宗教の力とは?
【宗教】という言葉は、英語の「religion」を無理矢理日本語に訳したもので、本来日本語には存在しない言葉だったそうだ![]()
明治以前は【宗教】という言葉も存在せず、【宗教】という概念すらなかった。
明治になってはじめて輸入された概念なのだ。
『新しく言葉が生まれるということは、その言葉によって世界の見方が変わるということ』
【宗教】という概念がなかったそれまでの日本にはもちろん神道や仏教もあったが、人々はそれを【宗教】として認識しないまま、神社やお寺にお参りしたり道端のお地蔵様を拝んだりしていた。
大日本帝国を世界の列強に伍する軍事国家にするために政府が人工的につくり上げた『国家神道』。
その『国家神道』も太平洋戦争敗戦後に解体されたが、もともと古くからあった『神道』とはまったく関係ないものだ。
この本で、著者・苫米地英人さんは【宗教】を批判しているが、ここでいう【宗教】は、時の政治権力と結びついて民衆を支配者の意図に沿って洗脳していくような、国家レベル、あるいは超国家レベルで世界的に広がっている大宗教のことを指している。
地域の文化と密着した社会的慣習としての宗教的行事や個人の信仰心を否定するものではないと、書いてあった。
では、早速【宗教】について学んでいこう![]()
宗教には、人の心を支配し、考え方を歪ませてしまう強力な力がある。
たとえば、インドのカースト制度がそうです。
カーストとは、ヒンドゥー教にまつわる身分制度のことです。
私たちが学校の授業で習ったのは4種類でした。
最上位には司祭・僧侶などに就くバラモン、続いて王や貴族などのクシャトリヤ、商業や製造業などに就く平民であるヴァイシャ、最下層に位置づけられた隷属民とも言われるスードラの4つです。
この4種類に入らないさらに下層の不可触賤民をアウトカーストと言います。
実際には6000種類のカーストがあって、それぞれすべてに宗教上の理由があるとされています。
カーストは身分や職業を細かく規定しています。
カーストが定める職業以外の職業には就職できないようになっているのが実態です。
カーストは世襲であり、それを変えることはできません。
他のカーストの職業に就きたくても就けません。
ですから、いつまでたっても上のカースト以外は大企業に入れませんし、入っても絶対に社長や会長にはなれないのです。
今でもインドでは、バラモンとアウトカーストがすれ違ったときに身体が触れると、アウトカーストは袋叩きに遭います。
触れられたバラモンは、悪いカルマがついたからという理由でそれから3ヶ月間は修行に入らなければいけないとされています。
日本にそういう宗教があったら、明らかにおかしいですし、非難を浴びるでしょう。
ですがインドでは逆に、そういう宗教を信じていない、カーストを受け入れていないほうがおかしいのです。
現在のインドの人口12億のうち、カーストの下のほうにいて貧困層とされる人たちの割合は、だいたい9億人くらいと考えられています。
あるとき、カーストの下層の人たちと会う機会があり、私は「皆さんは人口の多くを占めているのだから、投票でその意思を示せばいいではないですか。皆でカーストに反対すればいい」と言いました。
もちろん、カーストは法律ではありません。
それどころかインドの憲法ではカーストによる差別は禁止されています。
しかし、社会に深く根づいていてなかなか解消されないというのが実態なのです。
そこで、適切な立法によって差別にはっきり「ノー」と言い、違反者には罰則を科すようにするのは実効性のある方法だと考えたのです。
ところが、返ってきたのは意外な言葉でした。
「迷惑なことを言わないでくれ。私は前世で悪いことをしたために、今は低いカーストに生まれてきている。この人生ではカルマを精算しているに過ぎないんだ。それを君らに止められると、私は来世で高いカーストに生まれ変われない。君の言うことは大迷惑だ」
