巨人 ⑬ くすぶり | まつすぐな道でさみしい (改)

まつすぐな道でさみしい (改)

ジョーサン道の正統後継者。

師匠は訳あって終身刑で服役中…

いっとくけど、超格闘技プロレスjujoの応援blogじゃないからな!

大相撲協会非公認応援blog

1904年 牛島辰熊 誕生(熊本県横手町)

1913年 中村日出夫(姜昌秀)誕生(朝鮮.平壌)

1917年 木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)

1922年 大山倍達(崔 永宜誕生(朝鮮・全羅北道)

1924年 力道山 (金 信洛) 誕生(朝鮮・咸鏡南道)

1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)

1939年 第二次世界大戦開戦

1940年 金 信洛 二所の関部屋入門

1945年 第二次世界大戦終結

1950~53年 朝鮮戦争

1950年 力道山 大相撲廃業

1952年



1955~59年 馬場正平 巨人軍入団退団





私は土方をするなら日本一の土方になってやろうと心に堅く決めた。午前六時から午後九時まで、だれにも負けず泥まみれになって働いた。

“日本一の土方“ であったと自負している。

(空手チョップが世界を行く-力道山自伝)




新田新作
1950年 自ら髷を落とし廃業した力道山は、横綱東富士のタニマチである新田建設社長・新田新作の元に身を寄せている。

この人物、廃業前力道山が相談に来ると、「相撲を辞めてテメェーに何が出来る?  髷を落とした力道など、世間の誰が相手にするか? 考え直せ!」 と一喝するものの、既に二所ノ関部屋の後援者にも見限られ、他に頼る者も無無くなった力道山が、実際に髷を落とし再び相談に現れると、「そういう事なら相撲への気持ちを断ち切って頑張れ」 と、新田建設の資材部長のポジションに据え、大工の日給が180円の時代に月給5万円の高給(現在の資産価値で約100万円)で雇い入れ面倒を見るという任侠の徒であった。


大方察しがつくとは思うが、この人は現在ならプールや公共浴場の類には出入りが禁じられる体の持ち主。FRIDAYや別冊宝島などが黒い交友録なとと大喜びで取り上げそうなネタだが、この時代には別段珍しい話ではない。

当時の大相撲は本場所が年2場所しかなく、それ以外は現在のように相撲協会が全体を仕切って地方巡業をしたのでなく、各一門ごとに全国を回って過ごしているのだが、当然それぞれの土地で地元のヤクザとの交流が生まれる。当時は会場の押さえ、宿泊先の手配、チケットの販売、ポスターやチラシの配布、食事の用意、そのすべてにヤクザが絡んでいた。

この時代、ヤクザとの関与なくして興行というシステム自体が成り立たない。




新田新作
新田建設、明治座社長
元々住吉会系の博徒だったが
終戦と同時に新田建設を立ち
上げる。戦時中、米軍捕虜の
待遇の悪さに同情し、密かに
タバコや菓子などを差入れて
いたのだが、戦後この時の捕
虜の一人がGHQ幹部として
復職し、GHQの復興作業事
業を優先的に新田に回した事
で巨万の富を得る事になる。





ヒョンニム
外伝では学生時代の木村政彦を取り巻く武道家を取り上げて来たが、当然ながら国民的英雄であるプロレスラー力道山には、木村に負けない様々な格闘家との交友が有っただろう。では日本プロレス誕生以前の力道山はどうだったのだろうか?


そもそも、大相撲出身の力道山がデビュー当時から空手チョップを必殺技としている点に違和感を覚えるのだが、力道山の自伝ではこう述べられている。

私の相撲の得意は上突っ張り、上手投げ、上突っ張りというよりむしろ張手を切り札にしていた。 千代の山を一発で土俵上に張り倒したこともある。 現在の空手チョップは上突っ張りと張手からヒントを得て、私が自分で考え出したものだ。
 もっとも私は力士時代から空手に興味をもっていたし、ボクシングをはじめあらゆるスポーツにも関心をもっていた
(空手チョップが世界を行く-力道山自伝)


この自伝で語られる事は無いが、力士時代から力道山にはヒョンニム(朝鮮の慣習で目上の人を兄と呼ぶ言葉)と慕う空手家がいた。

プロレスラーとしての一歩を踏み出したばかりのある日、力道山が山梨に訪ねてきた。
 「先生、私の得意技である手刀にひとつ名前をつけてくれませんか?」
 ぜひ生みの親に名前をつけて欲しいと言うのであった。 事実中村は、プロレス修行に入った力道山に数ヵ月間にわたり空手の手ほどきをしている。
 「たしかに、君の言うようにただの手刀じゃ素人受けする名前じゃないですね。 ましてプロレスはこれからどんどん国際化していくでしょうし、あっちの人たちにも受けるものじゃないといけない」
 「そこなんですよ、先生。 何か良い名前をひとつお願いします」
 しばらく考え込んだ後、中村は、
 「空手チョップじゃどうですか?」
 チョップ――"切る"という意味である。
 「手刀より良いでしょう」
 瞬間、力道山の顔がぱっと明るくなった。 なんとも無邪気な顔である。
 「先生、それは良いですよ。 良い名前です」 
 空手チョップ、空手チョップと力道山はなん度も口の中で繰り返した。
(拳道伝説 拳聖 中村日出夫の足跡)


