家庭教師をやっていた時にある家庭でやり取りをしていて気付いたのだが、庶民達の間で(巷で)しばしば“賢い”という言葉が使われていた。

それがどうもアインシュタインとかそういう賢人を指すのではなく、抜け目なく出世する事に長けている、とか点数や資格を抜け目なく取っているとかいったいわゆる狡知を指していて独特のニュアンスなのである。実利的に生きる巷に降りてくる知性のイメージというのはこういう、変形したものが多い。(ソフィストと、マキャベリや韓非子等とを足して2で割ったようなのが多い)しかしこの経験が私の中でソフィスト像を描き出すのに一躍買っている。

理屈も大事だが、もっと背景にある雰囲気や時代性、経験の中から結局ソフィストってこういう所ではないかと、なぜかしらないけど分かってくる事が大事だと思う。

荘子の友人、恵施という詭弁家はなんと宰相にまで上り詰めていたらしいが、そういう世界の住人なんだろうな、そういう時代の空気の中から若い時に間違えたまま引き返す機会なく異例の出世をしてしまったんだな、と考えている。時代の罠に掛かった人間だったのだろう。

これについては以前も書いた。↓

https://ameblo.jp/97116455/entry-12802224115.html


星田の塾勤務もそうだったが家庭教師で巷を回った経験もソフィスト像に迫るのに役立っている。そして今、岩波文庫の“プロタゴラス-ソフィストたち-を読んでいるところだ。


PS.こう書いているが荘子も間違いなく庶民的思想の持ち主である。謂わば、“賢く”ない庶民だ。