賛成されるどころか、怒られてしまったのです。
差別されている当人が、信念を持って差別の存続を望んでしまう。
宗教は、これほどまでに人の心を支配するのです。
これが宗教の力です。
憲法より強い社会に根づいたカースト制度![]()
前回まで前世療法で、【輪廻転生】について学んできた。
そこでは、精神を病んだ患者らが、精神科医による前世療法で前世を思い出し、人(魂)は死なないと強く信じたことで、あらゆる症状が改善していった。
『死』をむやみに恐れなくなると、人の心は安定するのだなと思ったが、この【輪廻転生】の教えにより、インドでは差別が生まれ、低いカーストの人々は現世をカルマの精算にあてることになってしまったのか。。?![]()
苫米地さんは、ある特定の宗教を信仰している状態というのは、術者に催眠をかけられている状態と同じで、何者かに意のままに操られていたとしても、宗教がもたらす深い催眠下ではそうと気づけず、従順に従ってしまうと言っている。
私は無宗教だが、神様はいると思っている。
輪廻転生もある派になった。
葬式はしたくない、墓もいらない。葬式利権だと思っている。
これは以前読んだ本の影響だが、
こちら↓
前回学んでいた輪廻転生でも、どのように葬られたかは関係ないと書いてあったので、余計にそう思う。
しかし、例えば『仏滅』に結婚式をあげたり、茶碗に盛られたご飯に箸を突き刺したまま渡されたら。。
なんか嫌![]()
信仰心はないのに、どうして?![]()
こちらの本では、宗教や神を信じているわけでもないのにそういう気持ちになるのは、道教や陰陽道の迷信と書いてあった![]()
迷信として『恐怖』が埋め込まれているからであり、宗教は【言語束縛】を使いつつ、『恐怖』を支配の道具としてきたからだという。
ん?【言語束縛】ってなんだ?![]()
いや、まずその前に、前回のブログでも少し紹介したが、この世界は情報でつくられており、言葉ありきなのだ。言語化されていないものは存在しないのと同じなのだ。
そして【宗教】は言語を介在させるものらしい![]()
。。。ん?介在?介在ってなに?![]()
調べたら、二つの物の間に挟まって存在すること。仲介する。とある
ふーん。。。
ユダヤ教やキリスト教のような狭義の【宗教】はもちろん、古来【宗教】と言われるもののおよそすべてが、言語で記述された教典や教義、戒律などを備えている。
苫米地さんは、宗教は人々を支配する道具として用いられてきたと述べているが、宗教が人々を支配するための道具が言語であり、言語が人々を支配し、束縛してきたとも言えると説明していた。
【言語束縛】とは、そのまんまだ。
人々が言語によって束縛されている状態を【言語束縛】という。
この世界がすべて言語によって認識されているということがそもそも【言語束縛】ですし、宗教あるいは教団が、教典や教義や戒律などを用いて人々を支配している状態も【言語束縛】と言えます。
【言語束縛】を受けている世界では、言語化されていない場所へは一歩たりとも踏み出せません。
いわば言語世界の住人は、言語世界に一生囚われの身ということになります。
ところで、物理宇宙以外の宇宙に臨場感がある状態を『変性意識状態』と呼びます。
例えば私たちが小説を読んだり映画を見たりしたときに、小説や映画で描かれる世界は架空の情報空間であるにもかかわらず、感動して涙を流すことがあります。
他人が言語で作った仮想世界なのに、現実の物理空間よりリアルに感じられるからです。
このとき私たちは物理空間の現実より情報空間のフィクションのほうにより強い臨場感を感じています。
それを『変性意識状態』にあると言います。
つまり人間は『変性意識状態』にあるときに、もっとも【言語束縛】を受けやすいのです。
宗教による【言語束縛】は、まさにそういう構造で行われてきました。
聖典や神話に書かれているのは言葉による仮想世界です。
