雷に打たれたように恋に落ちて、戸惑いながらも、何かに背中を押されるように始まった50代の恋は、なんだかんだで順調である。

K君は臆することなく「恋人だから」と言い、毎日の連絡で私を甘やかす。30数年前の大学時代に成就しなかった恋だからだろうか、互いが今こうなったことに特別な想いがある。手に入ることはないと思っていたものが手の中にある信じられなさ。


お互い既婚者であることが、私にとっては一番のハードルで、未だに心の奥で燻ることはあるけど。

28年という長い時間をかけて夫との関係は変わっていたから、夫に対する良心の呵責は正直、不思議なほどにない。

それくらい、これまでの人生で私は時間を夫に費やして家庭を守ってきたし、彼はそこにあぐらをかいて私の心を手離してしまったのだから。

だけど、K君の家庭の内情は見えないので、おそらく私に出会わなければ、良い旦那さんで、良いお父さんであったはずなのに、彼に嘘をつかせることになったのは私のせいだとは思ってしまう。

ただ、K君にこの話をした時に、彼は「俺は正直、どちらに対してもそういう気持ちはないんだよね。」と言っていて、あちらにも似たような事情があるのかなとは思っている。

「バチが当たるかも…」とうっかりもらした私に、「バチが当たるならそれでもいい。好きになったんだから」と言ってくれたK君をそんな目にはあわせられない。その時は言い出した私が受ける。


家庭のあるK君を、同じく家庭のある自分が好きになったと気づいた時は、出口のない絶望感に襲われて途方にくれた。

それまでの私にとって、だれかを好きになることのゴールは結婚だったから。

好きになったら、ずっと一緒にいたくなる。そのためには互いの気持ちを確かめて、気持ちが同じなら付き合って、結婚して、社会的にも認められて死ぬまで添い遂げる。それが全てと思っていた。それは社会に認められた合意形成な訳だから、結婚したらその枠からはみ出すことは許されないと。


だけど、実際に54歳でK君と恋に落ちたとき、現実はかなり違っていた。

いくら戸籍で妻だと縛られていても、心は勝手に別の人を好きになるのだと知った。

こんな気持ちを伝えるわけにはいかないと悩んだけれど、相手もまさかの同じ気持ちだったから、隠していたはずなのに互いの気持ちが少しずつ伝わってしまい、ほんの少しの匂わせ発言がドンドン、気持ちをエスカレートさせていく。

結果、気がつけば告白して(言い訳はある。相手にその気がなければ早くこんな関係を断ち切らなきゃと思ったから。)、最初はLINE友達のつもりだったのに、互いに気持ちがあるからドンドン盛り上がり、LINEだけというわけにはいかなくなった。遠距離だからこそプラトニックを保てているけれど、気持ちはクリアな恋愛感情で、他人が聞けば間違いない不倫である。


これが世間的に言われる不倫の実態かとしばし考察しているくらい、冷静な自分もいる。

きっと不倫と言われる恋も、蓋をあければひとつひとつ、いろんな実情があって当人たちにとってはどれも切ない恋なのかもと知った。

よく「そんなに好きなら、離婚してからにしろ」と言われるけれど、50代は、現実はそんなものではないことが痛いほどわかる年代だ。


K君の家庭はわからないが、我が家はK君に再会する前から夫に恋愛感情はなくなっていたけれど、家族としては円満だった。

これまで28年かけて、互いの家族を含めて培ってきた関係があり、二人の子供たちだって、この両親の元にという柱があってこそ、家庭が自分たちの帰る場所になっている。

正直、この夫婦間の歪んだパワーバランスが夫への気持ちを変えてしまった一番の要因だったけど、この家庭から私が抜けてしまったら、我が家は家族という関係を維持できないだろう。この家族を支えてきたのは私だから。万が一、私が抜けたら夫の両親も、夫も、二人の息子も、家庭と言うベースを一気に失うだけでなく、これまでの幸せだった28年間すべてまでが悲しい思い出に変わってしまう。だからこそ、自分で決めてつくりあげた家庭を今さら放り出せない責任感で、私は家族を捨てられない。家族としての愛はあるから。

私自身にしたって、家庭を失って今の自分を維持できる自信はない。幸い仕事をしてきたので、経済的に自立はしているけれど、私の交友関係も経済的基盤も全て今の仕事をベースに、この街で成り立っている。

全てを捨ててK君の住む東北に行ったところで、50代半ばで今と同じ生活の基盤を整えることは厳しく現実的に私自身を保つことは難しいと思う。

50代とはそういう年代なのだ。これがもし仮に、20代や30代ならば、全て投げ打って新しい家庭を築き直すという選択もあるかもしれないけれど。

いやしかし、50代になって結婚というものの現実をひととおり知った今となっては、それもどうかなと思うのだ。結婚は生活を共にすること。K君だって私だって、それなりの愛と覚悟をもって今の結婚を決めたはずなのだ。それでも生活に日々晒されれば、愛が形を変えていくということをよく知っている。もちろん、変わらない夫婦や、更に愛情を深めていく夫婦もいるとは思うけれど。変わるというリスクを孕むことは、身をもって、痛いほどわかる。生活の基盤がなければ生きていけないし、得てして生活は恋心を蝕むものだ。

50代になって人生の現実を痛いほど知る私たちは、だからこそ、ずるいと言われても優しい嘘を突き通すと決めた。これが自分たちの気持ちに正直になり、周囲の人を傷つけない最良の選択だと。

とは言え、なんだかんだで自分はずるいのだ。だって、私は妻ではなく恋人でいたいのだ。妻になったら綺麗ごとだけでは済まない。相手も自分も嫌な部分を見せ合わなくてならない。けれど、恋人ならば互いの一番良いところを見せ合って、うんと甘い関係でいられる。その代わり、もしもK君が明日、事故で死んでしまっても私には一切知らされないし、最後に立ち会うことも出来ない。急に連絡が来なくなってそれまでだ。それ以外にも家族に知れたらそこで終わりだし、年齢的に家族や自分の体調、介護などが生じれば、そこでジ・エンド。

いろんな意味で、いつ終わりがきても仕方ない恋だと覚悟している。


K君は言う。

「ちび子さんは誰のものでもない。心は型にはめられない。無理矢理、型にはめてしまうと自分じゃなくなってしまうから。だから、お互い自分の気持ちに素直でいようね」と。

思えば、これまでの人生、ずっと自分の気持ちを何かの型にはめてきたような気がしている。

それはそれで、人生の推進力としては良かったのだろうけれど、少し自分をないがしろにし過ぎてきたのではないか。この恋は、もしかすると私がそこを学ぶために訪れたのではないかとも思う。


50代の自分が女性として見てもらえて、こんな風に恋ができるのは幸せなこと。それも好きになった相手が同じ気持ちでそれを望んでくれている。気がつけば寝ても覚めてもK君のことを考える日々。

どうしてここから逃げられようか。

ずっと安全な、日の当たる道を選んできたけれど、それでは手に入らない宝物があるのだと知った。


未だにふとした時に、こんな大胆な行動に出た自分に驚くとともに、時に良心の呵責に苛まれたりもするけれど。

ゴールはないし、いつ終わりが来たとしても受け入れなくてはいけない恋だけれど、落ちてしまったのだから、今はこの恋を全うしたい。



50代の恋は、儚く散りゆくさだめの桜のよう…。