日本のヤバさが非常によくまとまって書かれています↓···私も高校でセンター倫理をやっているので武士道だとか上下天分の理だとか教育勅語だとかそういう悪趣味がまかり通って正しいかの如くであったという悍ましさをよく知るようになりました。

⇀ 2500年前に登場した、孔子の儒教は、
 【五教または五徳(仁・義・礼・智・信)の徳性を拡充することにより、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の関係を維持する】
 というように説明されている。
 https://kusanomido.com/study/history/chinese/57234/

つまり「五倫」=君臣と家族の序列を五徳が支えるというような意味だが、五徳の方は建前のキレイゴトであり、儒教において、もっとも根源にある思想は、五倫の意味する序列である。
 すなわち、儒教の正体は、建前だけの五徳で美化した「序列主義の正当化」といえるだろう。

 「人間には生まれ持って定まった序列がある」
  というのが孔子の儒教の大前提になっている。男女でいえば、男性が上、家族であれば、親が上、兄弟でいえば兄が上、しかし、孔子が本当に言いたかったのは、国家権力における「君臣」関係の序列である。

 すなわち、国家を作った為政者が序列の最上位であり、民は無条件に従うことが国の安泰と繁栄を呼ぶ……とした思想であり、だから、儒教を知った、すべての権力者は孔子に大喝采を送り、儒教思想を国家安泰の思想として取り入れようとした。

 もちろん日本でも、家康が朱子学に感動し、林羅山らに命じて、各藩に「藩校」という学校を設立させ、武家階級に儒教思想を教え、序列主義を洗脳した。
 こうしておけば、戦国時代のような「下剋上」は起きないだろうとの思惑だ。
 やがて、それが庶民にも広がり、「寺子屋」という教育システムによって、儒教が全国民を教化することになった。
 日本全国に、「儒者」と称する市井の思想家が大量に湧いて出てきた。

 こうして「序列主義」で全国民を洗脳するようになって、幕府が瓦解してからも、明治新政府にも序列思想が受け継がれた。
 「人間には生まれながらに序列があり、その最上位は天皇であり、天皇の命令に服することが日本国民の義務である」と、明治以降、戦前の教育によって人々は徹底的にすり込まれていった。
 これは人々を国政に従わせ、馴致飼育するのに都合の良い思想だったからだ。

 「天皇様のおかげで日本国民が生きていられる」
 と信じ込まされていた人は、私の若い頃でさえいたのだ。
 戦争中は、「日本国民は天皇の赤子」であり、「天皇陛下の為に命を捧げる」ことが日本国民の義務であり、最高の人生であると、人々は教育によってすり込まれた結果、日本人は未来を作るはずだった若者たちを中心に、400万人が戦争に殺される結果となり、さらに、日本人が蓄積してきた資産、数千兆円が、国に没収され、戦火に消えた。

 敗戦後、そうした洗脳が解けた人たちによって「朕はたらふく食っておるぞ」と、天皇制が揶揄される時代もあったのだが、アメリカが本当に戦争をもたらした真の戦犯であった正力松太郎や岸信介らを解放した結果、戦後、たちまち勢いを復活させ、再び序列主義も社会に復活することになった。
 (彼らは朝鮮李朝の残党が大きな役割を果たしていたのだが、問題が複雑なので、いつか稿を改めて書くつもりだ)

 戦後の序列思想は、江戸時代のような士農工商の身分制度は消えていたものの、①蓄財の多寡 ②学歴 ③地位 に変わっていた。
 高度成長期以降、人々の価値観は、「たくさん金を儲けた者が勝ち組」と、事業の成功と蓄財が最大の価値であると信じる人たちが増え、学歴や地位の影が薄くなっていたのだが、バブル崩壊後、消費税による足枷によって「低成長安定期」に入った日本では、再び学歴や地位の序列主義が顔を出し始めている。

 「学歴フィルター」は都市伝説? 就活生が語る「体験談」4/10(水)
 https://news.yahoo.co.jp/articles/f23b03dda50f95db311f3c82438641331d33bc28

