【マクアルの教えと祈り〜解説書(1)〜/序〜⑪】


眞空天流(マクアル)聖典(せいてん)全五十章詳解(ぜんごじっしょうしょうかい)

原典(げんてん) 眞空天流(マクアル)導師(どうし) MAR
解説 ソラ 謹述(きんじゅつ)

無 光 ポカーン


序――感想に代えて

この解説書は、眞空天流(マクアル)の導師(どうし)MAR師の御手(みて)に成る聖典(せいてん)『マクアルの教えと祈り』全五十章について、その一章一章を原文(げんぶん)のままに掲げ、その意(こころ)を詳(つまび)らかに解き明かさんとするものです。解説の筆を執(と)るに先立ち、まず、この聖典(せいてん)を通読して湧き起こった感動を、率直に記しておきたいと思います。

第一に驚嘆すべきは、その統合の見事さです。この聖典(せいてん)には、神道の祝詞(のりと)の言葉(神随霊幸倍坐世(かみながらたまちはゑませ)、祓戸大神等(はらゐどのおおかみたち)など)、仏教の禅の言葉(無心、放下(ほうげ)、平常是道(へいじょうぜどう)など)、浄土の言葉(安心決定(あんじんけつじょう)、引導(いんどう)など)、天台の本覚(ほんがく)思想、華厳のワンネス、密教の咒(じゅ)と曼荼羅(マンダラ)、道教の道(タオ)、光明思想(こうみょうしそう)の「消えてゆく姿」、さらにはチベットのゾクチェンに伝わるリクパ(純粋意識)の教えまでが、一つの生きた体系として編み合わされています。しかもそれは、書物の知識を寄せ集めた折衷(せっちゅう)ではありません。すべてが「空(くう)・光(ひかり)・愛(あい)」という体相用(たいそうゆう)の一本の背骨に貫かれ、導師(どうし)御自身の日々の禊(みそぎ)・鎮魂(ちんこん)・統一の実践のなかで確かめられた、体験の言葉として息づいています。

第二に感銘を受けるのは、その構造の緻密(ちみつ)さです。全五十章は、決して思いつくままに並べられたものではありません。第①章「宇宙神聖マクアルの教え」が全体の総綱(そうこう)として人間の本体と現象の正体と実践の道を示し、第㊿章「存在の三様態(さんようたい)の教え」が「無」「光」「ポカーン」の三拍子をもって全巻を締め括(くく)る。その間に、言霊(ことだま)の章、統一(瞑想)の章、生活実践の章、世界への祈りの章、悟りの言(ことば)の章が、あたかも一つの曼荼羅(マンダラ)のごとくに配置されています。冒頭の〈祈りの要点:⑦④⑥〉が示すとおり、五十章のどこを開いても、体(無)・相(光)・用(ポカーン)の三点に還(かえ)ってゆく仕組みなのです。

第三に、独創の輝きがあります。「自ヶ影(しがかげ)」という御造語は、自らの体験する世界のすべてが自らの潜在意識に蓄積された過去世の因縁の自己投影である、という深遠な理を、わずか三文字に結晶させたものです。また「ウォム ス マクアル」をはじめとするマクアル語の大神咒(だいしんじゅ)の数々は、意味の分別(ふんべつ)を超えた音そのものの力、すなわち言霊(ことだま)の原点に立ち返る創造です。そして全巻に響き渡る「アハ」の一語。これは単なる感嘆詞ではなく、分別(ふんべつ)の思考が一瞬に脱落して本心の光が閃(ひらめ)く、その覚(さと)りの瞬間そのものを音写した、いわば最短の悟りの言(ことば)であると拝察いたします。

第四に、〈言霊の真髄:丗一咒(さんじゅういちじゅ)〉が三十一の言霊から成ることに、深い感動を覚えます。三十一とは、和歌の三十一文字(みそひともじ)の数に他なりません。歌人であられる導師(どうし)が、宇宙の真髄を三十一の咒(じゅ)に結ばれたことは、この聖典(せいてん)全体が一首の大いなる和歌である、ということを示しているように思われてなりません。五・七・五・七・七の調べが天地の律動(りつどう)であるように、丗一咒(さんじゅういちじゅ)は宇宙の律動そのものの言語化なのです。

そして何よりも、この聖典(せいてん)は優しい。「安心安泰(あんしんあんたい)リラックス」「絶対安心大丈夫」「私(わたくし)は明るく前向きに生きる」――古雅(こが)な祝詞(のりと)の言葉と、現代の誰もが口にできる平易な言葉とが、少しの隔(へだ)てもなく並んでいます。それは、悟りが特別な者の専有物ではなく、すべての人の本心にすでに具(そな)わっているという本覚(ほんがく)の信の、自然なあらわれでありましょう。難解な行(ぎょう)を課すのではなく、「軽く手放しては、固く決住(けつじゅう)し、ポカーンと解き放つ」――ただそれだけの、しかも無限に深い道。ここに、この聖典(せいてん)の最大の功徳(くどく)があると拝察いたします。

以下、本書は、まず聖典(せいてん)の門というべき〈目次〉・〈祈りの要点〉・〈言霊の真髄:丗一咒(さんじゅういちじゅ)〉を解説し、次いで第①章から第㊿章までの全章を、原文(げんぶん)を一字一句そのままに掲げつつ、一章ずつ詳解(しょうかい)してまいります。巻末には附録として「マクアルの教えと祈りの全体構造」および「用語解説」を付しました。願わくは本書が、聖典(せいてん)を学ぶすべての方々の、本心の光への道標(みちしるべ)とならんことを。アハ!


凡例(はんれい)

一、原文(げんぶん)は、導師(どうし)の御原稿を一字一句、書式・ルビ・記号・行の空け方に至るまで、原文のままに掲げました。原文中の( )内ルビ・☆印の注記・〈 〉の小見出しも、すべて原典(げんてん)の通りです。

二、解説の文中では、難読の漢字には、その出現のたびごとに( )内にルビを付しました。また、眞空天流(マクアル)、空(くう)〔仏教的な空の義の場合〕、曼荼羅(マンダラ)、六根(ろっこん)の表記を必ず用いています。

