隠蔽された歴史



『日本人は、集団意識が強いのか。』



これは以前こちらの本↓

【誰が誰に何を言ってるの? 森達也】

をブログにまとめていた時にずっと考えていた。




この本の中で「日本人って外から見たらこんな印象なんやあんぐり」と思ったのがこちらだ↓

もぅ一度紹介する指差し


豪華客船タイタニックが沈む直前、乗務員たちは海面に救命ボートを投下した。


次に彼らがやるべきことは、船が沈没する前に乗客たちを海面に飛び込ませることだ。
しかしタイタニックほどの豪華客船となると、デッキから海面までの高さは5階建てのビルほどもある。
そう簡単には飛び込めない。

女性や子どもの乗客に対しては乗務員たちもできるかぎりのケアをするが、とてもじゃないが手が足りない。
だから壮年の男性客については、できることなら自分たちで飛び込んでもらいたい。

そこで壮年の男性客を海に飛び込ませるためのフレーズ(殺し文句)が記されたマニュアルの出番となる。

世界的な豪華客船だから乗客の国籍もさまざまだ。
だからこのマニュアルは、いろいろな国別に編纂されている。

まずはアメリカ人男性を海面に飛び込ませるための殺し文句。

「今飛び込めば、あなたは間違いなくヒーローになりますよ」

これを耳もとで囁かれたアメリカ人男性は、「早く言ってくれよ」と言わんばかりに、ためらうことなく海面に飛び込んだ。

次はイタリア人男性だ。

「海面には若い女性がいっぱい浮かんでいますよ」

次にドイツ人男性。乗務員はその耳もとに囁いた。

「すぐに海に飛び込めとの法案が、さっきお国の国会で可決されたそうです」

こうして男たちは次々に海に飛び込んだ。
効果は抜群だ。

乗務員はデッキを見回した。
眼鏡をかけた小柄な男性が、青ざめてぶるぶると震えながら立っている。

日本人だ。

マニュアルの日本人のページに目を通してから、乗務員は首を傾げる。
本当にこんなフレーズに効果があるのだろうか。
まぁやってみよう。
乗務員はデッキの上の日本人に声をかけた。

「あの、みなさん飛び込んでいらっしゃいますよ」

次の瞬間、日本人は海面に飛び込んでいた。



これは日本のジョークではない。
世界のジョークだ。
つまり外国の人たちが抱いている日本人のイメージ。
言葉にすれば集団主義。もう少し具体的に書けば、自分が帰属する共同体への過剰な同調と従属。
悔しいけれど確かに当たっている。


私もドイツ人と日本人へ向けた声かけなら、なんか飛び込めそうだw アメリカ人とイタリア人への声かけでは動かない自信がある。

赤信号みんなで渡れば怖くないって言うし、そういうもんなんだろうか。。。真顔



【個人】より大きい【集団】


ちなみに私は、自分だけが損するのは嫌だ。

でも、周りが自分と同じだけ損していたら、(まぁ仕方ないか。あの人達も私と同じだけ損して苦労してるし、まぁ我慢しよう)って、自分を納得させている。そういう性格だ真顔


働いても働いても税金で取られる。でも私だけじゃない。だから仕方ない。国がそう決めたなら覆せない。ネットで騒いだって、何の意味もない。我々は無力なのだから不安

そんなふうに、自分を納得させている。


これだけ国にむしり取られているのに、暴動は起きない。国民性なんだろうか?

世界から見たら日本人は大人しいのだろうか?


本当にそうか。。。。??凝視




集団意識というのは、時に人を狂わせる。


これも森達也さんの本で紹介されていた【蟻の兵隊】という話を、私は図書館で見つけて借りてきた。


【蟻の兵隊】をまとめた時の↓


蟻の兵隊というのはどんな内容の本か?

私は歴史オンチなので、初めて知った。


【蟻の兵隊 日本兵2600人 山西省残留の真相 池谷薫】


この本に書かれているのは、【山西省残留問題】だ。


こんなことが戦後にあったのだ不安


1945年8 月、ポツダム宣言を受諾した日本は連合国に対して無条件降伏し、海外に派遣された帝国陸海軍の将兵たちは、すみやかに武装を解除され、家族の待つ祖国へ帰国することになった。


しかし、中国山西省に駐屯していた北支那方面軍隷下の北支派遣軍の将兵約2600人には、中国国民党系軍閥の部隊に編入され国に帰ることは許されなかった。


戦後なおも3年8ヶ月にわたって中国共産党軍と戦い、550人余りが戦死した。

生き残った者も700人以上が捕虜となり、長い抑留生活を強いられた。


ようやく帰国することができたのは昭和30年前後になってからのことだった。


ところが、帰国した彼らを待ち受けていたのは逃亡兵の扱いだった。

日本政府は、残留将兵たちが「自らの意思で残留し勝手に戦争をつづけた」とみなし、彼らが求める戦後補償を拒否しつづけたのである。


2001年5 月、元残留将兵ら13人が原告となり軍人恩給の支給を求めて国を提訴した。

しかし、一審判決では国側の主張が全面的に認められ、原告側は敗訴した。


山西残留問題は歴史の闇に葬むられた。


しかし、第一軍将兵の残留は、大本営や日本政府、さらにはGHQの一部がグルになって進められていた可能性が高いと著者・池谷さんは言っている。。。


そんでもって、やはりここでも位の高い軍人は一目散に帰国している。こんなんばっかやないか。。。



戦後、国に帰れず、中国共産党と戦わされた残留将兵は被害者である。

しかし、彼らが中国で兵士ではない一般人にしてきたことは、許されることではない。(詳しくはブログに書いた)


戦争は人を狂わせる。

集団意識がそうさせるのだろうか?

