煮ても焼いても食えない、を久々にネットで調べていて、ヒントになるいいのを見つけました↓

https://japanese-note.jp/nitemoyaitemokuenu/ 

→煮ても焼いても食えぬというしろものがある。せっかくの材料を煮たり焼いたりしたために、かえって食えなくしてしまう人もいる。お化粧したために、せっかくの美人がお化けになってしまうことだってある。

北大路魯山人『味覚馬鹿』より引用


人生の極意が上の説明(下線部)には詰まっている気がします。私の場合は医学部に行った事でしょうか。その表現は更に行くと、こちらの荘子の説明にある表現にもつながっている気がします。↓

 荘子 第一冊 内篇』の「人間世(じんかんせい)篇」では、大きな木のお話が語られている。このお話は、石(せき)という大工の棟梁が弟子と共に旅をしていて、斉の国で櫟社(れきしゃ)のご神木である櫟(くぬぎ)の巨木を見るところからはじまる。そのご神木というのがとにかく大きい。それは数千頭の牛をおおいかくすほどに巨大で、幹の太さは百かかえもあり、高さは山を見おろすほどだという(すごい!)。でも、棟梁はなぜかそのご神木にほとんど関心を示さない。弟子たちがそのことをいぶかしく思って理由を訊ねてみると、あれは役立たずの木だと棟梁は答える。「その木で船をつくると沈むし、棺桶をつくると腐るし、道具をつくると壊れてしまう。つまり、使いようがないから、あんなに大きくなったのだ」

船をつくると沈み、棺桶をつくると腐る、道具をつくると壊れる、この木の有り様を“不材”としましょう。このような有り様をこれ程詳細に描写して人生に生かそうという人を他に知りません。私は当時これを読み、自分の不材たる事を追求しだしました。不材を追求するためにはと考え、“使えない人”をやりに、まず向いていないだろうバイトに申し込みました。それがホームセンターでのアルバイトです。売り場からレジからやりましたよ。私は、それより以前に花の育種をやる蘭裕園でお世話になっていた時に「未科学研究所さん雇っていると企業は利益をあげられなくなる、君の適性時給は350円だ!」と言われて、これはと思い、あの“世界の山本裕之”から不材のお墨付きを戴いた、これは心強い、と自信をつけてホームセンターに乗り込みました。

→本当の不材に、私はなる!

実際、数々の使えなさを経験しましたよ。どんどん作業場を変えられましたし。人から疎まれるとはこういう事なんだな、とそれを密かに楽しみにしていました。というか、楽しすぎる六ヶ月間でしたね。その辺、こちらもわざわざ申し込んだわけで、3日でクビにとはなってやらないわけです。(3日でクビは、大学生時代の飲食店くらいかな。)

私は“使えない私”という全然今までのバイト等での自分と違う顔を知ったのでした。カセットテープをB面に裏返したような感覚です。

塾業界でアルバイトをしていた時の私は“使える私”、そしてこの顔に胡座をかかない事は意外と難しいことも分かりました。悲しい人間の性ですね。つい使える私の時のキャラが出てしまいそうになり、“キミ、使えないの自覚ある?”といった感じになってしまうのです。

この事から私は、世の中で例えば発達障害ブームなどでよくある、「自分の強みを活かして∼」とか言っているのは、本当は凝り固まった自己に執着しているに過ぎないのかもしれないな、とふと気付いたりもしました。

得意な塾のバイトでは表向き使える人間なのをいい事に、塾の造反者として室長などをソフィストとして扱いながら荘子的思索に励みましたが、ホームセンターの世界ではまるっきり別のスタイルからの荘子的思索をしました。結局のところ、このパーツも非常に楽しめました。

※ホームセンターバイトでの裏の楽しみについては例えばこちらに書いています↓

https://ameblo.jp/97116455/entry-12830173258.html 

※この方も明らかに荘子のこの話を知っているらしいですが、不材について書かれていて面白く読めました↓

https://ameblo.jp/isao-nirvana/entry-12827363749.html