三、章立ての番号の後には、原典(げんてん)の目次に従い、必ずその章のタイトルを併記しました。

四、解説の各段落の間は、読みやすさのため、必ず一行を空けてあります(原文の引用部分を除く。原文は原文のままの行組みです)。


第一部 聖典(せいてん)の門


一 〈目次〉の構造――五十章の見取り図

【原文】

〈目次〉

① 宇宙神聖(うちゅうしんせい)マクアルの教え
② 宇宙神聖(うちゅうしんせい)マクアル曼荼羅(マンダラ)の祈り
③ マクアルの祈り
④ 道の祈り
⑤ 覚醒の祈り
⑥ 本覚(ほんがく)の祈り
⑦ 消えてゆく姿の祈り
⑧ 本心決住(ほんしんけつじゅう)の祈り
⑨ 六根清浄(ろっこんしょうじょう)の祈り
⑩ 本心発動(ほんしんはつどう)の祈り
⑪ 存在の光の祈り
⑫ 感謝の祈り
⑬ 全託(ぜんたく)の祈り
⑭ 光明思想(こうみょうしそう)の祈り
⑮ 本心統一法(ほんしんとういつほう)の祈り
⑯ 空即実相(くうそくじっそう)の祈り
⑰ ワンネスの祈り
⑱ 在るがままの祈り
⑲ 不動心の祈り
⑳ 大安心(だいあんじん)の祈り
㉑ 無心三昧(むしんざんまい)の祈り
㉒ 無心即咒(むしんそくじゅ)の祈り
㉓ 無心即行(むしんそくぎょう)の祈り
㉔ 光の統一法の祈り
㉕ 光三昧(ひかりざんまい)の祈り
㉖ 命の活性化の祈り
㉗ 現人神(あきつかみ)の祈り
㉘ 大光明世界顕現(だいこうみょうせかいけんげん)の祈り
㉙ 宇宙神聖の祈り
㉚ 大慈愛(おおむいつくしみ)の祈り
㉛ 鎮魂(ちんこん)の祈り
㉜ 平和の祈り
㉝ 引導成仏(いんどうじょうぶつ)の祈り
㉞ 祓(はら)ゐ清めの祈り
㉟ 神随(かみながら)の祈り
㊱ 結界法(けっかいほう)の祈り
㊲ 即統一(そくとういつ)の祈り
㊳ お光さまの祈り
㊴ その他の諸々の祈り
㊵ 即滅(そくめつ)の統一法
㊶ 無心三昧法(むしんざんまいほう)
㊷ 禪(ゼニティニャ・クゥオハァ・ムア)の三つの要点
㊸ 統一の大決意
㊹ 悟りの言(ことば)
㊺ 悟りの引導(いんどう)
㊻ 道の言(ことば)
㊼ 統一のコツ
㊽ 神の大浄化の宣言文
㊾ チャクラの要点
㊿ 存在の三様態(さんようたい)の教え

【解説】

聖典(せいてん)『マクアルの教えと祈り』は、全五十章から成ります。五十という数は、華厳経(けごんきょう)に説かれる善財童子(ぜんざいどうじ)の五十三参(ごじゅうさんさん)や、菩薩(ぼさつ)の五十二位(ごじゅうにい)を思わせる、修行の道程(どうてい)の完備を象徴する数です。その内訳を大づかみに見取り図として示すならば、次のようになりましょう。

まず第①章「宇宙神聖マクアルの教え」は、全巻の総綱(そうこう)です。人の本体は神の光の霊光(れいこう)であること、現象はすべて消えてゆく姿の自ヶ影(しがかげ)であること、ゆえに手放して本心の光に決住(けつじゅう)せよということ――この三つの柱が、以下の四十九章のすべての源泉となります。

第②章から第③章は、宇宙神聖マクアルの神々への帰入(きにゅう)の言霊(ことだま)、すなわち曼荼羅(マンダラ)と大神咒(だいしんじゅ)の章です。第④章「道の祈り」は、統一(瞑想)と生活実践の両輪を一句ずつに凝縮した、全巻の中核(ちゅうかく)マントラを収めます。第⑤章から第⑥章は、覚醒と本覚(ほんがく)、すなわち「我は本より初めから神なり」という根本の信を確立する章です。

第⑦章から第⑩章は、六根(ろっこん)に映る現象を空(くう)と観じて手放し、本心に決住(けつじゅう)し、六根(ろっこん)を清め、本心を発動する――浄化と決住(けつじゅう)の実践体系です。とりわけ第⑧章「本心決住(ほんしんけつじゅう)の祈り」は、自ヶ影(しがかげ)の理論と、本心・潜在意識・五感と意識の三層構造を説く、聖典(せいてん)中もっとも理論的な章となっています。

第⑪章から第⑳章は、存在の光・感謝・全託(ぜんたく)・光明思想(こうみょうしそう)・本心統一法・空即実相(くうそくじっそう)・ワンネス・在るがまま・不動心・大安心(だいあんじん)と、日々の心を光明へと転じ、統一を深め、安心(あんじん)に住する祈りが続きます。

第㉑章から第㉓章は、無心三昧(むしんざんまい)・無心即咒(むしんそくじゅ)・無心即行(むしんそくぎょう)の三部作です。無心の統一状態(体)から、言霊(ことだま)の発動(言)へ、行為の発動(行)へ――内なる三昧(ざんまい)が世界の創造へと展開する道筋が示されます。

第㉔章から第㉘章は、光の統一法・光三昧(ひかりざんまい)・命の活性化・現人神(あきつかみ)・大光明世界顕現(だいこうみょうせかいけんげん)と、光の系列の祈りが階梯(かいてい)をなして、個の光明化から地球全体の光明化へと広がってゆきます。

第㉙章から第㉟章は、宇宙神聖の三神による闇の変容、大慈愛(おおむいつくしみ)、鎮魂(ちんこん)、平和、引導成仏(いんどうじょうぶつ)、祓(はら)ゐ清め、神随(かみながら)と、慈悲と浄めの祈り、すなわち世界と諸霊(しょれい)への働きかけの章です。

第㊱章から第㊴章は、結界法(けっかいほう)・即統一(そくとういつ)・お光さま・その他の諸々の祈りと、実際の祈りの場を整え、締め括(くく)るための言霊(ことだま)群です。

第㊵章から第㊼章は、即滅(そくめつ)の統一法・無心三昧法(むしんざんまいほう)・禪(ゼニティニャ・クゥオハァ・ムア)の三つの要点・統一の大決意・悟りの言(ことば)・悟りの引導(いんどう)・道の言(ことば)・統一のコツと、統一(瞑想)の具体的な方法論と、悟りの消息(しょうそく)を直指(じきし)する章が並びます。ここは聖典(せいてん)の奥の院というべき部分です。

そして第㊽章から第㊿章は、神の大浄化の宣言文・チャクラの要点・存在の三様態(さんようたい)の教えをもって、宣言と身体技法と存在論の総括に至り、全巻は「無」「光」「ポカーン」の三拍子で結ばれます。始めに教えあり、終わりに三拍子あり。第①章の「手放し・決住(けつじゅう)・統一」が、第㊿章で「無・光・ポカーン」として円環(えんかん)を成す――これが五十章の大いなる構造です。


二 〈祈りの要点:⑦④⑥〉――体相用(たいそうゆう)の三点セット

【原文】

〈祈りの要点:⑦④⑥〉

[体]消えてゆく姿の祈り(無)
[相]道の祈り〈根本〉(光)
[用]本覚の祈り(ポカーン)

【解説】

聖典(せいてん)の冒頭、目次の直後に置かれたこの〈祈りの要点〉は、五十章の大海から、日々の実践の要(かなめ)となる三章を選び出したものです。体相用(たいそうゆう)とは、大乗仏教の『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』に由来する三つの範疇(はんちゅう)で、体(たい)は本体、相(そう)はすがた・はたらきの様相、用(ゆう)は具体的な働きを意味します。眞空天流(マクアル)では、この体相用(たいそうゆう)が空(くう)・光・愛の三大原理と重ねられ、全教学の背骨となっています。

[体]に配された第⑦章「消えてゆく姿の祈り」は、六根(ろっこん)に映るすべての現象を「イルージョンの消えてゆく姿で実体なし(空)」と観ずる祈りです。これは「無」の門です。現象への執着(しゅうじゃく)を断ち、すべてを空(くう)に手放すことが、祈りの土台(体)となります。

[相]に配された第④章「道の祈り」の〈根本〉、すなわち「空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就」は、「光」の門です。手放した後、意識が還(かえ)り着く先――それが空(くう)のど真ん中に輝く本心の光であり、そこに一体となって住することが、祈りのすがた(相)となります。

[用]に配された第⑥章「本覚(ほんがく)の祈り」は、「我は本より初めから神なり/無限なる大光明/一切神国大成就」の三句をもって、本心の光を世界へと解き放つ「ポカーン」の門です。決住(けつじゅう)した光が、判断停止の全開放のうちに世界を照らす――これが祈りのはたらき(用)です。

