1917年 木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)
1922年 大山倍達(崔 永宜) 誕生(朝鮮・全羅北道)
1924年 力道山 (金 信洛) 誕生(朝鮮・咸鏡南道)
1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)
1939年 第二次世界大戦開戦
1940年 金 信洛(力道山)二所の関部屋入門
1945年 第二次世界大戦終結
1950~53年 朝鮮戦争
1950年 力道山 大相撲廃業
1951年 10月28日 プロレスデビュー
1955~59年 馬場正平 巨人軍入団~退団
私はプロ・レスラーになる決意をお世話になる新田さんにうちあけた。
「新田建設もそんなに住みにくいところではないたろう。これから新規まきなおしで、新しいもので苦労するまでもあるまい」
力士を廃業する時に反対され、いままたプロ・レスラーになることに反対された。しかも子供をかかえた私が生活できるのも、すべてが新田さんのおかげである。
言葉を返すことになるが私は、
「人生はせいぜい五十年か六十年くらいのものじゃないでしょうか。しかも私はもうその半分をおわっています。男として悔いのない人生を送りたいと思います。それでどうなるかわからないプロ・レスリングですが思い切ってとびこんでみたいと考えました。私の勝手を許してください」
このとき新田さんは、
「そうか悔いのない人生をやれよ」
といわれたが、その顔はさびしそうだった。のちに人から聞いた事だが、新田さんは私の仕事ぶりから、私を片腕にしようと思っていたということだ。
その新田さんも故人となられた。私の今日の姿も見ていただけないし、私はなんの恩返しもしていない。新田さんには面倒のかけっぱなしで、それが私にはなんとしても心苦しい。
(空手チョップが世界を行く-力道山自伝)
銀座キャバレー銀馬車
店の扉を開いた瞬間、力道山の目にはその男の姿がとまっていた。
1951年 9月末 酒と喧嘩に明け暮れる力道山の毎日に一筋の光差し込むのは、いつものように喧嘩の相手を求め銀座の街を飲み歩いていた時、偶然立ち寄ったキャバレーでの出来事。
…胸板が厚く、手応えの有りそうな男だ。
力道山が突っ掛かると、男はすっと体を交す。
「この野郎! すかしやがって」
一気に頭に血が上り得意の突っ張りで襲い掛かるが、その刹那…
力道山の体は床の上に投げ出され、後ろ手に捩じ上げられていた。
これが力道山とプロレスとの出会いである。
1951年 9月30日 「朝鮮戦争在日国連軍慰問プロレス大会」アメリカのフリーメイソン系慈善団体「トリイ・オアシス・シュライナース・クラブ」が、GHQへの慰問と障害者のチャリティーを兼ねプロレス興行を開催していおり、男はその為に来日した日系人プロ・レスラーでハロルド坂田だという。
世界には、自分より強い奴がいゴロゴロいるという現実に打ち当たった時、力道山の中で今まで迷い巡っていた感情がスーツと解き放たれていた。
この道に賭けてみよう!
そうと決めた時の力道山の行動は早い。
ハロルド坂田
1949年地元ハワイでプロレ
スデビュー。1964年、映画
『007 ゴールドフィンガー』
に出演し、悪役ゴールドフ
ィンガーの部下で、ツバに
刃物を仕込んだ山高帽を投
擲する朝鮮人用心棒のオッ
ドジョブを演じる。同作品
の世界的なヒットにより一
躍有名となり、以降20年に
わたり俳優として映画やテ
レビに出演する。レスラー
としても、トレードマーク
の山高帽を手にオッドジョ
ブのギミックで活躍した。
プロレスデビュー
今回の来日には日本人でレスラーになる人材を探す目的も有ったという坂田に、「お前のようにでかい日本人には、はじめてお目にかかった。もと相撲取りということだが、いまは土方をしているそうじゃないか。それならプロ・レスラーになれ。プロ・レスラーは金の稼げる商売だ」 と誘われると、力道山は早速その翌日からシュライナース・クラブに出向き、アメリカ人レスラー、ボビー・ブランズの指導のもとで3週間ほど練習を積み、米軍の慰問興行でプロレス・デビューを果たしている。
1951年 10月28日 場所は米軍の接収でメモリアル・ホールと名の変わった、力士時代の思い出も深い旧両国国技館。
思い出の地でまわしをパンツに替えリングに立つ力道山。対戦相手は、コーチのボビー・ブランズ。
10分一本勝負のエキシビジョン・マッチは、覚えたての技をがむしゃらに繰り出す力道山をブランズが受け、いなし続ける展開で試合を終える。
結果は時間切れ引き分け。
瞬発力で勝負してきた元力士にとっては僅か10分も長丁場で、力道山は控え室では息を切らしたまま暫く動く事も出来ず、ただ大の字で天井を見つめていた。
「リキドーザン、ずいぶん疲れたようだな。だが僅かな練習期間でよくやった。あれだけやれば上出来だ」
そう笑いながら話し掛けるブラウンズを前に、口を開く事も出来無いほど疲れ切っていた力道山は、ただ視線だけを向け微笑み返す事しか出来ない。
なかなか難しい物だな…
実は最初にトレニングに訪れた時、力道山の心の内には、「昨夜は泥酔して不覚を取ったが、外国人どもは相撲を知るまい、俺が日本の相撲の本当の恐ろしさを思い知らせてやる」そんな想いが有った。
しかし、記録こそこそ10分間の引き分けとなっているが、ブラウンズの掌に乗せられ踊らされただけの完敗と言えるこの内容。そしてこれが、力道山の負けじ魂に火を付ける。
帰国
翌日、力道山は坂田を通訳にしてブラウンズと向かい合う、
「昨日の試合ぶりから見て、お前にはプロ・レスラーとして成功する素質がある。オレが骨を折るからプロ・レスラーになれ」
当然、力道山もこのままで終わらせるつもりは無い。この時、力道山はプロ・レスラーになる決意を固める。
この後力道山は、老獪なテクニシャンのブラウンズの他、パワーファイターの坂田、若くてスピードのあるカナダチャンピオン、オビラ・アセリンと異なる個性のレスラーと5戦を消化する。
いずれも勝利を挙げる事は出来ないまでも、プロ・レスリングの厳しさを痛感すると共に、徐々に対応して行く自分に確かな手応えを感じとっていた。
1951年 12月 すべてのスケジュールを消化した一行は帰国の途に着くのだが、ブラウンズはこう語り掛ける。
「リキドーザン、アメリカには三千人以上のプロ・レスラーがいるんだ。そしていろいろのタイプをみんながもっている。カラフール(個性)ということだ。人気の有るプロ・レスラーはこのカラフールが強い。その点、君は相撲の関脇までいったネーム・バリューがあるし、身体も素質もうってつけだ。私はプロ・レスラーとして成功することに太鼓判を押す」
この短期間の来日で、とてつもない可能性を秘めたダイヤの原石を発見した事に満足したブラウンズは、最後にこう言い残して日本を後にする。
「私は帰国したらさっそく君をアメリカに呼ぶ手続きをする。それまでトレーニングを続けていろ」