癒しの和歌山 ~麻巳子の和歌山探検ブログ~

御坊市 塩屋に


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別名「美人王子」とよばれる塩屋王子神社があります。


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国道42号線より中に入った旧熊野街道沿いに面しています。

車や人通りも少ない静かな場所です。


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塩屋王子神社(塩屋王子跡)の説明板です。


塩屋の歴史は古く、

また、

塩屋王子は「熊野九十九王子社」の中で特に古く、格式高いものとされていたそうです。


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鳥居近くに石碑が建立されています。

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『市指定文化財 天然記念物 塩屋王子神社の社叢(しゃそう)


当神社の社叢は 暖地性の常緑樹林で沿海暖地の天然林を代表するものである。

特に、老樹・古木は、いずれも二百年以上の樹齢をもち、当神社と郷土の古い歴史を物語る貴重な証しである。』


と、あります。


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奥に社への石段がありますが、左横からでも坂道で上れます。^^


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石段手前に手水鉢があります。^^

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石段の右側には大きな碑文が建立されています。

仁井田好古の撰文によるものですが、

このような碑文を和歌山県内でいくつか見かけることがあると思います。^^


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説明板によると、


『この石碑は江戸時代の儒学者である仁井田好古(にいだこうこ)(1770~1848)の撰文によるもので、正式には「塩屋王子祠前碑」と呼びます。

石碑が建立されたのは、天保6年(1835)明治維新が起こる33年前のことです。


 この頃、藩令により藩内各地に伝わる歴史風土等を書面に残す事業(『紀伊続風土記』の編纂)が仁井田好古を総裁(責任者)として行われていました。

仁井田総裁は、紀伊国海部郡加太浦(きいくにかだぐんあまうら)(現在の和歌山市加太)に生まれたのち和歌山藩へ儒者として出任し、『紀伊続風土記』全195巻を天保10年(1839)に完成させました。

この関係事業として、仁井田総裁の撰文によって史跡及び伝承地の顕彰碑が藩内24箇所に建てられました。

これらの碑は、歴史顕彰事業の先駆的存在として、また和歌山藩の学術文化施策の一端を示すものとして重要な資料であります。』


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なんと書いてあるのか、原文だけでは麻巳子には分かりませんでした・・・。


『 石碑の出来た経緯(いきさつ)についてですが、『紀伊続風土記』編纂人の一人本居大平(もとおりおおひら)の門人である塩屋出身の塩崎氏が、塩屋王子神社の御徳を世の中の人々に知らせたいと仁井田総裁に願い出ました。

仁井田総裁は快く撰文を草稿し、部下の一人勝本滝右衛門(かつもとたきうえもん)に草稿を塩屋まで持たせ、石面に写し取るよう命じました。

この勝本という人物は学者ではなく武士のようですが、絵が上手で続風土記の地図を担当していました。

もちろん書の方も達人で、他人の文字を石面にそっくり写すことができました。

 石碑の石は、地元の漁師さんが塩屋沖で魚網に引っ掛け採取したのを使用し、これに勝本氏が石面に写し取ったと伝えられています。』

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『 かけまくも かしこき神の 古しへを

        幾万夜(いくよろずよ)に 残すいしふみ


勝本氏は、この詩を添えて仁井田総裁の撰文を神社に捧げ帰られました。

撰文は現在も残存し、上の写文が実物の写しです。』


ということです。


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この石段を登る前に、


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美人王子絵馬は

神社前の北野商店で販売しています


ということなので、

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道路を挟んだ向い側に建っている

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北野商店さんへ先に行きました。


何度か塩屋王子神社には来ているのですが、

北野商店さんがお休みかなにかで、

今まで絵馬を購入することが出来なかったのです。(>_<)


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塩屋の天塩あります


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こちらでも塩屋の天塩が販売されていますよ。^^


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美人王子 絵馬販売中

500円

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やっと麻巳子も絵馬をゲットできました。(‐^▽^‐)


こちらの絵馬、

麻巳子にもし子供が授かることがあれば、

その時にこの絵馬を奉納したいと思います。^^


つづく・・・


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


以下、誤字脱字がありましたらすみません。(>_<)

画像見ながら文字を拾っていったので疲れました・・・。


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塩屋王子神社 (しおやおうじじんじゃ)


塩屋王子跡(和歌山県指定文化財)