 2024.02.16 若い人ほど学歴重視、日本の学歴社会はさらに進むか
 https://forbesjapan.com/articles/detail/69119

 【一時、学歴偏重をなくそうという動きがあったが、今はまた学歴重視の社会に戻りつつある。学歴社会は古い価値観だと感じる人が大多数を占める一方で、とくに就活では、学歴はその人の能力を示す非常にわかりやすく便利な指標として重宝される。だから就活生たちも学歴に依存するという構造が、Job総研の調査から見えてきた。

 Job総研室長の堀雅一氏は、「40、50代の”学歴社会への価値観”が新しいものになり、今後の日本社会の風潮が変わっていく可能性も読み取れますが、学歴社会の必要性を20代がもっとも感じ、価値観を受け入れている状態を踏まえると、今後も日本における学歴社会の継続および更なる浸透も予測できる調査結果となりました」】

 日本人のほぼすべてが、学校教育で「優劣をつける」競争を強いられ、人間にランクがあると洗脳されてきた。
 だから、大人になっても人々は「ランキング」に異常なほどの関心を寄せる。ネットの記事を見ていても、ランキングがやたらに多い。

 私のこのブログでもランキング化されていて、私は2000番以下の深い海の底にいるわけだ。だから陽が当たることなど、ほとんどない。
 まあ、無意味な夾雑情報と分類している人が大半だろう。もっとも、ランキングが上がると、たちまち私のブログは、電通子会社の管理で不可解な難癖をつけられて公開停止され、追放されるのだが。

 まあ、ランキングが人生観の根底にある人が驚くほど多くて、例えば、道ばたで初めて出会った人や、会社で営業に訪れたとき、最初に何を見るかというと、その人の人間性や容姿よりも、地位・権力などのランキングである。
 「この人は自分より上か、下か?」が最大の関心なのだ。
 自分よりランキングが下だと思えば、その瞬間から相手を見下すことになり、上だと思えば、相手を持ち上げることで、自分のために利用できないかなどと考える。

 上のリンクで、若者たちが、バブル時代のような金儲け競争が許されない時代背景にあって、幼い頃から洗脳され続けてきたランキング競争の価値観のなかで、「自分より上か下か」の選別は、かつては地位や権力、蓄財であったものが、今では「学歴」が基準になっているわけだ。

 「相手を見下して、服従させる」という意味で、最近では「マウントを取る」という表現が使われるようになった。総合格闘技から来た言葉だと思うが、人が序列を定めて、序列が下だと思った人に取る優越的姿勢が、わかりやすい。
 マウントを取りたがるというのは、相手を見下すという意味であるが、それは「自分の方が相手よりも序列が上だ」という満足感、ナルシズムに浸るという意味も含んでいる。

 1970~90年代は、私のような貧乏な若者でも車を所有できる時代だったから、若者たちが競争主義の勝者となる虚栄心を満足させる主役は、車が多かった。
 高級なスポーツカー、マツダRXとかロードスター、スープラやスカGなんかに乗っていれば、街中で他の若者にマウントを取っているという満足感に浸ることができた。
 
 しかし、今では若者たちに高級新車を購入するような余裕は失われたから、代わりに学歴の優劣が前面に出ているのかもしれない。
 問題の本質は、若者たちの間に、序列の優越感に浸りたいと考える者が増えていることだ。

 私は、若い時代反戦活動家だったし、自分が序列ランキングの最下位に近い人間だったから、今でもランキングには何の関心もない。
 蓄財競争にも見栄張り競争にも興味はない。どちらかといえば、他の人と交わって、その笑顔を見ていられれば幸せな気分に浸れる人間なのだ。

 だが、今の若者たちは、例えガザやウクライナで大虐殺が行われ、その残酷さが報道されていても、若者たち自身による、私の若い時代のような反戦デモの機運も見えない。たぶん東京の反戦デモでも、参加者は、私と同世代が多いような気がする。
 デモに参加するようなヒマがあれば、勉強してより偏差値の高い学校に入ってハクをつけたいということだろう。
 最近の日本は、まるで韓国社会のようになりつつある。