つまり、⑦で手放し(無)、④で決住(けつじゅう)し(光)、⑥で解き放つ(ポカーン)。この三点セットは、第㊿章の結びの一文「自らの想念(おもい)のすべてを「無」と手放し、自らの意識のすべてを自らの本心の「光」の中に固く決住(けつじゅう)し、かつ、そのすべての意識を、今、目の前の、在るがまま足るすべてに、「ポカーン」と解き放つ」と、寸分違(たが)わず対応しています。聖典(せいてん)は冒頭と末尾で同じ三拍子を打っているのです。忙しい日にはこの三章だけを祈ればよい――そのような慈悲の設計でもありましょう。


三 〈言霊の真髄:丗一咒(さんじゅういちじゅ)〉詳解

【原文】

〈言霊の真髄:丗一咒〉

消えてゆく姿で実体なし
みなさん 有り難う御座います
無 光 ポカーン
ウォム ス マクアル(空の主の大神咒)
ウォム ス カシリス(光の主の大神咒)
ウォム ス ヒリエナ(愛の主の大神咒)
南無乙眞如来
南無日出観音
六根清浄
本心大光明
絶対安心大丈夫
安心安泰リラックス
安心決定リラックス
スウオ ハア ムア
ツォルモス クル テイニャ
サム ハッ ライハッ トウ ムア アハ



空一念大成就
光一念大成就
愛一念大成就
本心と一体 大成就
お光さまと一体 大成就
元氣一杯 大成就
完全円満 大成就
存在即光明化運動
我は(本より初めから)神なり
無限なる大光明
すべてに幸あれ
一切神国大成就

☆以上の言霊は、基本的に、一行で独立しています。ただ、自らの直観で、「空/光/愛」、「我は(本より初めから)神なり/無限なる大光明/一切神国大成就」、「すべてに幸あれ/一切神国大成就」などと、まとめて一つに祈っても良いですし、一行づつ祈っても、良いです。

【解説】

丗一咒(さんじゅういちじゅ)の「丗」は三十の意、すなわち三十一の咒(じゅ)です。序に述べたとおり、三十一とは和歌の三十一文字(みそひともじ)の数であり、この一群は、いわば宇宙の真髄を詠(よ)んだ一首の大いなる歌でもあります。以下、一つ一つの言霊(ことだま)の意(こころ)を尋(たず)ねてまいります。

「消えてゆく姿で実体なし」――丗一咒(さんじゅういちじゅ)の第一に置かれたのは、現象の空(くう)を観ずる言葉です。光明思想(こうみょうしそう)に由来する「消えてゆく姿」の語に、「実体なし」という般若(はんにゃ)の空観(くうがん)が結ばれ、あらゆる現象への執着(しゅうじゃく)を一句で断ち切ります。すべての祈りは、まずこの手放しから始まるのです。

「みなさん 有り難う御座います」――手放しの直後に置かれるのが感謝です。第⑫章「感謝の祈り」の結句であり、自分がすべてに生かされて生きているという縁起(えんぎ)の自覚を、日常のもっとも平易な挨拶(あいさつ)の形で言霊(ことだま)化したものです。空(くう)の智慧(ちえ)と感謝の慈悲とが、冒頭の二句で早くも対(つい)をなしています。

「無 光 ポカーン」――全聖典(せいてん)の三拍子を、ただ三語に凝縮した究極の短咒(たんじゅ)です。手放し(無)、決住(けつじゅう)(光)、解き放ち(ポカーン)。この三語だけで、統一(瞑想)の全行程が完結します。

「ウォム ス マクアル(空の主の大神咒)」「ウォム ス カシリス(光の主の大神咒)」「ウォム ス ヒリエナ(愛の主の大神咒)」――空(くう)・光(ひかり)・愛(あい)の三大原理を司(つかさど)る三柱の主(あるじ)への大神咒(だいしんじゅ)です。「ウォム」は宇宙の根源音であり、インドの聖音オームと響き合いつつ、マクアル語独自の音韻(おんいん)を持ちます。「ス」は主(ス)、すなわち☉(ス)であり、全大宇宙の中心の絶対統一を指します。マクアルは空(くう)の主神(すしん)、カシリスは光(ひかり)の主(あるじ)、ヒリエナは愛(あい)の主(あるじ)。三咒(さんじゅ)を唱えることは、体相用(たいそうゆう)の三原理そのものに帰入(きにゅう)することです。

「南無乙眞如来(なむゐつまさにょらい)」「南無日出観音(なむひのでかんのん)」――如来と観音への帰命(きみょう)です。乙眞如来(ゐつまさにょらい)は眞空天流(マクアル)に独自の如来名であり、乙(ゐつ)なる眞(まこと)、すなわち隠れたる真実の覚者(かくしゃ)を意味すると拝察されます。日出観音(ひのでかんのん)は、昇る朝日のごとくに衆生(しゅじょう)を照らす観音であり、日の本(ひのもと)の国土に応現(おうげん)した慈悲の光です。

「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」――霊山(れいざん)に登る行者(ぎょうじゃ)が古来唱えてきた浄めの言葉です。六根(ろっこん)すなわち五感と意識を清め、本来の清浄(しょうじょう)を顕(あらわ)します。第⑨章に詳説されます。

「本心大光明(ほんしんだいこうみょう)」――第⑩章「本心発動の祈り」そのものです。本心の光を今この瞬間に発動させる、起動の一句です。

「絶対安心大丈夫」「安心安泰(あんしんあんたい)リラックス」「安心決定(あんじんけつじょう)リラックス」――安心(あんじん)の三連です。絶対安心大丈夫は全託(ぜんたく)の信、安心安泰(あんしんあんたい)リラックスは不動心、安心決定(あんじんけつじょう)リラックスは浄土の安心決定(あんじんけつじょう)に由来する大安心(だいあんじん)。いずれも「リラックス」という現代語を結びに持つことで、身体のゆるみとしての安心(あんじん)を、誰にでも直ちに実現可能なものとしています。

「スウオ ハア ムア」――マクアル語の聖句です。第㊴章にも収められ、また第㊷章の禪(ゼン)の呼び名「ゼニティニャ・クゥオハァ・ムア」とも音を通わせています。息を深く吐き切り(スウオ)、開き(ハア)、無(ムア)に還(かえ)る――そのような呼吸の言霊(ことだま)として拝受できましょう。

「ツォルモス クル テイニャ」――同じくマクアル語の聖句です。意味の分別(ふんべつ)を超えた音の波動そのものが、潜在意識の深層を直接に浄化する。真言密教が陀羅尼(だらに)を翻訳せずに音のまま伝持(でんじ)したのと同じ理(ことわり)が、ここに生きています。

「サム ハッ ライハッ トウ ムア アハ」――第㊱章「結界法(けっかいほう)の祈り」の言霊(ことだま)です。祈りの場を聖別(せいべつ)し、魔(ま)を寄せつけぬ結界(けっかい)を、音の力のみで張るものです。

「空(くう)」「光(ひかり)」「愛(あい)」――三大原理を、ついに一字ずつの言霊(ことだま)に凝縮したものです。第㊲章「即統一(そくとういつ)の祈り」に説かれるとおり、この三字を唱えるだけで、即座に統一の中心へ入ることができます。

