山の中で、店も民家も見当たらない南海高野線の紀伊神谷駅。
駅を降りても前に見えるのは昼でも鬱蒼とした木立の中の急な坂道です。
訪れたのは2009年11月です。
画像もその時のものです。
集落は駅から離れた場所にありました。
車だと感覚が分からないけれど、駅からだと山道を上って10分ぐらいだそうです。
ここは神谷地区で、昔は宿場町だった所です。
でも、どうしてこんな車の往来も無い寂しい場所に宿場町が?と思いました。
大正時代から昭和にかけて高野詣で一番多く利用されたのが「新高野街道」もしくは「長坂街道」と呼ばれた街道だったそうです。
九度山椎出~神谷~不動坂~高野山のルートでした。
そして高野山側に一番近い街道で、京・大阪街道も合流した位置だったために宿場町が形成され
「日が昇ると銭が湧く」
といわれるほど繁盛したといわれています。
道沿いに石碑があったので何?と思ったら、
「御成婚記念道程標」とありました。
大正3年に昭和天皇の御成婚を記念して建立されたとか。
高野山女人堂 4400メートルとも。
狭く小さな集落ですが、当時は、旅館や店屋、長屋、髪結屋などがひしめきあって建っていたのだとか。
旅館などの宿泊施設が16軒もあり、750人以上が宿泊できたそうです。
芝居小屋、茶店、食堂、草餅、豆腐屋、薬、文房具屋などなどといった建物もあったそうですよ。
街道の雰囲気が残っています。
大きなトタン屋根の家も旅館だったそうです。
こちらの建物は高野町立 白藤小学校です。
木造平屋の建物です。
庭に藤の木があったので、もしかして白い藤かしら?^^
神谷の集落も過疎化のため、現在休校(1997年休校)しています。
でも、多い時には100人ぐらいの生徒がいたそうですよ。
玄関そばに「北緯 三十四度十五分」とありました。
ガラス越しに内部を撮影。
ノスタルジック。
地元の方の案内で裏へ。
白藤小学校があるので、路端に学校等ありの黄色い交通標識板があるのですが、
SCHOOLの文字が!
この標識、レアなものだそうで、標識マニアの方々の間では有名かも。
裏には和歌山縣と県が旧字体になっていました。
当時は栄えた宿場町も、鉄道やケーブルが高野山まで伸びると、街道を歩く人もなくなり、神谷も衰退の一途をたどり廃れていったそうです。


