 若者たちは、つきあう相手の笑顔よりも、序列を定めてマウントを取るような人生観をに洗脳されつつあるのではないか?
 これは、とてつもなく恐ろしいことで、かつて日清日露戦争に戦勝したあたりに、日本で同じような風潮があり、そして太平洋戦争につながっていった。

 人を差別する序列主義は、中国と韓国で発達している。「序列主義」という儒教的価値観が何をもたらすのか? それは中国を見ていれば鮮明に分かる。
 権力に服従し、国家の名による強権で個人の人間性や人生を破壊してゆくことが当然という価値観の社会が儒教思想によって成立している。
 何回も引用したが、魯迅の「阿Q正伝」を読めば、中国社会の本質がわかりやすい。
 https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42934_16419.html

 阿Qの結末は、以下のように締めくられている。
 【無知ゆえに筋道たてた弁明も出来ず、阿Qは流されるままに刑場に引き出され、あっけなく銃殺されてしまう。集まった見物人たちは、銃殺は斬首より見栄えがしないなど、不満を述べたてるのだった。】
 阿Qの死は、見物人たちの不満を呼んだ。民衆は首が切り落とされてゴロリと落ちる瞬間や、内臓が飛び散る様を見て満足したかったのだ。
 阿Qに同情する者などいなかった。これが中国社会の真実である。
 人生の価値観に序列主義が存在すると、何が起きるのか?
 我々は、「他人の笑顔を見ることで心が癒やされる」という人生のメカニズムを持っているのだが、その人間性=価値観よりも上に、序列が来てしまうのである。
   マウントを取る相手の笑顔など見たくもない。自分にひれ伏す恐怖や敗北感、屈辱感を見たいという権力者の価値観が芽生えてくるのだ。
 つまり、人間の心温かさは失われ、傲慢さや強欲、優越感、劣等感ばかりが人の心を覆うようになる。
 だから「ヤマユリ園事件」の植松聖や、「京アニ事件」の青葉真司、安倍晋三、竹中平蔵のような人間性が登場するのである。
  我々が生きてゆくうえで必要なものは、他人にマウントを取る自分の優越性ではない。人間の序列でもない。
 ただ、周囲にいる人たちが笑顔で生きてゆけることに幸せを感じる心だけなのだ。
 儒教がもたらした「序列主義」そして日本人全員が幼いころからランキング競争を強いられている現実が、子供たちの未来、日本人の将来に滅亡だけをもたらす、原子力エネルギー開発のような結果を招いていることを理解しなければならないと私は思う。
 
···遠からず、なんでしょうね。しかもこういう事は仕方ないとかむしろ当たり前だとか思い込んだまま生きている人は見ていると非常に多く、洗脳の如き様相をすら呈しています。(例えば学歴信仰とかね。)そういう人は、明確に否定する根拠を、自身でついに一度も体験できずにいるんでしょう。これは簡単に言えば、臨死体験を経験しないままの人と同じようなものです。

※学歴信仰、洗脳がある程度経験により解除された人の一例はこちら↓


私はたまたま留年し始めて以来、荘子を手に取り、東京医科歯科大学を反面教師の好例と見定め一例一例、アンチ儒教の道を進んで行ったのですが、それは空気のように物事が進行する筋書きとして蔓延しています。非常にたちが悪く油断のならないものです。
なので皆さんも間違い探しをするように、周りの人々や自分の考え方や判断の一つ一つが気づかないうちに儒教的になっていなかったかと見直してみてはどうでしょうか。
 
PS.先日、精華町の募金集めの人が来て、「〜、隣組です。」と言っていました。隣組という言葉を戦後も使い続けていた事に私は背筋が寒くなりました。終戦ですべてが立ち消えとなったわけではないのが、ネオナチみたいで非常にたちが悪いなと思います。隣組精神···ああ、悍ましい💦