが分かるらしく、そこでも大泣き。

でも、一番感心したのは。
怖かったり悲しかったところだけ泣くのではなく。
入院中のお母さんがいる病院から電報が来て、「もしやお母さんの身に」と言ってストーリーが急転するのだが。

実はお母さんが無事だった、というホッとするシーンでも号泣。

エンディングテーマはご機嫌で歌っていたのだが。
本篇が終わった途端に、また大泣きが始まって。

何で泣くの?と聞くと、最初は要領を得なかったのだが。

どうやら、お母さんが入院してしまうというのと。
メイが一人迷子になる、という設定がとっても辛かったらしく。

「2階でみるトトロはいいけど、1階で見るトトロはイヤ!嫌い!」と強く主張。

2階で見るトトロ、ってのは、私のパソコンでYoutubeで主題歌聞く、ってことで。
1階で見る、ってのは当然DVD鑑賞。

「ネコバスにメイ、って書いてあって、何かあっても迎えに来てくれるんだよね?ね?ね?」というので、ちょっと可哀想になった。

感受性の強い、気持ちの優しい娘に育ってくれていて。
オトーサンはまたいっそう親バカになりました。

この頃のジブリ作品は、イデオロギー色が鼻につかなくていいね。

となりのトトロ ストラップつきDVD 3701円
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携帯による大学入試での不正を防止するには?

大学入試中に携帯で「Yahoo!知恵袋」に入試の問題を投稿して、他人に問題解かせてた件だけど。
「知恵袋」に投稿したらばれるよね、そりゃ。

再発防止の特効薬は。

試験が実施されている時間に同じような問題を千個ぐらい「知恵袋」に投稿したらいいんじゃね?
それか全部論文入試にするとかwww

もし私が本気で不正を行うとすると、こうやってやるかな。

「ズルして合格したい人」に問題を外部流出させるのではなく。
センター試験で足切りにならない程度の学力を持つ人を、別に用意して。
試験問題を試験時間中に外部に流してブログとかHPにアップさせる。
そして用意した予備校の先生だか現役大学生だかに解かせる。

「ズルして合格したい人」は、仕込んどいた超小型のイヤホンで無線で正解を受ける。
ロン毛にさせときゃ、イヤホンばれないでしょ。

無線だと証拠残らないし。
外部の誰でも見られるHPとかにアップされていれば、「受益者」特定させるのって結構難しいよね。
メールで誰かに送っちゃうと、受取った人から足が付くかもしれないけど。

金だけ渡して、何も聞かずに外部に情報流して、っていうミッションを受けてくれる「噛ませ犬」的な人がいれば、完全犯罪じゃね?

だって、仮に「問題を外部に通報する人」がばれて捕まったとしても。
その人が「誰を合格させようとしていたのか」が分からなければ、「詐欺」的行為の立証は不可能。
ただ外部に問題を流出させただけって、多分犯罪には当たらない。

最悪、その人が不合格になる程度で。
その人はそもそも合格したいのではなく、ただ外部に情報流出させるためだけに受験しているのであれば、何のダウンサイドもない。

映画館にあるような、携帯電話などの電波を遮断するシステムを導入したりしない限りは。
ハイテク「犯罪」は撲滅出来なさそう。


映画「ソーシャル・ネットワーク」を見る

最後に映画館に行ったのがいつだか思い出されないぐらいの私だが。
この映画を見て、「もっと映画を見た方がいいかも」と思わされた。
でも、飛行機の中でタダで見ただけなんだけどね。

映画の質そのものについては、多分色んな意見があるのだろうが。
なんというか、生々しいエネルギーを他人に伝えるための手段として映画って凄いな、と単純に思った。
そして人を興奮させて、アニマルスピリットを駆り立てるための手段として。

私の働いている業界は、おそらく退屈とは無縁の世界のはずだけれど。
Facebookのように、全くのゼロから世界中にパンデミックするようなダイナミズムはない。
フレームワークを作れば、それが有機的にどんどん増殖して、対数関数的に自らその価値を上げていく。
そんなSNSの持つ「拡張可能性」は、金融などとは比べものにならないほど強い。
というか、SNSは「拡張可能性」そのもの、あるいは究極の「拡張可能性」かも。