正直、空手チョップの誕生秘話や名付け親に関しては他にも同じような話が沢山あり、今更どれが正しいのか  などと論じた所で大した意味はない。

しかし、大山倍達と並ぶ空手界のレジェンド拳聖 中村日出夫と若き日の力道山が関係しているという点では、力道山の交友関係も木村政彦に負けず面白い。



中村日出夫と力道山との出会いは大相撲の力士時代とされ、これはまだ中村が山梨県甲府市で修得館という町道場をやっていた時期だ。


初対面の力道山は、「長崎出身です」と言い張っていたが、その言葉の訛りから察した中村は、「私は平壌生まれで本名を姜昌秀という」と明かす。

この言葉に心を開いた力道山は、「相撲は封建的世界で民族差別があるんです」 「横綱になったら朝鮮に帰してやる。と言われ、家族を捨て海を渡ったのに、朝鮮人の自分はどんなに頑張ったところで横綱にはなれない」 と、ずっと胸に秘め、誰にも言えないでいた心の苦しみを吐き出し、その日から力道山は中村をヒョンニムと呼び慕うようになっていた。


当然、その後朝鮮人という事を隠して生きる事になる力道山にとって、中村をヒョンニムと慕っていたとは公には言えない事だろう。

しかし、大相撲の世界で孤立してしまった力道山にとって、同じ朝鮮半島の出身であり、空手家として腕力を持ち、京都帝大を出たインテリでもある中村日出夫は、懐の深い何でも相談できる数少ない人間だったのではないだろうか。



「兄さん、許してください。決して民族の誇りを捨てる訳ではありません」

1951年 2月19日 日本への帰化が認められ、戸籍の本籍地を 『長崎県大村市二百九十六番地』 名前を『百田光浩』 と改めた力道山は、尊敬する中村にだけは涙ながらにそう語ったという。

この言葉から、いかに力道山が差別に苦しみ、その過去を消したがっていたかが伺える。



中村日出夫
空手道拳道會会長
空手十段
素手で材木を切断する『垂木
切り』の演武で知られている
これは、中村の正拳突きや手
刀で打たれた材木が「折られ
た」というより「切られた」
ような滑らかな断面になるこ
とから名付けられた。「空手
に流派なし」をモットーとし
生涯自流を立ち上げず、「拳
道會」という組織の結成に留
まる。メディアへの露出を嫌
い一般的な知名度は低いが、
大山倍達と並ぶ伝説の空手家
漫画グラップラー刃牙の登場
人物愚地独歩のモデルの一人






未練
新田新作の援助の元、資材部長の肩書きと安定した収入を与えられた力道山は、役所への届出や現場での肉体労働にいそしんでいた。

しかし一見順風満帆に見えるこの生活も、20代半ばで大相撲を引退した力道山の、内から湧き出す有り余るエネルギーと止めどない野心の前に、この平穏な日々は余りにも退屈だったのかもしれない。



1951年 6月  力道山の引退の要因の一つとして肝臓ジストマによる体力の低下が挙げられるが、病を克服し体重を120キロ辺りまで戻すと、やはり相撲への未練がつのり力道山は大相撲への復帰を願い出る。

これには新田新作を中心に、相撲時代の友人である横綱・東富士や政界の黒幕と言われる代議士・大麻唯男などの大物が協会に働き掛け、役員会では『引退ならびに廃業力士は復活させることもありうる』との一カ条を相撲協会寄付行為規定に新しく加える事が決定し、力道山も再びまわしを締め二所ノ関部屋の稽古に参加するなど、復帰に向けて体調を整えていたのだが…

力道山の復帰に対して猛反発の姿勢を示したのは力士会だった。


そして力道山は、かつて同じ土俵で一緒に汗を流した、仲間である筈の力士達に締め出され大相撲復帰の道を断たれた。




力道山の生活は以前にも増して荒れた。


うさを晴らすように毎晩飲み歩き、酔った勢いで喧嘩を繰り返す…


おれはこんな事をする為に日本に渡って来た訳ではない。


自分は何者なのか? これから何を成すべきなのか? 自問自答を繰り返し、暗く出口の見えないトンネルをさまよい、もがき続けるような日々…



そんな男の人生に光が差し込むのは、いつものように喧嘩の相手を求め訪れた酒場での出来事。



いったい、あの夜は何だったのだろう?


単なる偶発的な出来事か?


それとも運命に導かれ、力道山はあの扉を開けてしまったのか?


 
人は、どんな些細な切っ掛けからでも変わる事が出来る。


男は目の前を通り過ぎようとするチャンスを見逃さず、貪欲に喰らい付き、必死にしがみ付いて放さなかった。


後から振り返ったとき、人はそれを運命と呼ぶ。


ただ、それだけの事。





これを機に、差別に苦しみくすぶり続けた男の人生が一気に加速する。