(更新)歴史が本になっている小さな島の灯台 | サラリーマン経理・村上の視点

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サラリーマン経理視点でまとめた経理・会計の小噺『3分経理』、灯台の魅力を伝える『続・灯台護プロジェクト』、感性のままに記した『随想録』、中国語力ゼロで1年間働いていた活動記録の『中国経理奮闘日記』などなど。

ありがとうございます。村上です。


2022年に中国から帰任して、2023年中は本業が忙しくしてしまい灯台巡りも出来ず、ブログ更新も中国でのことをまとめるのに精一杯でした。


2024年は家庭の事情で泊まりの灯台訪問は難しいかもしれないので、日帰りで行けるところから徐々に活動を戻していこうと思います。


さて、そんなこんなで早速2024年一発目の灯台巡りをしてきました。


コンテンツプラットフォームのnoteを利用した全国の灯台巡礼レポの記事を更新しました。


たまたま会社休みが取れたので、未訪問の灯台で日帰りで何処に行こうかなぁと考えた末、以前訪問していた佐賀県唐津の離島関連で探してほぼノープランで向かいました。


これまでの先人方達の訪問記録では、向島に渡った方は殆どおらず、皆さん対岸の鷹島モンゴル公園から望遠で撮影されるだけ。


ということで、今回は直接訪問してみました。


 レポ79:肥前向島灯台(2024/1/17)


事前の下調べもロクに出来ていませんでしたが、かなり興味深い訪問となりました。


詳しい状況は巡礼レポの中に書いてますのでそちらに譲りますが、ここでは記事に入りきらなかった部分を記録として残しておきます。


今回、訪問した後に知ったのですが、向島(むくしま)の休校となった入野小学校向島分校で最後の担任を務められた秋山忠嗣さんの著書『最後の小学校』というものを知り、帰宅後に速攻で買って読んでみました。


こんな機会が無ければ絶対巡り合わないでしょうからね。


 Amazon 『最後の小学校』秋山忠嗣 著


 ※在庫が無いせいか高騰してますが、

  焦って購入は不要です。


結果的に、2024年1月現在も向島分校は「閉校」ではなく「休校」扱いとなっているようなので、書籍の内容の続きにどのようなやり取りがあったのか気になります。


当時の先生や小学校6年生であった生徒が、現在はどのような生活をしているのでしょうか。


小学校の正門。庇部分の「中」の字は小中学校だった時の名残でしょうかね


この一番左に建っている赤い屋根の二階建ての家が職員用の住まいだった所でしょうか。



書籍の中にも書いていましたが、灯台巡礼レポにはスペースと関連性から割愛した話があります。


それを一度、村上の主観でまとめておきます。

書籍に記載はありますが、現在でも正しいかは確認出来ていません。


◆灯台祭りの存在

春、向島では大きな行事があり「灯台祭り」という、春の到来を祝うお祭り。神楽や神輿はなく、ただ島民皆んなで酒を飲む。昭和20年代、島の灯台の下で、戦後の復興を誓って開かれたのが始まりらしい。今は高齢者も増えたので、港の水産加工場に、大人も子どもも皆んな集まり、朝から夜まで酒などを酌み交わす。


◆えびす像について

加工場の隣には空き地があり、一段高くなった場所にえびす像が七体据えられている。えびす像は高台か、漁に出る船を見守ってくれる海の守り神として、大切に祀られている。


◆薬缶(やかん)のなる木

集落を見下ろせる島の中央の丘にはご先祖様が祀られ、墓地の横には水を汲むための金色の薬缶が数十個、木に括り付けられている。

その薬缶のなる木から、道が三本に分かれており、一番右側の道は北側の崖に続く。崖下には「海賊と宝と洞窟」と呼ばれる場所があり、色々な伝説がある。真ん中の道は島の北西にある牟田(むた)と呼ばれる磯に繋がる。簡易浄水場があり、島の水道水はそこから運ばれる。一番左が灯台へと登る道。


ここが「薬缶のなる木」の分岐点。

やかんはあったかどうか、気付きませんでした。



ここが簡易浄水場だったようです。訪問時は立派なダムだな、と思っていましたが、本を読んでようやく役割が理解出来ました。確かに離島のインフラとして浄水場が必要ですね。


◆向島の船

厳密に言えば「定期船」ではなく「郵便船」。島には一つだけポストがあり、船長が委託を受けている。漁船は船底が三角形に尖っているが、郵便船は船底が平らになっている。その方が横揺れが少なくなり、乗り心地はよいが高い波に弱い。

波が4メートルになると船がシーソーのように上下する


書籍に出てきた本と構造は似通っていますが、書籍内と便数も異なり未だに「郵便船」かは不明です


◆ゴミの問題

島では燃やせるゴミは各家庭で燃やし、瓶や缶は各家ごとに集めておいて毎週水曜日の郵便船に乗せ、船長が本土に運んで処分する。灰を海に流せば環境に負荷をかける、でも行政が回収に来てくれないこの島で、ほかにどんな方法が取れるのか。


◆向島の歴史

豊臣秀吉の朝鮮出兵の時から島の歴史は始まった。対岸の星賀港から車で30分程で名護屋城がある。当時、秀吉が見張として使おうとしたのが向島で、向島に渡った4人の侍の子孫が今も住んでいる。それは「小川」「小森」「吉田」「江口」の4人である。


島に人が住み始めると同時に神社を建て、集落の東側、学校の裏手の古木が茂る社の中に「祇園社」があり島民はとても大切にしている。

旧暦6月15日には「祇園祭り」が行われ、「賑わい見るなら博多の祇園、酔い人見るなら向島祇園」とも昔は言われていた。



島の学校史を語る上では納富春男(のうどみはるお)校長先生と松尾春子先生がいる。納富校長は昭和22年に向島小中学校ができた時に赴任し、『向島小史』で島の歴史を記録し、週に4度も夜学を開くなど島の教育、開発に尽力された。

松尾春子先生は、創立期の先生の一人で、他の先生は島を去ったが春子先生は20年もの間、島の子どもたちへ愛情を注ぎ続けて島に残った。


これが「松尾春子先生を慕う碑」です




他にも興味深いエピソードが盛りだくさんでしたので、是非とも向島を訪れる前に一読頂きたいですね。


個人的には島民と担任として赴任する先生との「距離感」が、村上が赴任した中国の会社の現地スタッフと赴任する日本人出向者との関係にとてもよく似てました。


「数年で去るであろう人間」と「島で一生を生活していく人間」との感覚の違いがリアルでした。


なんか、灯台の話とは全くかけ離れた話題になりましたが、こういう話も灯台がきっかけに無ければ存在しなかったでしょうから、やはり灯台巡りしていて良かったな、と思いました。


日日是灯台