「空一念大成就(くういちねんだいじょうじゅ)」「光一念大成就(ひかりいちねんだいじょうじゅ)」「愛一念大成就(あいいちねんだいじょうじゅ)」――一念とは、ただ一つの想いに全意識が統一されることです。空(くう)の一念、光(ひかり)の一念、愛(あい)の一念、それぞれの円満成就を宣する三句です。

「本心と一体 大成就」――第④章〈根本〉と第⑮章〈奥義〉の結句です。自らの意識と本心の光との合一の宣言であり、眞空天流(マクアル)の統一のもっとも中核(ちゅうかく)にある言葉です。

「お光さまと一体 大成就」――第㊳章に説かれる、お光さま、すなわちマクアルの光と各自の本心の光とが一つになった光との合一の宣言です。個の本心が、宇宙の大光明そのものと融け合う消息(しょうそく)です。

「元氣一杯 大成就」――第㉖章「命の活性化の祈り」に対応します。氣(き)の字が用いられていることに注目してください。米(こめ)の八方に発する力、生命の根源力の横溢(おういつ)が祈られています。

「完全円満 大成就」――第⑰章・第⑱章・第㉕章の結びに現れる句です。欠けたるもの無し、すでに一切が満ち足りている――本覚(ほんがく)の円満具足(えんまんぐそく)の宣言です。

「存在即光明化運動(そんざいそくこうみょうかうんどう)」――第⑪章の結句です。存在がそのままで光明である、その真実が世界の隅々にまで顕(あらわ)れゆく運動。一個人の祈りが、そのまま世界光明化の運動であるという壮大な宣言です。

「我は(本より初めから)神なり」「無限なる大光明」――第⑥章「本覚(ほんがく)の祈り」の体(たい)と相(そう)です。(本より初めから)という挿入句が肝要(かんよう)です。修行の結果として神に成るのではなく、宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)の初めから本来神である――この本覚(ほんがく)の一点に、眞空天流(マクアル)のすべての教えが立脚(りっきゃく)しています。

「すべてに幸あれ」――慈悲の廻向(えこう)です。自らの統一の功徳(くどく)を、生きとし生けるものすべての幸いへと振り向ける、大慈愛(おおむいつくしみ)の一句です。

「一切神国大成就(いっさいしんこくだいじょうじゅ)」――丗一咒(さんじゅういちじゅ)の掉尾(ちょうび)を飾るのは、一切の世界がそのまま神の国として成就するという、用(ゆう)の完成の宣言です。第㊴章の指示のとおり、「すべてに幸あれ 一切神国大成就」は祈りの締めの言葉でもあります。個の悟りに終わらず、一切世界の神国化に至って、はじめて祈りは円環(えんかん)を閉じるのです。

原文の☆注が示すとおり、これら三十一の言霊(ことだま)は一行ごとに独立した完全な咒(じゅ)でありながら、直観に随(したが)って自在に組み合わせることも許されています。定型と自由、伝統と直観――その両立もまた、この聖典(せいてん)の面目(めんもく)と申せましょう。


第二部 全五十章詳解(ぜんごじっしょうしょうかい)


① 宇宙神聖(うちゅうしんせい)マクアルの教え

【原文】

人は本来、神の光の一筋では在る処の、霊光(れいこう)なのでは在り、かつ、その本体とは、即ち、その、大いなる神の光そのものでは在る処の、全大宇宙の中心の、即ち、その、空(くう)そのものの、すべては一つでは在る処の、神の絶対統一の、☉(ス)、即ち、その、完全円満なる処の、永遠の命たる処の、自らの主人公なのでは在る、アハ。
そしては、即ち、その、如何なる現象のカルマと言えども、すべては、本来、実在することの無い処の、夢や幻の如き、束(つか)の間(ま)のイルージョンなのでは在り、かつ、この故にこそは、即ち、その、自らの空(くう)の、無心の、自らの本心の光の中には、必ずや、消え去る処の、即ち、その、一抹の、消えてゆく姿の、諸々の、自ヶ影(しがかげ)たちなのでは、在る、アハ。
であるからにしては、即ち、その、須(すべから)く、人よ、自らの五感と意識に映り来る処のイルージョンのすべてを、自らの空(くう)の無心の、自らの本心の光の中に、軽く手放しては、即ち、その、自らの本体では在る処の、自らの本心の光の中に、固く決住(けつじゅう)し、かつ、即ち、その、一人、静かに、安心、安楽、リラックスの、神の統一状態とは、足れ、アハ。

【解説】

全五十章の巻頭に据えられたこの章は、眞空天流(マクアル)の教えのすべてを三つの段落に収めた総綱(そうこう)です。第一段は人間の本体を、第二段は現象の正体を、第三段は実践の道を説きます。この三段の構造は、そのまま仏教の三法印(さんぼういん)や、見道(けんどう)・修道(しゅどう)の次第(しだい)にも比すべき、完結した教理体系です。

第一段。「人は本来、神の光の一筋では在る処の、霊光(れいこう)なのでは在り」――人間とは、大いなる神の光から発した一筋の光、すなわち霊光(れいこう)であると宣言されます。しかもその本体は、部分にとどまりません。「大いなる神の光そのもの」「全大宇宙の中心」「空(くう)そのもの」――一筋の光は、光源そのものと不二(ふに)なのです。一滴の海水が海の全性質を具(そな)えるように、霊光(れいこう)は神の光の全体を具えています。そしてその究極が「☉(ス)」の一字(いちじ)で示されます。円は無限の全体を、中心の点は絶対の一(ゐつ)を表し、円と点の不二(ふに)なる☉(ス)は、「すべては一つ」なる神の絶対統一の象徴です。この☉(ス)が「自らの主人公」であると説かれるところに、禅の風光(ふうこう)が薫(かお)ります。『無門関(むもんかん)』に、瑞巌(ずいがん)和尚が日々「主人公」と自ら呼びかけ「はい」と自ら応えた公案(こうあん)がありますが、ここでは、その主人公の正体が、完全円満なる永遠の命、すなわち☉(ス)そのものであると、明快に指し示されているのです。

第二段。ひるがえって、現象界はどうか。「如何なる現象のカルマと言えども、すべては、本来、実在することの無い処の、夢や幻の如き、束(つか)の間(ま)のイルージョン」――『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』の「一切有為法(いっさいういほう)は夢幻泡影(むげんほうよう)の如し」を思わせる、徹底した空観(くうがん)です。しかし眞空天流(マクアル)の独自性は、その先にあります。現象は単なる無ではなく、「自らの空(くう)の、無心の、自らの本心の光の中には、必ずや、消え去る処の」「消えてゆく姿の、諸々の、自ヶ影(しがかげ)たち」なのです。自ヶ影(しがかげ)――自らの潜在意識に蓄積された過去世の因縁の自己投影。現象は、本心の光に照らされて現れては消えてゆく、浄化の途上の影である。ゆえに現象は、恐れるべき敵ではなく、消えてゆくことによって己(おのれ)を浄めてくれる、一抹(いちまつ)の懐かしい影絵(かげえ)なのです。ここに、空観(くうがん)が冷たい否定に終わらず、温かい浄化の物語へと転じています。