タレブも言っていたが、いくら優れた医者やヘアスタイリストだったとしても。
彼らは拡張不可能。
どういう意味かというと。
「彼ら自身が物理的にその場にいて彼ら自身の手を動かさないと、彼らの評価の対象となる労働成果物は生まれない」。
違う言い方をすると。
労働時間に収入が比例する度合いが強い仕事ってのが、拡張不可能な仕事ってこと。
だって、天才的な脳外科の医者でも、彼もしくは彼女自身が手術して助けられる人の数は物理的に限られるし。
素晴らしいヘアスタイリストだって同様。

けれど、SNSのようなコミュニケーションのインフラを作るとか、(ある程度だが)金融(あるいは投資)とかは。
自分が物理的にそこにいて手を動かさなくても、拡張可能。
成果物は、時に爆発的なものになる。

しかし。
成功する人はごくごくごくごく一部だけ。
その人たちが極端に目立つから、誰もがそれを目指してしまうが。
実は失敗した人のことは誰も語らない。
何万、何十万、何百万という死屍累々の上に、マイク・ザッカーバーグ(Facebook創業者、「ソーシャル・ネットワーク」の主人公)が降臨している。
彼の映画はこうやって出来て、私のような人間でも飛行機の中で見ていて。
でも当たり前だが、失敗した人たちの話題が多くの人々の口に上ったり、ましてや映画になることはない。
(成功した人はまだ語られるだけましだが、世界を破滅させないように一生懸命地味な仕事をしているようないわゆる「縁の下の力持ち」的な人、すなわち「ネガティブな意味での」成功者も、失敗した人と同様なのがとても皮肉だが。)

ちゃんとアタマではそうやって理解しているのに。
「ソーシャル・ネットワーク」という映画を見終わると。
「自分も拡張可能性の高いことをやらなきゃ」、と思わされる。
そのリスクの高さは、アタマで分かっているのに。
アニマルスピリットを刺激させられる力が、映像にはあるってことなのだろう。
だから、もう少し映画を見た方がいいのだろうな、と強く思った。
だって、アニマルスピリットほど、人にとって大事なものはないから。

といいながら、もう一本映画を見るのではなくて、この文章を書いているのは凄く自己矛盾しているけれど。

(ちなみに某ソーシャル・ネットワークには私もアカウント持っていますので、暇な人は探してみてください)


余談になるが。
日本が停滞している一つの理由は、「拡張可能性」という概念の重要性についての認識が低いからではなかろうかと思う。
すぐに「物づくりがエライ」とかいうし。
労働コストが高いから、賃金の安いアジアの労働者に対して負けないようにもっと付加価値の高いことをすべきだ、とか言っているが。
本質的には、拡張可能性の高い仕事に従事する人たちを増やせば、少子高齢化しようが何しようが関係ない。
付加価値とは何か、ということの理解が浅薄で。

ウォークマンは失敗で、iPodが成功で、とか、簡単に言う人たちが多いけれど。

拡張可能性についての議論は、第二次産業から第三次産業に人的資源を移転する、ということとは本質的に違う。
サービス業でも、ウェイターや掃除してくれる人や介護をしてくれる人たちの仕事は拡張不可能な仕事。

クリエイティブな仕事、というだけでは必ずしも拡張可能な仕事であるということを意味しない。
音楽家だって、その人が実際に演奏しないと人を感動させられないのであれば、拡張不可能。
その人の音楽がダウンロードされたり、CDになったりして、その人がいなくても人を感動させられるようになれば、拡張可能。

拡張可能性という切り口でものを考えれば。
自ずと、何をすべきか見えてくると思うのだが。

親バカ日記

「おとーさーん、おとーさーん」と凛が呼ぶ。
笑いながら私の方に走ってくるので、手を伸ばして捕まえる。
そのまま抱きしめて、片手で持ち上げて。
凛のほっぺたに、私の頰をくっつけて。
私が頰を膨らませると、凛もほっぺたを膨らませてくる。

ただこれだけのことで、どれだけ幸せに思えることか。
そしてこの幸せがいつまでも続くものではないということも、同時に予感するのだが。
でもそのときには、違った形をした幸せがあるのだろう、と思うことにしている。

