宿題や提出物の忘れ物が多いことや、遅刻や休みが多い事への注意の電話に出た後、母は人が変わったかのように僕に怒りました。母は、虐められる僕に原因があると言い、僕の事を見放していました。
2年生になって、毎朝体調を崩す事が増えました。初めは、母や母の交際相手から、学校に行くよう注意をされましたが、次第に行かないのが当たり前になりました。
また、高学年になってから、保健体育の授業で男女で生殖器が分かれていること、第二次性徴期では、男性は男性らしい体つきに、女性は女性らしい体つきに変化していくことを知りました。
幼少期から、自分が女性だという認識がなく、当時はその授業を受けてもパッとしなかったけれど、いつか自分の体も教科書の図のように女性らしくなると思うと、違和感や嫌悪感で胸がザワザワしました。
恋も愛もわからない僕にパートナーができました。相手はシスジェンダーの男性です。
クラスの女の子たちに、スキンシップの頻度や、デートのプランなど、いわゆる恋バナを持ちかけられますが、僕の彼の間でクラスの子が考えるような事をすることはなく、以前より出かける頻度が増えたくらいでした。
彼は僕を紹介する場面で「付き合ってる人」「俺の好きな人」と、僕を性別で形容することはありませんでした。シスジェンダーの男性である彼と交際することに抵抗はなく、充実した期間を過ごしていました。(中学校に上がるくらいまで交際していました。)
小学6年生の秋頃、母が僕の首を絞めた際に残った傷跡とアザから、学校から児相へ通報され、翌日、一時保護所に入所しました。
保護期間中、IQのテストを受けました。74と平均を下回る結果でした。
2015年3月、小学校卒業。
中学校
2015年4月、中学校入学。
小学校と比べ物にならないくらい厳しい世界だった中学校生活は、絶望から始まりました。
自宅に届いた制服は、紺色のジャンパースカート、丸襟のブラウス、水色のリボンが入っていました。正直、初めは発送ミスだと思っていました。学ランを着ると思っていたからです。
鏡に写る制服姿の自分を見ると気持ち悪くて吐き気がしました。それとは真逆に母は「似合ってるね」と言って制服姿を強引に撮り、親戚に送っていました。
中学校は小学校の時より男女で分けられる場面が多く、違和感や嫌悪感は膨らむ一方でした。
手先の器用さを強みに、幼馴染と2人で技術部に入部しました。これまで一人称は、自分を指差し表してましたが、部活の友人のように一人称を俺と言うようになりました。
僕的にはしっくりきていましたが、周りの反応はそうでもなかったみたいで「女の子は私」と強制する先生もいました。
入学して2ヶ月頃、体育着を忘れてしまったので、部活の友人から体育着のTシャツを借りて授業に参加しました。
友人のTシャツを着てる僕を見て先生は激怒しました。
「なんで女が男の体育着着てるんだよ。!気持ち悪いなぁ、脱げ」。
女子生徒全員が揃ってる体育館で、着替えを済ませるまで授業に参加させてもらえず、授業後、教室に帰っても僕の居場所はなく、教室内は「男好き」な僕の噂で溢れていました。
その日からまた、小学生の時と同じように学校に行ったり行かなかったりする生活が始まりました。
人生初めてのカミングアウトは中学2年生の時でした。
カミングアウトをしたのは母です。娘として扱われることに限界でした。
「楓は女の子じゃないと思う」と、とても曖昧な言葉に対し母は、
「そんなの思春期の心変わりだ」とはっきり言い会話を切り上げました。
突き放されたような気持ちで、浅はかな自分を責めるしかありませんでした。
近所の児童館で行われていた学習会に参加するようになりました。当時の僕は、小学校低学年レベルの勉強がやっとなくらい学力が低かったです。学習会は数人のスタッフと、数十人の生徒が集まっていて、一人一人のペースに合わせて勉強ができる環境でした。
くろまるというハンドルネームはこの時から使っています。
学習会のスタッフからも、生徒からも、女子としてではなく、くろまるとして接してもらうまでには長い時間がかかりました。
その中でも、初めから僕自身のキャラクターを受け入れてくれたスタッフや生徒もいたため、継続的に学習会に参加しました。
あ保健室の先生と担任の先生にカミングアウトをしました。中学3年生に修学旅行を控えていたからです。僕を悩ませたのはお風呂でした。
決まった時間に大浴場へ行き、クラス単位で入ります。自分でも見れないこの体を人に見せるなんて考えられず、小学校の林間学校と修学旅行のお風呂はトラウマでした。
保健室の先生に相談した後、担任の先生と3人で話すことになりました。
僕は、性別に対して悩んでいるからみんなとお風呂に入れないことを打ち明けましたが、担任の先生には「中学校生活もあと半年だから我慢しよう」と言われました。学年会議の結果、修学旅行のお風呂は個別で入る事を許可してもらえましたが、半年の我慢は僕にとって長く苦しいものでした。
2018年3月、中学校卒業。
高校入学前