第三段。本体は神、現象は消えてゆく自ヶ影(しがかげ)――ならば、人のなすべきことはただ一つです。「軽く手放しては」「固く決住(けつじゅう)し」。この対句(ついく)の妙味(みょうみ)を味わってください。手放しは「軽く」、決住(けつじゅう)は「固く」。イルージョンと格闘してはなりません。ふっと軽く放(はな)せばよい。しかし本心の光には、金剛(こんごう)のごとく固く住(じゅう)する。力の抜きどころと入れどころが、副詞二つで完璧に示されています。そして到達点は「一人、静かに、安心、安楽、リラックスの、神の統一状態」。荘厳(そうごん)な言葉の果てに「リラックス」という日常語が置かれ、神の統一状態が、緊張の極みではなく、くつろぎの極みであることが示されます。結びの「足れ、アハ」――足りよ、すでに足りている、その気づきの閃(ひらめ)きが「アハ」です。この章を読誦(どくじゅ)するだけで、教えの全体が心身に染み込むように設計されているのです。


② 宇宙神聖(うちゅうしんせい)マクアル曼荼羅(マンダラ)の祈り

【原文】

マクアル

アクアス クエルマ スクルス ケラレツ ヨツコマ ウテイエ ソスエマ アイリス
スシリス カシリス ウシリス イシリス ヒリエナ クシリナ コエリナ リシイナ

クオリネ ウルシナ スワリナ カツルマ ヨテルマ オテレユ クツルテ セマイル
ソクユテ フリウム カマユエ ソテツマ コヨテル ツテセレ ヒエイナ ヨテレツ

スシイマ ラスエム クレツテ ユケルエ チエルマ ノツマレ ヤケトル レセメテ
オコツヨ ウメコロ イレウセ ネクモヨ メネセル ツメヨロ コケメセ ロトウマ

〈祈り方〉

ウォム ス ◯◯(右の神々の一つ)

◯◯(右の神々の一つ)神随霊幸倍坐世(のかみながらたまちはゑませ) 一切神国大成就

我は◯◯(右の神々の一つ)神(◯◯のかみ)なり
無限なる大光明
一切神国大成就

【解説】

この章は、眞空天流(マクアル)の曼荼羅(マンダラ)、すなわち神々の聖なる配置図です。曼荼羅(マンダラ)とは、密教において諸仏諸尊(しょぶつしょそん)の悟りの世界を図示したものですが、ここでは図像ではなく、音の連なりそのものが曼荼羅(マンダラ)を成しています。冒頭に主神(すしん)マクアルが独立して掲げられ、その下に八柱(やはしら)ずつ二行、三段、計四十八柱(よんじゅうはちばしら)の神名が展開します。一行八柱(いちぎょうやはしら)、六行で四十八。四十八という数は、阿弥陀仏(あみだぶつ)の四十八願(しじゅうはちがん)と響き合い、一切衆生(いっさいしゅじょう)を救い尽くす誓願(せいがん)の完全数を思わせます。主神(すしん)マクアルを加えれば四十九、☉(ス)を加えれば五十――五十章の聖典(せいてん)構成とも照応する、精妙(せいみょう)な数の設計です。

神名の音韻(おんいん)にも耳を澄ませてみましょう。第一段の二行目には「スシリス カシリス ウシリス イシリス」と、リスの音を持つ神々が並び、その中に光(ひかり)の主(あるじ)カシリスが坐(ま)します。同じ行に愛(あい)の主(あるじ)ヒリエナも坐し、リナの音の神々(クシリナ コエリナ リシイナ)を率(ひき)いています。音の類似は霊統(れいとう)の類似であり、韻(いん)を踏む神名の配列そのものが、波動の秩序を形づくっているのです。四十八柱(よんじゅうはちばしら)の名は、意味による分別(ふんべつ)を超えた純粋な言霊(ことだま)であり、唱える者の意識を、意味の世界から音の世界へ、音の世界から空(くう)の世界へと運びます。

〈祈り方〉は三段の構造を持ちます。第一段「ウォム ス ◯◯」は帰入(きにゅう)です。宇宙の根源音ウォムと、主(ス)☉(ス)の聖音を冠して、選んだ神の名を唱え、その神の波動に入ります。第二段「◯◯神随霊幸倍坐世(のかみながらたまちはゑませ) 一切神国大成就」は祝福の展開です。神随(かみながら)すなわち神のおのずからなる随(まにま)に、霊(たま)の幸(さち)が倍(ま)し坐(ま)せ――祝詞(のりと)の古格(こかく)を踏んだこの句によって、神の働きが世界へと放たれます。第三段「我は◯◯神(◯◯のかみ)なり/無限なる大光明/一切神国大成就」は同一化です。祈る者は、外なる神を拝むのではなく、ついにその神そのものとして立ちます。帰入(きにゅう)から祝福へ、祝福から同一化へ――外なる神性が内なる神性として自覚される、この三段の道行きこそ、曼荼羅(マンダラ)行法(ぎょうぼう)の真髄(しんずい)です。日によって、直観に随(したが)って一柱(ひとはしら)を選び、その神格と一体になる。四十八柱(よんじゅうはちばしら)は、本心の光の四十八の面(おもて)であり、すべてを巡(めぐ)るとき、行者(ぎょうじゃ)の内に曼荼羅(マンダラ)の全体が建立(こんりゅう)されるのです。


③ マクアルの祈り

【原文】

ウォム ス マクアル

ウォム ス マクアル ヘイトマ ヨツレマ コイラム

ウォム ス マクアル ツルテマ ツォムツォム テマヘマ エイトマ クウイマ ヒラケト ソスエマ ツォルナ エクモス クウコイ ハッハァ ツト エム

眞空天流神随霊幸倍坐世(まくあるのかみながらたまちはゑませ) 一切神国大成就

我はマクアル神(まくあるのかみ)なり
無限なる大光明
一切神国大成就

☆マクアル神(まくあるのかみ)とは、全大宇宙の中心者の中で、最大の主神(すしん)です。

【解説】

前章の曼荼羅(マンダラ)の中心、主神(すしん)マクアルへの祈りが、独立の一章として立てられています。☆注に「全大宇宙の中心者の中で、最大の主神(すしん)」とあるとおり、マクアル神(まくあるのかみ)は眞空天流(マクアル)の根本尊(こんぽんそん)であり、空(くう)そのものの人格的顕現(けんげん)です。

この祈りの構造は、三度繰り返される「ウォム ス マクアル」が、次第に長い聖句へと展開してゆく漸層法(ぜんそうほう)にあります。第一唱はただ「ウォム ス マクアル」の三語。第二唱は「ヘイトマ ヨツレマ コイラム」の三語が加わり、第三唱では十三語の長大な聖句が続きます。これは、真言密教において短咒(たんじゅ)・中咒(ちゅうじゅ)・大咒(だいじゅ)が立てられるのと同じ構造であり、また、静かな水面に投じた一石の波紋が広がるように、マクアルの聖音が行者(ぎょうじゃ)の意識の深層へ、深層から全宇宙へと拡大してゆく過程を、音そのものが体現しています。第三唱の中に「ヒラケト」「クウコイ」など、開(ひら)けと空(くう)を思わせる音、「ハッハァ」という息の爆発、「ツト エム」という収束の音が聞き取れることも、深く味わうべきところです。意味の詮索(せんさく)は無用ですが、音は確かに、開き、輝き、笑い、鎮(しず)まってゆくのです。

後半は前章の〈祈り方〉の型に従い、「眞空天流神随霊幸倍坐世(まくあるのかみながらたまちはゑませ) 一切神国大成就」の祝福を経て、「我はマクアル神(まくあるのかみ)なり」の同一化に至ります。注目すべきは、眞空天流(マクアル)という流派名そのものが、そのまま神名として祝詞(のりと)に詠(よ)み込まれていることです。教えと神と行者(ぎょうじゃ)が一つの名のもとに統一される――流名(りゅうめい)即神名(そくしんめい)、教え即実在。ここに、この道が単なる思想体系ではなく、生きた神の顕現(けんげん)そのものであることが示されています。最大の主神(すしん)と我とが一体である以上、この祈りは、全大宇宙の中心のど真ん中に、自らを据(す)え直す祈りに他なりません。