子供が少しずつ大きくなって、よく考えることがある。
子供は、自分の親を選べない。
親は、自分の子供が選べない。

たくさんいる中から、自分が一番好きな相手を一人選ぶのではなく。
お互い、何かの縁で与えられた相手を、少しずつ好きになっていくのだ。
同じ時間を過ごしながら。

自分が一番好きな人が、突然目の前に現れるなんてことはなく。
そこにいる人を、時間を掛けて好きになっていくのだ。
子供も、連れ合いも、親友も、多分そんなようなもの。

そんなことを、子供に教えられている。

知らない間に、凛はブランコを上手に漕げるようになっていた。
床に投げ出した私の両足を、ジャンプして越えられるようになっていた。
母親の足に抱きついたままだった体操教室でも、先生の手伝いから全部出来るようになっていた。
ストライダーは、ずーっと足を上げたままバランス取って滑るように走れるようになっていた。

彼女は、ゆっくりと、しかし確実に成長していて。
それはとても素晴らしく、喜ばしいことなのだが。
同時に、少し不安にさせられることでもある。

備忘録的な2011年のこれまでの読書日記

備忘録的に2011年のこれまでの読書日記。
今年は意識して日本の小説、それもコンテンポラリーな、を読む予定。
2月11日時点で10作品、12冊。4397ページ。

1月3日読了
歌うクジラ(上・下) 村上龍 ★★★
悪くはないのだが、訴えかけてくるメッセージ性が少ない。
電子書籍化される、ということを過剰に意識したのか文学作品としては弱い。

1月10日読了
ぼくは勉強が出来ない 山田詠美 ★★★★★
これまで持っていた山田詠美に対する先入観が一掃された。
自分の気持ちに正直であり続け、それを人にちゃんと説明できる男子高校生を描く。

1月12日読了
強さと脆さ タレブ ★★★★★
ブラック・スワンのエッセンスを短くまとめた書。むしろわかりやすい。

1月13日読了
晩年の子供 山田詠美 ★★★★★
短編小説集。「ぼくは勉強が出来ない」よりも良い。
最初の短編「晩年の子供」以降、どんどんと鋭さを増していく。どれも心に残る。
人の気持ちの揺れ動く様を文字に表すのが極めて上手な小説家。

1月16日読了
A2Z 山田詠美 ★★★★
連れ合いが浮気して、自分も新しい恋人が出来る。
連れ合いは同業者で仕事ぶりは尊敬に値する。
連れ合いに引き寄せられたのには当然ながら理由があり、自分に恋人が出来たからにかかわらず連れ合いと結婚したのにはやはり理由があった。
女性から見た微妙な心理が描かれるが、やはり女性の書いた小説、といい意味でも悪い意味でも思わざるを得ない。

1月19日読了
抱擁、あるいはライスには塩を 江國香織 ★★★★★
細かい物事の描写が極めて上手い。情景が目に浮かぶよう。
人に価値観を押しつける人たちに対する静かな反発、自分は何歳になっても、どんなしがらみがあろうとも自分の信じる正しい自分であり続けるという気概。

1月22日読了
雪沼とその周辺 堀江敏幸 ★★★★★
一番初めの「スタンス・ドット」のあまりのできの良さに打ちのめされる。
丁寧な描写が必要なところでは、本当に美しい表現が見られる。

2月1日読了
錨を上げよ(上・下) 百田尚樹 ★★★★★
自伝的青春小説。至る所で著者の人生に対する考え方が、様々な登場人物のセリフや独白によって語られる。
ウニの密漁のシーンなどは、本当に体験した人にしか描けないのではないかと言うぐらい生々しい。
様々なテーマがごった煮になっているが、消化不良とは思わせないのは著者の考え方が通り一遍のものでない故か。

2月6日読了
現代人は救われ得るか 福田和也 ★★★★
前半の天皇論が面白い。
堀江敏幸や江國香織(「神様のボート」)、川上弘美(「真鶴」)などの小説について新しく知ることが出来て収穫となった。

2月11日読了
君が壊れてしまう前に 島田雅彦 ★★★★
山田詠美「ぼくは勉強が出来ない」が女性が描く男子高校生像だったが、この小説は男性の描く男子中学生像で、異性、暴力、弟や父親に対する思いなどの描写の生々しさはやはり男性ならではのもの。
くまのプーさんとピノキオの会話は出色。