同じ日本人が敵国の一般人を殺害するのを隣で見ていたら、麻痺してしまうのだろうか。

殺された彼らは兵士じゃないのに。。。女性や子供を殺すことにも何も感じなくなるのだろうか?



私もあの時代、その場所にいたら綺麗事なんて言ってないで、集団意識の渦のなかで人を殺めてしまうのだろうか。

悪いことをしているのは、隣のやつも同じだと自分に言い聞かせて。



山西省残留問題を知ってまた考える。


きっと私が知らない闇に葬られた歴史は他にもたくさんあるはずだ。


日本を動かしていた彼らは国内で、世界で、何をしてきたのか?



前回まで学んでいた原爆にしてもそうだ。

前回↓



はだしのゲンを子供と読んでいた時にも思った。

原爆の被爆者に対して、国がしてきたことは酷すぎないか?と。

本当に救われない。。。


被爆者に対して国がしてきたこと↓



そして、前回までまとめていた古川愛哲さんの本にも被爆者に対する仕打ちが書かれていて胸が痛んだ。彼らは鬼なのだろうか?


【原爆投下は予告されていた 国民を見殺しにした帝国陸海軍の「犯罪」 古川愛哲】より。


昭和六二年(一九八七)の秋、新聞を開いた私は仰天した。


そこには、

「放射能許容量の算定基準に誤り」

との見出しが載っていたからである。


読むと広島と長崎では、実際よりも約五分の一も放射線被害が少なく算定されていたというではないか。


(中略)


今日、「最大許容放射線被曝線量」という言葉は使われなくなった。

長崎の被曝線量がそれまでいわれてきたものの五倍だったことが公式に認められて、今では法令改正で「線量限度」と呼ばれる。


「線量限度」とは、限度を越えれば確実に発症するが、越えなくても発症する恐れがあるとの意味である。

それは人体に「放射線の許容量などない」ことを意味する。


1984年頃は、放射線医学では「最大許容放射線被曝線量」の言葉がまかり通っていたそうだ。


「それは広島と長崎の被爆者の放射線障害の追跡結果で作成されたもので、原爆投下後の戦災と苦しみのなかで亡くなった方々が残した、貴重な国際的な医学遺産である。」


この貴重な医学遺産は、無残にも改竄されていたのだ。。。


戦後五年間、昭和二〇年から二五年(一九五〇)までに、癌や白血病で亡くなった被爆者は、原爆被爆以前から罹患していた可能性があるとの屁理屈で、統計から外されていたのである。


あえて「屁理屈」と書く。

それは、核政策上のアメリカ側の指導であったからである。


当初は、爆発やケガや火傷をしていれば、放射線障害から外された。

原爆は上空で爆発するので、その爆煙(きのこ雲)は成層圏に至り、風とともに放射線物質は大気圏へ拡散し、地表に残留放射線は存在しない。「黒い雨」は地上の泥が舞い上がり降ってきたものに過ぎない。

こう、アメリカは強弁していたのである。


いずれにしても、広島と長崎に設置されたABCC(原爆傷害調査委員会)が放射能の影響を少なく見積もるために意図的にデータを操作したのであった。


ABCCは、その運営資金の九割をアメリカ政府、すなわちエネルギー庁が負担した施設で、被爆者の治療はせず、経過観察と解剖の統計を取ることを目的とした。


この事実が発表されたのは昭和六二年(一九八七)のことだったが、心底から怒りが込み上げたのを今でも覚えている。

中立であるべき科学への幻想は、私のなかで木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。


核兵器の残虐性を否定するためアメリカ政府は、被爆者の放射能による影響を極端に少なく見積もったのだが、この政策に日本政府も追従した。


唯一の被爆国を名乗りながら、日本政府は被爆者の救済には消極的だった。

しかも、放射線の許容量を安易に認めて「最大許容放射線被曝線量」という言葉を平然と使用したのである。


これは広島、長崎の犠牲者の魂を土足で踏みにじることにほかならない。


軍人恩給は国の財政を破綻させるほど手厚かったが、被爆者への掩護費用は雀の涙ほどである。ここに私は戦後の政策への怒りを抱いた。


はだしのゲンでもたしか同じようなことが描かれていたな。。


古川愛哲さんの本には、一般的には知られていないだろうことがたくさん書かれていた。

詳細は省いてものすごく簡単に言うと、インパール作戦に従事した弓兵団(第三三師団)は、ほとんど壊滅状態でビルマから撤退したが、そのときビルマ戦線に飛行機でやってきた辻政信作戦参謀は、ビルマからの弓兵団の撤退を命じ、兵站病院に対して「勅命」と称して、こう命令した。

「払暁ふつぎょうまでに病院および傷者を始末し、撤退を命ず!

兵站病院は300名の患者を収容していたが、幕舎とともに生き埋めにされた。


なぜ、そんな命令が下ったのか。

それは患者が捕虜にならないためだ。


もし、即死せず気絶して捕虜になった場合は、気がついたら「即刻、死を始むべし」なのだ。

何が何でも死ね。なのだ。


こうした教育を強要した参謀たちの多くは生き残り、占領軍の下で日米戦史を書き、今日の「太平洋戦争史」の骨格を作ったという。

もちろん、上記のような戦争の実態は秘められたままだ。

さらに、隠さなければならぬ文書焼却されている。

これにより機密文書の接収を防ぎ、情報の流出を防ぐことができた。

だが、戦犯裁判において、被告弁護に必要な証拠書類が決定的に不足し、無実の被告を守れない結果となった。


「現在、防衛研究所に所蔵されている文書類は故意に焼却されなかったもので、言い方を換えると米軍に接収されてもやむをえないと考えられた性質のものである」




次回もまだまだ戦争についてまとめる。


最後まで読んでくれてありがとうニコニコ