脚気の歴史的な発見は、1897年に日本の医師である佐藤義美が、脚気の原因が米の精白による栄養素の喪失であることを発見したことに始まります。

ビタミンB1は、主に豚肉、牛肉、豆類、穀類などに含まれています。しかし、脱穀によってビタミンB1が失われた白米を常用している地方では、脚気が多発していました。当時は食生活が貧しかったため、副食では十分にビタミンB1を摂取できなかったためです。

 

『日本書紀』には、既に脚気の症状を呈する病気の記述があることが知られています。

江戸時代になって都市部の住民に白米が普及した元禄年間には、都市部の薪炭不足もあって予めコメを精製する習慣が広まり、特に江戸・大阪で脚気が多く発生しました。江戸・大阪を訪れた地方の大名や武士の足元がおぼつかなくなったり、寝込んだりしたことから、「江戸患い」「大阪腫れ」と呼ばれました。対策としては経験的に他の精白されていないソバなどの穀物や漬物が食べられていました。

明治時代に入り1870年(明治3年)から翌年にかけて脚気が多発しました。明治末までに、毎年最小6,500人から最大1万5,085人が死亡したとみられます。

大正以降、チアミン(ビタミンB1)を精米によりほぼ取り除いた白米が普及するとともに、安価な移入米が増加したことで、副食を十分に摂らずに白米で腹を満たすようになり、脚気が原因で、多くの患者と死者を出しました。

 

海軍軍医の高木兼寛は、イギリスでの脚気患者がいないのに日本海軍の32.8%が脚気であるのは白米が原因であると仮定して、洋食、麦飯を試み、1884年(明治17年)の導入により、海軍における脚気の発症率を激減させました。

農学者の鈴木梅太郎は、1910年(明治43年)に動物を白米で飼育すると、脚気類似の症状が出るが、米糠・麦・玄米を与えると、快復することを報告しました。これを基にして翌年、糠中の有効成分を濃縮して「オリザニン」として販売しましたが、日本の医学界においては伝染病説と中毒説が支配的であり、また農学者であって医学者ではなかった鈴木が提唱したこともあり、彼の栄養欠乏説は受け入れられなかったようです。

 

1912年(明治45/大正元年)にポーランドのカジミェシュ・フンクが『ビタミン』という概念を提唱しましたが、日本陸軍はなおも脚気のビタミン不足の栄養説を俗説であり感染説を重んじたため多くの陸軍兵は脚気に悩まされた史実があります。

 

1923年(大正12年)の脚気死亡者数は、2万6,796人をピークとして、太平洋戦争後まで年間1万人から2万人で推移したとされています。また、大正時代末期は0-4歳の幼児死亡原因の約半数が、脚気によるものであったとされています。

 

1950年代後半になると、アリナミンとその類似品が社会に浸透し、死者が1,000人を下回るようになりました。

1975年頃からジャンクフードの普及による栄養バランスの偏りから脚気が再発しました。また、入院患者に対する高カロリー輸液の点滴による栄養補給の際にビタミンB1が欠乏していたことから、死亡例まで含む重症の脚気が相次いで発生しました。このため1997年に厚生省は、輸液時にはビタミンB1を同時投与するよう通達を出しました。またアルコール依存症患者にも脚気が多く見られています。

2014年には高齢者が食品購入の不自由さから副食を食べず白米だけで食生活を送り、ビタミンを摂取できず脚気を発症する例が報告されています。

しかしインスタントラーメンなどではビタミンB1が添加されているため現在では脚気の心配は少なくなってきています。