世界の始まりや死後の世界や前世・転生など現実世界では確かめようのない事柄がいろいろと書かれています。
教義や戒律には、「あの世」や来世で幸福に健やかに過ごすためには、「この世」で教団や聖職者を敬い、お布施や寄付を行い、布教や信徒拡大に協力しなければならないと書かれています。
それらはもともとすべて情報空間のフィクションであるわけですが、人々を『変性意識状態』に導き、物理空間の現実により情報空間のそれにより臨場感を感じるように仕向ければ、人々は容易に宗教の言語世界に束縛され、そこから抜け出すことができなくなります。
そして人々を『変性意識状態』に導くための装置が教会やお寺や神社であり、聖歌やお経やマントラであり、過酷な修行体験であったりするわけです。
私たちが神への信仰のつもりで聖典や神話を読んだり、祈ったりするのは、その言語世界に取り込まれ、束縛される道を自ら選ぶことなのです。
ほぉ〜。こうして読むと、私は宗教にハマりやすい。
昔、マルチにハマりかけたのも納得だ![]()
簡単に洗脳されてしまうわ![]()
苫米地さんは、人は「完全情報への渇望」を抱いているから宗教に惹かれるのではないかと言っている。
人間を情報システムととらえれば、わからないことだらけだ。
月の裏側はどうなっている?いつ、大災害が起こる?自分の寿命は?など。。考えてもキリがない。
特に死は、人間が不完全な存在であることを冷然と突きつける。。。すると、どこかでそれをすべて知っている存在、不安や恐怖を解消してくれる存在があるに違いないという「完全情報への渇望」を抱くようになる。
宗教は、人間のそういう欲求をすくいとるシステムとして発達してきたらしい![]()
地球の人口70億のうち、おそらく69億9000万人ぐらいの人がいまだに宗教を必要としていています。
その人たちに共通しているのが、恐怖の感情です。
病、別離、孤独、貧困、そして死。
人々は多くの恐怖に苛まれています。
宗教が信仰と引き換えに信者たちに与えるものは昔も今も恐怖からの「救済」です。
恐怖からの逃れることのできる魂の安寧の場所を約束するのです。
しかし、その「救済」はまやかしです。
宗教が「救済」を唱えるときは、いわゆる「マッチポンプ」が多いものだと理解してください。
ありもしない恐怖をでっちあげて、その恐怖から逃れるためには自分たちの宗教を信じるしかないと言って、信者たちを脅迫するのです。
霊は存在しないのに悪霊を取り除くと言ったり、あの世は心の中に作られたイメージにすぎないのに、あの世の行き先がお布施の額で変わるかのように信者を脅したり、あたかもお金がなければ餓死すると言わんばかりに貧乏の恐怖を煽ってみたり。
マッチで火をつけて自分で火事を起こしておいて、やおらポンプを持ち出して水をかけて、「消した、消した」と騒ぐようなもの。
まやかしのストーリーをでっちあげて恐怖心を煽り、私たちへの束縛を強めようとしているのです。
そのような人たちが唱える「救済」を信じていても、魂の安寧の場所などどこにもありません。
え?霊はいるよね?霊は存在しないって書いてあったけど。。
私は幽霊はいる派だ
過去のブログ↓
写ルンですであかんもんが写ったからだ。
だから私は幽霊はいる派。
実はこの後も、写真に変なもんが写った。
ピンボケ?幽霊?![]()
私は、過去の心霊写真事件でトラウマになっており、当時の恋人の友人がお世話になった霊媒師?さんを紹介してもらい、恋人と一緒にその霊媒師さんのところへ行った。
余談だが、その友人がなぜ霊媒師さんを紹介できたかというと、悪霊に取り憑かれた経験がありその時にお世話になったからだ。
当時一家心中した家が隣の県で有名な心霊スポットだったんだが、そこに恋人とその友人ともう1人の友人の3人で遊び半分で肝試しに向かったそうだ。
