清姫の墓は、

 

国道から来ると左側の道沿いにあります。

 

福巖寺(ふくがんじ)境外地 薬師堂 清姫堂とあります。

 

ここは、通称・一願寺(いちがんじ)の、飛地境内となっています。

 

「伝説 清姫生誕の地」の説明板が入口付近にあります。

 

安珍・清姫の物語は諸説ありますが、こちらの説明板には、

 

『江戸時代に入り、歌舞伎や狂言で日本中にその名を知られるようになった、安珍・清姫物語の女主人公「清姫」の出生地として知られる。

ここ中辺路「真砂の里」は、昔から清姫の墓や清姫ゆかりの板碑等が祀られていて、今でも大勢の参詣者が訪れています。

 

大正時代までは、ここから約三百メートル上流の、富田川左岸の森に「清姫の墓」が祀られていましたが、国道の各幅等に伴い現在地に移されました。

また清姫はこの森の下の淵で、

 

夏になると丈なす黒髪をなびかせながら泳いでいたと伝えられ、いつのころからか『清姫淵』と呼ばれるようになりました。

 

そして、この地から六百メートル北方に、清姫の父、庄司清重が、清姫と共に住んでいた庄司屋敷の跡が残っている他、色々な伝説や、遺跡等が残っています。』

 

と書かれていました。

 

境内に建つ石碑にも「清姫之里の伝説」とあります。

 

似たような話だけれど、こっちの方が妖怪伝説っぽいかも。

 

『清姫の父 真砂の荘司藤原左衛之尉清重は 妻に先立たれてその子清次と暮らしていた

 

ある朝散歩の途中黒蛇に呑まれている白蛇を見て憐れに思い助けた

 

数日後 白装束の女遍路(白蛇の化身)が宿を乞い そのまま清重と夫婦の契りを結び清姫が誕生した

 

清姫が十三才の年 毎年熊野三山へ参拝の途中ここを宿としていた奥州(福島県)白河在萱根の里安兵衛の子安珍十六才は みめうるわしい清姫の稚い頃より気をとられて 行く末はわが妻にせんとひそかに語られ姫も真にうけて安珍を慕った

 

ある夜 

 

安珍は障子に映った蛇身の清姫を見てその物凄い形相に恐れをなした


それとは知らぬ姫は思いつめて遂に胸のうちを語り

「いつまでも待たさずに奥州へ連れていってほしい」

と頼んだ

 

安珍は突然の申し入れに大いに驚き これはなんとかして避けようと思い

「我は今 熊野参拝の途なれば必ず下向には連れ帰る」

とその場のがれの申しわけをされた

 

姫はその真意を知らず 安珍の下向を指おり数えて待ちわびたが あまりにも遅いので旅人に尋ねると 

「あなたの申される僧は 先程通られ早十二、三町も過ぎ去られた」

と聞くや

さては約束を破り道を変えて逃げられたのだと察し あまりの悔しさに道中に伏して泣き叫んだ

 

やがて気を取り直して汐見峠まで後を追い 

 

杉の大木によじ登り(現在の捻木) はるかに望めば すでに田辺の会津橋を渡り逃げ去る安珍を見て瞋(いか)りにくるい

 

生きてこの世でそえぬなら 死して思いをとげんと立帰り 荘司ヶ淵に身を投げた

 

その一念が怨霊となり道成寺まで蛇身となって後を追い 鐘にかくれた安珍を七巻半して大炎を出し焼死させ 思いをとげたと云う

 

時延長六年八月二十三日(今から約千八十年前 西暦二九八年)後 里人達はこの渕を清姫渕と呼び霊を慰めるため碑を建立

清姫の墓として毎年四月二十三日供養を続けている

 

平成二十年 四月吉日 』

 

近くには、「清姫橋」があります。

 

 

清姫橋からは、富田川と国道が見えます。

 

反対側の風景です。

山に挟まれたような風景で、清姫の墓は、山里にあるわりと静かな場所です。