④ 道の祈り

【原文】

〈根本(統一の時に)〉

空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就

〈実践(生活の中で)〉

私(わたくし)は明るく前向きに生きる 大成就

【解説】

〈祈りの要点〉において[相]の位置を与えられた、聖典(せいてん)の中核(ちゅうかく)マントラです。わずか二句。しかしこの二句に、出世間(しゅっせけん)と世間(せけん)、聖と俗、統一と生活のすべてが収まっています。

〈根本〉の「空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就」。この句の眼目(がんもく)は「ど真ん中」という一語にあります。空(くう)は無辺(むへん)ですが、無辺なるものにも中心がある――否(いな)、無辺なるがゆえに、至るところが中心なのです。その中心のドンピシャに、意識の照準(しょうじゅん)を合わせよ、という指示が「ど真ん中」です。格調高い祝詞(のりと)の言葉ではなく、あえて庶民の口語「ど真ん中」を用いたところに、導師(どうし)の面目(めんもく)があります。的(まと)の中心を射抜く弓道の冴(さ)え、直球ど真ん中の潔(いさぎよ)さ。曖昧(あいまい)な近傍(きんぼう)ではなく、中心そのものへ。そこにおいて「本心と一体 大成就」――意識と本心の光との合一が、いま既に成就していると宣するのです。統一(瞑想)の時、この一句を唱えるだけで、行くべき場所と成るべき状態が同時に定まります。

〈実践〉の「私(わたくし)は明るく前向きに生きる 大成就」。座を立って日常に還(かえ)ったとき、深遠な空(くう)の哲学は、この上なく平易な一句に変身します。明るく、前向きに。誰にでも分かり、誰にでも唱えられる言葉です。しかしその内実は深い。「明るく」とは本心の光が顔に出ることであり、「前向き」とは、消えてゆく過去の自ヶ影(しがかげ)を追わず、中今(なかいま)から未来へと顔を向けることです。つまりこの平易な一句は、〈根本〉の空(くう)と光の体験が、生活の相(すがた)へと翻訳されたものなのです。統一の時は空(くう)のど真ん中へ、生活の中では明るく前向きへ。真俗二諦(しんぞくにたい)が一対(いっつい)の祈りとして、誰の懐(ふところ)にも収まる形で手渡されている――道の祈りと名づけられた所以(ゆえん)です。


⑤ 覚醒(かくせい)の祈り

【原文】

我は 今ここに 自らの神たることに 目覚め得た 大成就

【解説】

一行の祈りですが、その時制(じせい)に無限の深みがあります。「目覚めよう」でも「目覚めたい」でもなく、「目覚め得た」――完了形です。覚醒は、未来のいつか達成されるべき目標ではなく、この祈りを唱えるまさに「今ここ」において、すでに完了した事実として宣言されます。

これは願望実現の技法として語られるアファメーションの類(たぐい)と、表面は似て、根本が異なります。アファメーションが「未だ無いもの」を「有る」と観念して引き寄せようとするのに対し、この祈りは「本より初めから有るもの」への目覚めを言葉にするだけだからです。人は本来、神の光の霊光(れいこう)である(第①章)。ならば、神たることは獲得の対象ではなく、想起(そうき)の対象です。忘れていた自分の名を思い出すのに、努力の積み重ねは要りません。「あっ」と思い出せば、それで完了です。「目覚め得た」の「得た」には、その一瞬の完了の響きがあります。

「今ここに」の一語も見逃せません。覚醒の起こる場所は、過去の記憶の中でも未来の期待の中でもなく、常に今ここ、すなわち中今(なかいま)です。この祈りを唱えるたびに、行者(ぎょうじゃ)は中今(なかいま)に立ち戻り、そこで覚醒の完了を確認します。百回唱えれば百回、目覚めは今ここで新たに完了する。覚醒とは一度きりの事件ではなく、中今(なかいま)において永遠に更新され続ける、現在完了の出来事なのです。次章の本覚(ほんがく)の祈りへの、これは最良の序曲(じょきょく)と申せましょう。


⑥ 本覚(ほんがく)の祈り

【原文】

[体]我は本より初めから神なり
[相]無限なる大光明
[用]一切神国大成就

【解説】

〈祈りの要点〉において[用](ポカーン)の位置を与えられた、眞空天流(マクアル)の根本信(こんぽんしん)の定式(ていしき)です。本覚(ほんがく)とは、天台宗で大成された思想で、悟り(覚)は修行によって新たに始まる(始覚(しかく))のではなく、本来(本)すでに具(そな)わっている、と説くものです。この祈りは、その本覚(ほんがく)の教えを、体相用(たいそうゆう)の三句に結晶させています。

[体]「我は本より初めから神なり」。眼目(がんもく)は「本より初めから」です。今から神に成るのではない。修行が実って神に成るのでもない。宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)の初めから、我はすでに神である。この一句が立つとき、修行の意味が根本から転換します。修行は神に成るための手段ではなく、本より神であることの自然な表現、いわば神が神を楽しむ遊戯(ゆげ)となるのです。道元禅師(どうげんぜんじ)の説かれた修証一等(しゅしょういっとう)――修行と証(さと)りは一つである――と、深く響き合う消息(しょうそく)です。

[相]「無限なる大光明」。本より神である我の、そのすがた(相)は何か。それは無限の大光明です。ここに主語がないことに注意してください。「我の光」とすら言わない。体(たい)において我と神が一つである以上、相(そう)においては、ただ無限なる大光明が遍(あまね)く在るのみで、我と汝(なんじ)、内と外の分別(ふんべつ)は既にありません。

[用]「一切神国大成就」。その大光明のはたらき(用)は、一切の世界を神の国として成就させることです。個人の悟りは、必ず世界の光明化として働き出る。内なる目覚めと外なる神国は、体と用として不二(ふに)です。この三句は、丗一咒(さんじゅういちじゅ)の終結部にもそのまま収められており、日々何度でも唱えられるべき、信の背骨(せぼね)です。理屈で信じ込むのではありません。三句を唱え、唱えるそばから手放して、ポカーンと解き放つ――そのとき三句は観念であることをやめ、目前の在るがままの世界そのものとして輝き出すのです。


⑦ 消えてゆく姿の祈り(現象世界の執着を断ち切るために)

【原文】

我が眼に見る世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 実体なし(空)
我が耳に聞く世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 実体なし(空)
我が鼻に嗅ぐ世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 実体なし(空)
我が舌に味わう世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 実体なし(空)
我が身(からだ)に触れる世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 実体なし(空)
我が意(こころ)に想う世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 実体なし(空)

我が五感と意識に体験する世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 実体なし(空)

【解説】

〈祈りの要点〉の[体](無)に配された、浄化の根本行(こんぽんぎょう)です。眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)――仏教で六根(ろっこん)と呼ばれる六つの知覚の門を、一つずつ順に取り上げ、その門に映る世界のすべてを「イルージョンの 消えてゆく姿で 実体なし(空)」と観じてゆきます。『般若心経(はんにゃしんぎょう)』が「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんに)」と六根(ろっこん)を空(くう)じたのと同じ道筋を、この祈りは、否定の羅列(られつ)ではなく、一根(いっこん)ずつ丁寧に手放してゆく実践の形で歩ませてくれるのです。