 塩屋の歴史は古く、天田古墳群(あまだこふんぐん)、中村遺跡(なかむらいせき)、東大人遺跡(ひがしおびといせき)、尾ノ崎遺跡(おのざきいせき)など旧石器時代から中世にかけての遺跡があります。

古くから製塩が行われていたようで多くの製塩土器が出土しており、平城京跡から出土した木簡(もっかん)に、日高地方から塩を送ったという記録も発見されています。

また、『続日本記』の大宝(たいほう)三年(七〇三)五月条には、日高郡の調(ちょう)として銀を献上することを命じたことが書かれています。

当時、我が国で銀の採掘(さいくつ)できる場所は対馬(つしま)以外になく、航海技術など相当進んだ、諸々の技術者が日高地方に住んでいたと思われます。

伝説では権現磯(ごんげんいそ)に熊野権現(くまのごんげん)が上陸し、切目(きりめ)・神倉(かみくら)・飛鳥(あすか)・速玉(はやたま)の各神社を経て熊野大社(くまのたいしゃ)に遷座(せんざ)されたとの言い伝えもあり、当時塩屋には有力な豪族が住み、その氏神(うじがみ)が塩屋王子でなかったかと推察します。


 十世紀以降、熊野信仰(くまのしんこう)が興隆(こうりゅう)してくると、在地の諸社を王子社に仕立てていきました。

塩屋王子(現 塩屋王子神社)は、熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)のなかで特に古く格式の高いものとされ、最初に出来た七王子(藤白(ふじしろ)・塩屋(しおや)・切目(きりめ)・磐代(いわしろ)・滝尻(たきじり)・近露(ちかつゆ)・発心門(ほっしんもん)の七社)の中の一社でした。

熊野御幸路(くまのごこうろ)においては、山また山を越え塩屋に入り田辺に至るまで海岸に沿える道は甚だ楽しい眺めであったようです。

天仁(てんにん)二年(一一〇九)の『中右記(ちゅうゆうき)』に

「塩屋王子社に至って奉幣(ほうへい)、上野(うえの)坂の上に於いて祓、次昼養巳刻(みのこく)、次に伊南里(いなみのさと)を過ぐ、次鵤(いかるが)王子社に奉幣、次切部(きりべ)水辺に至って祓い、次王子社に参って奉幣、世に分陪支王子(ぶべしおうじ)と号す、日入るの間切部座下人小屋に宿す。

今日或は海浜を行き、或は野径(やけい)を歴、眺望(ちょうぼう)極り無く遊興多端(ゆうきょうたたん)也」

とあり、

建仁(けんにん)元年(一二〇一)の『後鳥羽院熊野御幸記(ごとばいんくまのごこうき)』には、「山を越して塩屋王子に参る、此辺り又勝地(しょうち)祓あり、次に昼宿に入りて小食す」とあります。

正治(しょうじ)二年(一二〇〇)後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)三度目の熊野御幸(くまのごこう)の時、切目宿にて「海辺眺望」の題で、『漁(いさ)り火(び)の光にかはる煙かな灘(なだ)の塩屋の夕暮れの空』と藤原家隆卿(ふじわらいえたかきょう)が詠んでいます。


 氏子(うじこ)は、もとは山田荘(やまだのしょう)九か村(名屋(なや)・北塩屋(きたしおや)・天田(あまだ)・猪野々(いのの)・森岡(もりおか)・南谷(みなみだに)・明神川(みょうじんがわ)・立石(たていし)・南塩屋(みなみしおや))で、塩屋王子神社と武塔天神社(ぶとうてんじんじゃ) (現 須佐神社(すさじんじゃ))の二重氏子でした。

[名屋は元和(げんな)(一六一五~一六二四)以降分離]

明治六年(一八七三)に北塩屋・天田・猪野々が分離して塩屋王子神社の氏子となり、昭和四十年代に湊(みなと)が加わり現在に至っています。


塩屋王子神社の大きな特徴は次のとおりです。

・現在、大日霊貴命(おおひるめのむちのかみ)(天照大神・あまてらすおおみかみ)・天津児屋根神(あめのこやねのかみ(春日神社祭神・かすがじんじゃさいじん))などが祀られている。