彼らは、深夜誰もいないその空き家にはいり(よく考えたら不法侵入で犯罪だな)調子に乗って、「悪霊退散ー!!」などと言いながら、仏壇に持参していた塩をぶつけて遊んでいたそうだ。(最低だな)
そこでは特に何も起こらないまま、帰るために車に乗った。
その心霊スポットは田舎にあった。
帰り道、道を間違えて酷道を走る羽目になった。
これは、恋人から聞いた話だが、その帰り道で友人に異変があった。
狭い山道を走っていたのだが、後部座席に座っていたその友人が突然奇声をあげた。
助手席に座っていた恋人はビックリして振り返ると、すごい形相をして窓の外を指差していた。
はじめは、またまた脅かそうと冗談でやっているのだろうと呆れたが、様子が変だ。
「女だ!女がこっちをみとる!おんなぁぁ」
と叫び、ボロボロと涙を流していた。
恋人は窓の外を見たが、ガードレールがありすぐ下は崖の道だ。
女も誰も見えない。
その友人は完全に狂ってしまっていた。
恋人と運転していた別の友人は、急いで帰ろうと山道を走るが、なぜか酷道から出られない。
車内は緊張がピークに達していた。
奇声をあげ泣き叫ぶ友人に震える2人。。。
やっとのこと地元に帰ってきた時はもう明け方になっていた。
狂った彼を自宅に運ぶと、母親が起きてきた。
母親は息子の様子をみて、どこに何をしに行ったんだ!とキレていた。
その後、友人は起き上がれなくなり気が狂ったままだった。
もともと霊感体質だった母は、お世話になったことがある霊媒師さんのところに、狂ったままの息子を連れて行った。
案の定、取り憑かれていた。
霊媒師さんにより、無事に正気に戻ったらしいが、彼はその時の記憶だけなくなっている。
覚えているのは、心霊スポットに行ったことと、我にかえった時に霊媒師さんからこっぴどく説教を受けたことだけだった。
そんなこんなで、紹介されたその霊媒師さんのところに疑惑の写真を持って恋人とむかった。
長屋の古い家のひとつがその霊媒師さんのお宅だった。恐る恐る中に入ると、ベンチがあり、そこで待つように言われた。
すでに1人待っている人がいたが、一目でやばい。。と思える人だった。。
病んでいたからだ。。。
その霊媒師さんは、怖そうな神経質なじっちゃんだった。
順番が回ってきたので、写真を見せたら、怒られた![]()
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「こんなもん、心霊写真でもなんでもねぇわ!のこのことこういうところに来るな!騙されて大金取られるぞ!香水臭いし(彼がつけていた)けぇれ!」
ビックリして、どうしていいか分からなかったが、とりあえず心霊写真じゃないと見てもらった?から、私は財布を出そうと鞄に手を突っ込んだら、また「なんもいらんから、けぇれ!」とシッシッとされた![]()
私と香水臭いと言われた彼は、とりあえず一礼して去った。
今思うと、あの霊媒師さんは本物だったんじゃないかなーって思う。
過去のブログに書いた心霊写真は寺で供養してもらったが、5分ほどのお祓いで、飛んでった額は五千円だ。
でも、寺でお祓いしてもらったという謎の安心感を得たのだから、五千円は安いのかもしれない。
ようは自己満だ![]()
でも。。写真がただのピンボケで心霊写真じゃなかったとしたら、霊媒師のじっちゃんのように本当のことを言ってくれただろうか?いや、あのお寺はきっとお祓いをしただろう。そして、きっちり五千円をもらうだろう。
あの写真をあの霊媒師のじっちゃんに見せたら、どうなっていたんだろう?
あれは、私は本物の心霊写真だと思っているが。。
20年以上前の話で、その長屋の場所も記憶から消えているし、じっちゃんももぅこの世にはいないかもしれない。
あれ?宗教の話からだいぶ話が逸れたな![]()
次回、また宗教について学びます!
最後まで読んでくれてありがとう![]()
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