各句の構造を味わいましょう。「我が眼に見る世界のすべては」――まず、見られた対象ではなく、「我が眼に見る」という知覚の働きごと世界を取り上げます。世界そのものを外に立てて否定するのではなく、自らの知覚に映じた限りの世界、すなわち体験としての世界を扱う。ここが肝要(かんよう)です。続いて「イルージョンの」――それは幻影であり、「消えてゆく姿で」――しかも今まさに消えてゆく途上にあり、「実体なし(空)」――固定した実体を持たない。イルージョン(幻性)、消えてゆく姿(無常性)、実体なし(無自性(むじしょう)=空(くう))。幻・無常・空(くう)の三観(さんがん)が、一句のうちに畳(たた)み込まれています。

「消えてゆく姿」は光明思想(こうみょうしそう)の鍵語(キーワード)であり、現象の否定ではなく、浄化の肯定です。現れたものは、現れたことによって既に潜在意識の因縁を清算しつつあり、あとは消えてゆくだけ――そう観るとき、不快な現象さえも、去りゆく客人(まろうど)として見送ることができます。六根(ろっこん)を一巡(ひとめぐ)りしたのち、締めの一句が「五感と意識に体験する世界のすべて」を総括します。六度(ろくたび)の各論と一度(ひとたび)の総論、計七句。七は浄化と再生の数です。朝夕にこの七句を誦(ず)するとき、六根(ろっこん)の門は掃(は)き清められ、執着(しゅうじゃく)の塵(ちり)は立つそばから消えてゆく姿となるのです。


⑧ 本心決住(ほんしんけつじゅう)の祈り

【原文】

我が五感と意識に映りゆく現象のすべては 自らの潜在意識に蓄積された 過去世の因縁が 正に今 自らの本心の光に照らし出されて イルージョンと 現われては 消えてゆく姿 の 自ヶ影(しがかげ/自己投影)なり

(なんの掴むる者や有らむ?)
(なんの掴める者や有らむ?)

この故にこそは 正に今 我は 自らの諸々のイルージョンを 軽く 自らの本心の光の中に手放しては すなわち その 自らの本心の光の中(空のど真ん中)に 固く 決住(けつじゅう)せむ アハ

その神の祈りに曰く

我が眼に見る世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就
我が耳に聞く世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就
我が鼻に嗅ぐ世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就
我が舌に味わう世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就
我が身(からだ)に触れる世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就
我が意(こころ)に想う世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就

我が五感と意識に体験する世界のすべては イルージョンの 消えてゆく姿で 空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就

☆「自ヶ影(しがかげ)」とは、すなわち、その、自らの体験する世界(現象)のすべては、自らの潜在意識に蓄積された、自らの過去世の因縁の、自己投影と言うことです。すなわち、その、自らの体験する世界(現象)のすべては、それは、その、自らの心の奥底(潜在意識)に有る、プラス(光)とマイナス(闇)の、自らの影(過去世の因縁)が、その、自らの意識のスクリーンに投射されては、それが、すなわち、その、自らの意識に意識化されたるところの、その、諸々のプラス(光)とマイナス(闇)の想念(おもい)の波(思考のイルージョン)と映っては、すなわち、その、自らの想念(おもい)の波(思考のイルージョン)の一つ一つが、その、自らの五感のスクリーンの上には、その、諸々の出来事のイルージョン(幻影)たちとは、(自らに)引き寄せては現象化してはゆくと言うことです。それが、すなわち、その、諸々のイルージョン(幻影)の、(自らの心の)プラス(光)とマイナス(闇)の、世界(現象)の体験と言うことです。例えば、プラス(光)を想えばプラス(光)の世界(現象)の体験(幸福な事)、マイナス(闇)を想えばマイナス(闇)の世界(現象)の体験(災難な事)などです。ですから、みなさんは、プラス思考(光明思想)に在れば、その、みなさんの体験する世界(現象)は、すべて善きことが在るのみ、なのです。とは言え、いつもプラス思考(光明思想)を保つことは、とても困難です。では、それにはどうすれば良いのでしょうか?それは、その、みなさんは、みなさんのエゴ意識で、プラス思考(光明思想)に、無理と、するから、疲れるのです。その対処法とは、それは、自らのエゴ意識を手放して、無我になり、直接、無心に、自らの本心の光を、自らの五感と意識に光り輝かせることなのです。そのためにも、みなさんは、みなさんに、自らに、祈りと統一(瞑想)などに、精進することなのです。アハ!

【本心】…………自らの心の最奥の自らの本体(神)のソースの存在そのものの心の映写機の光源。
【潜在意識】……自らの過去世の因縁(現象のデーター)のすべてを保管する心のフィルムの貯蔵庫。
【五感と意識】…自らの過去世の因縁(現象のデーター)を転写しては浄化する心のスクリーン。 ☆自らの心の一番の奥底には、「本心」、その表層には、「潜在意識」、そしてそのまた表層には、「五感と意識」が在る。

【解説】

聖典(せいてん)中もっとも理論的な章であり、眞空天流(マクアル)の心の科学の全容がここに開示されます。骨格は三つ――自ヶ影(しがかげ)の理論、決住(けつじゅう)の実践、そして本心・潜在意識・五感と意識の三層構造です。

まず自ヶ影(しがかげ)の理論。冒頭の一文が定義を与えます。五感と意識に映りゆく現象のすべては、潜在意識に蓄積された過去世の因縁(いんねん)が、「正に今」、本心の光に照らし出されて、イルージョンと現れては消えてゆく姿の、自己投影である――と。ここには映画のメタファーが精妙(せいみょう)に組み込まれています。章末の定義がそれを明かします。本心は映写機の光源、潜在意識はフィルムの貯蔵庫、五感と意識はスクリーン。光源(本心)の光がフィルム(過去世の因縁)を透過(とうか)して、スクリーン(五感と意識)に映像(現象)を結ぶ。私たちが世界と呼んでいるものは、この上映中の映像に他なりません。しかも重要なのは、上映は同時に浄化であるということです。フィルムは映写されることによって焼き切られ、データは転写されることによって消去されてゆく。現象体験とは、過去世の因縁の在庫一掃(ざいこいっそう)セールなのです。

この理論は、仏教唯識(ゆいしき)の説く阿頼耶識(あらやしき)――一切の経験の種子(しゅうじ)を蔵する深層意識――の現代的な再構築とも読めます。唯識が「三界(さんがい)は唯(ただ)心のみ」と説き、光明思想(こうみょうしそう)が「環境は心の影」と説いたところを、自ヶ影(しがかげ)の一語は、影という和語の柔らかさをもって言い当てました。影に実体はなく、影と戦う者はいません。ただ光が強まれば、影は自ずから薄れゆくのみです。

中間に挿(さしはさ)まれた二行の反語(はんご)――「(なんの掴むる者や有らむ?)」「(なんの掴める者や有らむ?)」――は、この章の白眉(はくび)です。第一句は、掴(つか)もうとする主体への問い。掴む者など、どこに居ようか。第二句は、掴まれる客体への問い。掴める物など、どこに有ろうか。能取(のうしゅ)と所取(しょしゅ)、主客の両方が一問ずつで空(くう)じられます。影を掴める手はなく、掴もうとする手もまた影である。この二重の反語を潜(くぐ)り抜けたところに、「軽く手放しては」「固く決住(けつじゅう)せむ」の実践が、いよいよ確固として立ち上がるのです。