・社紋が二つ巴である。

・祭礼の御神儀に四神(しじん)が描かれている。鉾(ほこ)や毛槍(けやり)(雉(きじ)の羽根)がある。

・天皇家と同じ日の重陽(ちょうよう)の節句(せっく)(旧暦九月九日)に祭礼がおこなわれてきた。(現在は十月第三日曜日)

・古来より美人王子(びじんおうじ)と謂(い)われている。

・社域が現在の十倍と広かった。

・境内(けいだい)になぎの木、イスの木、ヤマモモの木などの老樹がある。


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鹽屋王子祠前碑


塩屋王子祠前碑(しおやおうじしぜんのひ)解説文


 塩屋村は日高川の流れが海に入るあたりにある。

昔は製塩(せいえん)を仕事にしていた。塩屋という地名の起こりである。

現在、村は南北に分けられている。

そのうち北塩屋は、東は小高い山々に続き、西は日高川に臨んでいる。

その山に向かって数十段の石段を登ると上は平らになっていて樹木が薄暗く茂っている。

そこに神社がある。塩屋王子と称している。

また、美人王子ともいわれている。

美人という呼び名は昔の記録には見えない。その起源は分からない。


 山の上に社がある。そこからは周りの風景を遠望することができる。

それで昔(平安時代)、帝(みかど)が熊野に行幸(ぎょうこう)する時には必ず休憩所になっていた。

白河法皇の行幸の時、お供の公卿(くげ)たちに命じて神前に歌会を開かせている。

また建仁元年(一二〇一年)後鳥羽帝行幸の時の記録「御幸記(ごこうぎ)」(藤原定家筆)に『ここもまた景色の優れた所だ』と書かれているのはここを指しているのである。

それ以後弘安四年(一二八一)に至るまで数人の帝が行幸している。

元弘の乱(一三三一~一三三三年)のおり、大塔宮(護良親王・もりよししんのう)が難を避けて熊野に落ち延びた時もここに宿泊している。

そうすると昔、天皇たちが熊野に行幸したときに宿泊した建物がまだ残っていたのである。

現在それらの建物はすべて無くなり草木がびっしりと茂った中にその遺跡だけが残っている。

土地の人はそこを「御所の芝」と呼んでいる。

芝とは、しめ縄を張った神聖な場所という意味である。


 塩屋王子の地形は東はうねうねと続く山々に連なり、西は海岸に臨んでいて、淡路、阿波の山々が広々とした碧海(へきかい)の彼方に霞んで見える。

その北は幾つもの山々が重なりあって半円を描くように空にそびえ、くねりながら西に走っている。

それに囲まれるように一大海湾(かいわん)が鏡を開いたように輝いている。


 以上が昔の地形である。

その後、数百年の長い間に海は土砂に埋まり、日高川の流れも移り、広い入り江は、数里にわたる肥大な平野となり、そこには村落が密集し、区分された田地が遠くまで広々とかすんでいる。

海岸には青緑の松林が眉墨(まゆずみ)を掃(ひ)いたように数里も続く姿は四季を通じて、えも言えぬ眺めである。

花の朝、月の夕の美景は千年前と同じである。

これこそ群中の別世界といえよう。


 この世に生きる人を見てみるに老人と若者では考え方も違うし身分の上下によって趣味も別々である。

ものの見方もみな同じであるはずがない。

この岡に登ってかつてここを訪れた数帝が楽しみ遊び大塔宮が恐れ隠れた後が今なお残っているのを見ていると心の底から深い感動が湧き上がってくるのを抑えることができない。

ある人は帝たちが風光を誉(ほ)めて楽しんだ様子を追想し、自分もわれを忘れて心ゆくまで楽しみ、詩を朗読したり口ずさんだりして帰るのを忘れてしまうだろうか。

ある人は不運だった親王の遺跡を弔い、その威厳のある姿と激しい気迫に打たれて涙を流しむせび泣いてもなお収まらないほどに感動するだろうか。

またある人は過ぎ去った長い歴史を見通しさまざまの出来事を見渡してどんな大異変に対しても心を奪われることなく、また様々の悲喜劇にも動揺せず悠々として世俗を超えた境地に心を遊ばせようとするだろうか。


 ここに私は碑を建て文を掘ったが、後世この文を丁寧に読んだ人はこの三つのどれかに納得してくれるだろう。


天保六年(一八三五年) 乙未夏五月 仁井田好古 模一甫 撰弁(?)書