学習会に通ったおかげもあり、本格的に受験期に入る頃には、常用漢字が書けるようになったり、方程式や英語の文法を理解できるようになりました。
志望校を決めるにあたって基準にしたのは制服でした。母は、僕が制服を選べる学校に進学しても、ズボンを買い与える気はないとのことだったので、元々制服がない学校に進学することを決めました。
僕はこれまで「僕は男性」とハッキリ言えませんでした。
自分の体は女性の体をしていて、当たり前のように女性と同じ扱いを周囲から受けてる。そして、仕草や好きなものも時々女性らしいなと自覚していたからです。
女性と同じ扱いを受けることは、僕にとって屈辱的で、この違和感と嫌悪感はみんなにはないものだということもわかっていました。
「男性になりたい」って言葉にピンしない、でも「男性です」とは言えない自分に1番モヤモヤした時期でした。
高校入学前、異動してしまい、一年会えなかった学習会のスタッフに、母に伝えた時と同じ言葉でカミングアウトをしました。
最初驚いていましたが、「この先どの生き方を選んでもくろまるはくろまるだよ」と言ってくれました。自分の存在を誰にも肯定されない寂しさと不安は和らぎました。
高校
2018年4月、高校入学。
入学式の後、担任の先生に性別に悩んでいる事を打ち明け、男子生徒と同じように学校に通いたいと話しました。小中学校のように女子扱いの学校生活にはもう懲りていました。
LGBTQに知識のない担任の先生でしたが、僕が不安なく学校に通えるよう、定期的に面談をする時間を作ってくれたり、積極的に学年会議で共有などしてくれました。また、担任は僕をきっかけに、性同一性障害の生徒への配慮や、LGBTQのことを知ろうとしてくれました。
クラスメイトの制服姿に憧れ、入学してすぐ居酒屋のアルバイトを始めました。初任給で、中古の制服を購入しました。
屈辱と絶望を乗り越え、3年越しにようやく望んだ制服を着ることができたことは、かけがえのないものでした。
結論から言うと、3年間、僕が思い描く学校生活は実現せず卒業を迎えました。一年生の時、学校で配慮として公認されたのは多目的トイレでの着替えと使用のみでした。
体育の授業や理科の授業では、男女で扱いが異なり、泣いても嘆いても僕は当然のように女子生徒と同じ扱いをされました。
配慮がどうしたら具体的になるか考えた結果、先生だけではなく、生徒にも理解をしてもらう必要があると気づき、生徒会にLGBTQの勉強会を匿名で提案しました。勉強会は投函から半年後に実施されました。それでも配慮はままならず進級しました。
担任の先生が紹介してくれたLGBTQの当事者向けのイベントに参加し、自分と同じ境遇の学生たちに出会いました。
自分は男性だと思っていても、周りからは当然のように女性扱いをされるため、言い切る自信が無いことを話し、その会で「性はグラデーション」と言葉を聞き、自分の性自認は男性であると自信を持てるようになりました。
そのイベントでにじーずの存在を知り、他の当事者にも出会い、改めていろんな人がいることを知りました。
自分の生きづらさにを理解してくれる、共感してくれるユースやスタッフにたくさん励ましが、学校生活に繋がりました。
高校一年生の三月、児相が学校へ面会に来ました。弟と僕の保護を検討しているとのことでした。
福祉士に、性別違和を持っているため、一時保護所の女子寮に入所することはできない。また、一時保護期間も学校は休みたくないと伝え、養育家庭に保護されました。退所日当日に行ったIQのテストは78でした。
保護期間中、性同一性障害の診断書の取得を希望しました。学校に提出する必要があったのです。児相の心理士が紹介してくれた病院に行き、仮の診断書をもらいました。将来の戸籍変更を見据えて、自宅に帰宅後も継続して通院しました。
診断書の提出したことで、配慮申請がより具体的になり、ようやく一枚の書類になりました。
二年生始まった頃は、配慮申請の会議が終わっていないため、体育の授業に参加することができませんでした。
みんなと同じように自分の自認する性別で学校生活を送りたい。という当たり前な気持ちを理解してもらうのは難しい場面も多々ありました。
Twitterを通じてLGBTコミニュティ江戸川の存在を知り、スタッフ説明会に参加しました。
この出来事が、自分の人生を少しずつ変え始めました。
高校二年生の夏、にじーずの一般向けイベントのゲストで読んでいただいた時、最後の質問で「若者の当事者として社会に向けて伝えたいこと」という質問がありました。
この年の冬頃、アジアで初めて台湾で同性婚が認められメディアで取り上げられていたことを思い出し、日本でも同性婚が認められてほしいと話しました。
同性婚、異性婚という括りではなく、自分の心に決めたパートナーと結婚するという大きな括りで法律的に認められてほしいという想いは今でも変わりません。
また、同じ年の冬ごろ、船堀タワーで初めての講演会を開きました。この日は人生の夢が一つ叶った日でもあります。
ただ、過剰な緊張から、自分のベストを尽くした講演会にはできず深く後悔しています。
