慰安婦問題「少女像」イタリアにも設置 世界中に置かれ続けるのはなぜ? 韓国「正義連」が答えた意外な意図

 
 少女像の建立を特別に重要な事業とは考えていない。最も重視しているのは慰安婦問題に関する資料の整理や保存、博物館の活性化だ。現在9人が生存している被害当事者が亡くなれば、運動の熱気は下がるかもしれないが、日本政府が責任を認めなければこの問題がなくなることはない。重要なのは、より良い世の中をつくるために(被害者の)記憶をどのように継承するかだ。
 
 
イタリア西部サルデーニャ島スティンティーノ市に設置された少女像=正義連提供
 
 旧日本軍の慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」が6月、イタリアに建てられた。設置を支援した韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)」は、近い将来に全ての元慰安婦が亡くなっても、被害の記憶を伝える活動を続ける方針を示している。日本政府が撤去を求める中、あくまで設置を続けるのはなぜか。李娜栄(イ・ナヨン)理事長(56)に聞いた。(聞き手=ソウル・木下大資)
 
◆「建てたい」要請受けて支援
―イタリアに少女像を設置した経緯は?
 元教師でBTS(K-POPグループ)ファンのイタリア人女性が韓国の歴史に興味を持ち、私たちに連絡してきた。性暴力への警戒心を喚起するため、地元に少女像を建てたいと考えたようだ。現地のスティンティーノ市長は人権弁護士出身で関心が深く、話が速く進んだ。最終的に正義連が同市に提案する形を取り、像の制作費と運送費も負担した。
 
―海外で少女像の建立を進めようとしているのか。
 その地域の要請を受けたときだけ支援するのであって、正義連がどこかに「必ず建てる」という意図を持って進めることはない。私が理事長に就いた2020年につくった内規で、海外の公共の場所に建てる場合に限り費用などの支援ができる。ドイツ・ベルリンの少女像などが該当する。韓国内に約140体ある少女像については、11年に前身の韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)がソウルの日本大使館前に設置した1体を除き、まったく干渉していない。
 
ソウルの正義連事務所で、少女像について語る李娜栄理事長=木下大資撮影
 
◆日本への攻撃意図はない
―日本では少女像に否定的な反応が強い。日本政府も世界各国への設置に抗議している。
 少女像は過去にあった痛みを記憶し、亡くなった方々を追慕し、現在も起きている戦時性暴力と、日常の性暴力に対する警戒心を喚起するものだ。日本への嫌がらせや、攻撃するような意味はない。日本政府が像を撤去しようとする過剰反応を続ければ、むしろ韓国人の敵対心を刺激する。実際、韓国内にある少女像の多くは、15年の日韓慰安婦合意で像の撤去問題が浮上してから建てられた。
 
―今後の正義連の活動方針は?
 少女像の建立を特別に重要な事業とは考えていない。最も重視しているのは慰安婦問題に関する資料の整理や保存、博物館の活性化だ。現在9人が生存している被害当事者が亡くなれば、運動の熱気は下がるかもしれないが、日本政府が責任を認めなければこの問題がなくなることはない。重要なのは、より良い世の中をつくるために(被害者の)記憶をどのように継承するかだ。
 
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◆碑文に「日本はホロコーストに劣らない犯罪を行った」
 
8月21日、ソウルの日本大使館前で、正義連などが慰安婦問題の解決を訴える「水曜デモ」を実施する中、すぐ近くでは少女像設置に反対するグループ(手前)が撤去を求めていた=木下大資撮影
 

 今回の少女像設置を巡り、日本政府はスティンティーノ市に懸念を伝えた。像の傍らの碑文には「日本はアジア太平洋地域で数多くの少女と女性を拉致して軍隊の性奴隷にするなど、ホロコーストに劣らない極悪非道な反人倫的犯罪を行った」などと記されている。日本政府は「強制連行を直接示す資料はない。『性奴隷』という表現は事実に反する」との立場だ。
 

 日本政府は、世界各地に設置された少女像の撤去を働きかけており、ベルリンでは現地の区役所が像を設置した市民団体に9月までの撤去を促している。
 

 ソウルの日本大使館前の少女像に関しては、外国公館の品位維持を定めたウィーン条約に反するとして、韓国側に撤去を要求。2015年の日韓合意で「韓国政府は関連団体との協議を通じて適切に解決されるよう努力する」とうたわれたが、韓国世論の反発が強く、手付かずとなっている。
 

 少女像 元慰安婦の支援団体である韓国挺身隊問題対策協議会が2011年12月、ソウルの日本大使館前で謝罪と賠償を求める「水曜デモ」の1000回目に合わせて初めて設置した。チマ・チョゴリを着た10代の少女の姿をしている。16年に別の市民団体が釜山の日本総領事館前に設置すると日本は駐韓大使を一時帰国させるなど、日韓関係悪化の一因になった。制作者の彫刻家夫妻による同様の作品が19年の「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」で展示され、抗議や脅迫により開催中止に追い込まれた。