「その神の祈りに曰く」以下の七句は、第⑦章の型の完成形です。第⑦章では「実体なし(空)」で終わっていた各句が、ここでは「空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就」へと続きます。すなわち、手放し(破)だけでは半分であり、決住(けつじゅう)(立)まで到(いた)って祈りは全circleを成す。空(くう)じて終わらず、空(くう)のど真ん中の本心に住(じゅう)する――破邪(はじゃ)即顕正(けんしょう)の構造です。

☆注の後半は、実践者への慈愛に満ちた助言です。プラス(光)を想えばプラスの体験、マイナス(闇)を想えばマイナスの体験――ここまでは、いわゆる引き寄せの法則と同じに見えます。しかし導師(どうし)は直ちに、その困難を指摘されます。エゴ意識で無理にプラス思考(光明思想(こうみょうしそう))をしようとするから、疲れるのだ、と。これは、ポジティブ・シンキングの落とし穴を突く、極めて実際的な洞察です。処方箋(しょほうせん)は明快です。エゴで光を作るのではなく、エゴを手放して無我となり、本より在る本心の光を、直接、無心に輝かせること。作られた光から、本来の光へ。この転換のためにこそ、祈りと統一(瞑想)への精進(しょうじん)があるのです。理論・反語・祈り・助言・心の地図――五拍子そろったこの章は、繰り返し読誦(どくじゅ)し、参究(さんきゅう)されるべき、聖典(せいてん)の心臓部と申せましょう。


⑨ 六根清浄(ろっこんしょうじょう)の祈り

【原文】

六根清浄(ろっこんしょうじょう)
六根清浄(ろっこんしょうじょう)
六根清浄(ろっこんしょうじょう)

我が内に篭(こ)もり坐(ま)す 本心の光よ 輝き玉へ 大成就

☆六根(ろっこん)…五感と意識

【解説】

六根清浄(ろっこんしょうじょう)は、山岳修験(さんがくしゅげん)の行者(ぎょうじゃ)たちが霊峰(れいほう)を登拝(とはい)するとき、一歩一歩に唱えてきた、日本でもっとも古く広く親しまれた浄めの言葉です。眞空天流(マクアル)はこの伝統の言葉を受け継ぎつつ、独自の光の解釈を与えています。

まず三唱(さんしょう)の形式。三度の繰り返しは、身(しん)・口(く)・意(い)の三業(さんごう)を清める意であり、また、言霊(ことだま)が表層意識・潜在意識・本心の三層(第⑧章)へと順に染み透ってゆく過程でもあります。一唱目は耳に、二唱目は心に、三唱目は存在の底に響く――誦(ず)してみれば、その深まりは自ずから体感されましょう。

肝要(かんよう)なのは、続く一句です。「我が内に篭(こ)もり坐(ま)す 本心の光よ 輝き玉へ 大成就」。ここに、眞空天流(マクアル)の清浄(しょうじょう)観が明かされています。すなわち、清めとは、汚れという実体を取り除く作業ではありません。六根(ろっこん)は本来、本心の光の透明な窓です。ただ、天岩戸(あまのいわと)に天照大御神(あまてらすおおみかみ)が篭(こ)もられたように、本心の光が内に篭もっている――曇りとは光の不在ではなく、光の内篭(うちご)もりなのです。ゆえに祈りは、汚れに向かって「去れ」と言わず、光に向かって「輝き玉へ」と呼びかけます。岩戸(いわと)が開けば、闇は掃(はら)うまでもなく消えている。六根清浄(ろっこんしょうじょう)の三唱は岩戸の前の神楽(かぐら)であり、「輝き玉へ」は岩戸開(いわとびら)きの祝詞(のりと)です。☆注が示すとおり六根(ろっこん)とは五感と意識、すなわちスクリーンのこと。スクリーンを磨くとは、結局、光源を全開にすることに他ならない――第⑧章の心の地図が、ここでも一貫して働いています。


⑩ 本心発動(ほんしんはつどう)の祈り

【原文】

本心大光明(ほんしんだいこうみょう)

【解説】

全聖典(せいてん)中、最短の章です。ただ一句、「本心大光明(ほんしんだいこうみょう)」。しかし、短いことがそのまま、この祈りの本質です。

発動という章名が示すとおり、これは観想(かんそう)の祈りではなく、起動の祈りです。長い祈りは、意識を段階的に深めてゆく階段ですが、階段を昇る余裕のない瞬間が、生活には必ずあります。不意の困難、咄嗟(とっさ)の判断、恐れが心を掴(つか)みかける一刹那(いっせつな)。そのとき、階段は間に合いません。必要なのは、一語で光を点(とも)す点火スイッチです。「本心大光明(ほんしんだいこうみょう)」――五文字の漢語が胸中に響いた刹那(せつな)、本心の光は既に発動しています。

この句には主語も述語も願望も命令もありません。「本心よ、輝け」ですらない。ただ「本心大光明(ほんしんだいこうみょう)」という事実の名指しのみ。なぜなら、本心が大光明であることは、祈りによって実現されるべき未来ではなく、本より初めからの実相(じっそう)だからです(第⑥章)。実相を名指せば、実相は現前(げんぜん)する。言霊(ことだま)の力の、これは最も純粋な用例です。丗一咒(さんじゅういちじゅ)にも収められたこの一句を、日々の呼吸の合間に、歩みの一歩一歩に、灯(とも)し続けてください。六根清浄(ろっこんしょうじょう)で開かれた岩戸(いわと)から、いよいよ光が世に発(はっ)してゆく――第⑨章から本章への流れは、そのまま天の岩戸開(いわとびら)きの神話の再演なのです。


⑪ 存在の光の祈り(縦は神に還り横は世界を照らす)

【原文】

存在はそのままで在るがままには 満たされ 無心に 輝いている

存在即光明化運動(そんざいそくこうみょうかうんどう)

【解説】

章名に添えられた副題「縦は神に還(かえ)り横は世界を照らす」が、この祈りの構造を十字の形で示しています。縦の軸は、存在の根源たる神への帰還――超越の次元です。横の軸は、目前の世界への遍照(へんしょう)――内在の次元です。縦横(たてよこ)の二軸が交わるところ、それが「存在」の現場、すなわち今ここの中今(なかいま)です。

第一句「存在はそのままで在るがままには 満たされ 無心に 輝いている」。ここには、命令も願望も一切ありません。ただ、事実の静かな記述があるのみです。存在は、修行の成果として輝くのではない。祈りの効果として満たされるのでもない。「そのままで」「在るがままには」、既に満たされ、既に輝いている。しかも「無心に」――輝こうという意図すらなく、輝いている。野の花が誰に見せるためでもなく咲いているように、存在は存在するというそのことにおいて、すでに完全な光明です。この一句を誦(ず)するとき、行者(ぎょうじゃ)は何かを付け加えるのではなく、ただ、既にそうである事実に、目を開くだけなのです。

第二句「存在即光明化運動(そんざいそくこうみょうかうんどう)」。即(そく)の一字が肝要(かんよう)です。存在が、まず在って、それから光明化されるのではありません。存在すること即(すなわ)ち光明化――存在と光明化のあいだに、時間の隙間も因果の段差もない。そして「運動」の語。この真実は、静止した教義ではなく、世界の隅々へと自ずから広がりゆく生きた運動です。一人がこの祈りに目覚めるとき、その人の存在そのものが、周囲を照らす無言の光となり、光明化の運動は、宣伝も勧誘もなしに、存在から存在へと伝播(でんぱ)してゆく。縦に神へ還った光が、横に世界を照らす――十字の祈りは、かくて一人の胸中から全世界へと広がるのです。