「わかってほしいLGBTQのこと〜愛は愛〜というタイトルから、くろまるさんにとっての愛とは」という質問に対して、「男、女では絶対に分けられるものではなく、100人いたら100通りの生き方や誰かへの愛し方があっていいよね」と答えました。
講演会の中で1番伝えたかった想いだけは伝える事ができました。
コロナウイルス流行のため、ほとんどの学校が、休校、オンライン授業になりました。僕の学校も6月まで休校でした。
江戸川区の小中学校は僕の高校より1ヶ月早く開校され、男女分けの分散登校を実施していました。男女分けの分散登校により、当事者が苦しい声をあげていると、LGBTコミニュティ江戸川のスタッフから聞きました。
スタッフが学校に問い合わせたところ、男女で分けている理由は、名簿が男女で分かれているため、体育の授業によるためでした。
江戸川区では男女混合名簿を導入している学校は一校もなく、全部の学校で混合名簿を使うようLGBTコミニュティ江戸川区で協力し議会に陳情を提出しました。
ミーティングを重ねていく中、たまたまあがった制服の話をきっかけに、ネット署名(change .org)を通じて署名活動が始まりました。コロナウイルスの影響による緊急事態宣言で、多くの人がネットに触れたのもあり、署名活動はどんどん大きくなっていきました。
6月下旬〜8月14日まで11582人もの署名が集まりました。
これを機に他の地域でも署名活動が始まり、署名活動翌年、自分の母校でも制服選択制が導入されました。
男女混合名簿の陳情も10月22日に意義なし全会一致の採択でした。ですが、翌年4月以降も男女別名簿を使用を続けている学校が数々あるのが事実です。
定時制なだけあって、複雑な事情のある生徒は多かったけれど、自分だけ違う世界で生きているような感覚は高校三年生になっても消えることのないものでした。
通院していたジェンダークリニックで「人と違う気がする」と小学生の時からの出来事を話し、いくつかの検査を行いました。
カウンセラーの言っていた「持ってるかもね」は翌月、ADHD、精神遅滞と診断に変わりました。
診断が降りる前の僕は、仮に障害を持っていたとしても、薬物療法や訓練を続けることで、いつか治ると思っていました。でも発達障害は生まれつきのものであり治せないと知り、その事実に想定外で言葉が出ませんでした。
生まれた瞬間から、僕に「無難」なものなんてありませんでした。僕には望まなかった家庭環境と、自認と異なる体、そのうえ障害までも持ってしまった。自室に置いていた診断書類を見て「私の育て方が悪かったの?」と母は僕を責めました。
就職活動では、性差の少ないと思われる印刷会社や物流会社に就職を希望していましたが、発達障害と診断されたことをきっかけに、同じ生きづらさを持つ子供達の支援をしたい、障害の重度に関わらず、児童の目線に合わせた支援を行いたい。
取り残された僕に「一緒に頑張ろう」を手を差し出してくれた大人と同じ立場に今度は自分がなりたいという想いから、障害児の療育現場に就職しました。
一人暮らしのため必死にアルバイトをした3年間。貯金額は約100万ちょっと。長期休みは家には寝に帰るような生活を送っていました。
2月下旬、やっと決まった新居に逃げるように実家を出ました。
20歳成人の当時、18歳の僕が家の契約のハードルは高く、母は生活保護を自給していて、親戚にも保証人を立てられる人がいなかったため、借りれる家がかなり限られていました。
神奈川県横浜市の1Kのアパート、賃貸契約やガスの立ち合いなど、新しい環境で初めてのことばかりだった3月はあっという間に過ぎました。
高校卒業前、保健室の先生が、何かあった時のためにと横浜市の資料をくれました。中身はLGBT当事者のための相談窓口、職場での困りごとを聞いてくれる事業所などでした。
社会に出たら誰にも頼ってはいけない、なんでも1人で解決できなければならないと不安だった僕にとって、その資料はお守りで、先生が背中を押してくれているような気がしました。
2021年3月、高校卒業。
あとがき
去年夏頃、胸オペ(乳房切除)の予約を取り、明日は手術を控えています。
現在僕は、金銭的な問題と、手術によるリスクを踏まえ、胸オペ以外の治療を考えていません。それに伴い、現在は戸籍を男性に変更することはできません。
心置きなく男性として就活をしたり、プールや温泉に入るのはこれから先も難しいです。
当時16歳だった僕はTwitterでこんなことを呟いています。
『まだカミングアウトをしていない人に会うと
「男みたい どこで踏み外したの?」ってよく言われるけど
男性みたいではなく 男性で
僕はトランスジェンダーとして生きることを
踏み外したとは思いません。』
言葉使いはとても幼いですが、19歳になった今も、
この想いは変わりません。
自分の発信が、どこかの誰かの何かになったら。
そして、いつも応援してくださる皆様、
ご拝読してくださったあなたに感謝いたします。
ありがとうございました。