権力の監視はメディアの使命なので「御用記者」に成り下がってはいけない。しかし、政治家にただ厳しい言葉を重ねても、それは真の「批判の剣」ではない。そんなジレンマを抱えながら、安倍晋三、菅義偉、梶山静六、細川護熙をはじめとする大物政治家たちから直接「政治」を学び、彼らの本質と向き合った「文春」の元編集長がいた。

数々のスクープをものにした著者がキャリアを赤裸々に語りつくした『文藝春秋と政権構想』(鈴木洋嗣著)より抜粋して、政権幹部と語り合った「密室」の内側をお届けしよう。

安倍が総裁に

わたしはテレビ中継で歓喜に沸く自民党本部の安倍の姿を見て、「今回はしくじったな」という思いを強くしていた。月刊「文藝春秋」にとって、新政権の政権構想を掲載するのは当然という意識があった。

たかが雑誌編集者の分際で思い上がっている部分もあるに違いないが、これが若い時分から課せられてきた仕事であった。実際、歴代の編集部も、あらたに就任した総理大臣、あるいはその有力候補のインタビューをものにしていた。このとき、わたしは月刊誌の編集長を下ろされたばかりで文春新書編集部長の職にあった。

 



民主党政権がつぶれ自民党が政権に復帰する、その政治史においての転換点、要の場面で時の政権構想を掲載できないのはあり得ない。誰に命じられたわけでもなく、しかも担当部署でもないのに動き出した。
 

政権構想を捉える
自民党総裁となったこの時点で、安倍政権誕生が確実視されていた。

まずは菅に会いに行かなくてはならない。菅との面談のアポが取れたのは10月11日、衆議院第二議員会館の菅の応接室だった。執務室から入ってくる菅を認めるなり開口一番こう言った。

「安倍さんを担ぐのをやめようなどと言ったのは、まったくの不明でした……。これから(総選挙を経て)第二次安倍政権誕生となるわけですが、ついてはお恥ずかしいのですが、政権構想をいただきたい」

この厚かましい依頼に、菅は声もなく笑っていた。多くを語らず、

「じゃあ、総裁特別補佐の加藤(勝信)に会ってくれ」

と段取りをつけてくれた。数日後、自民党本部の総裁室に加藤を訪ねた。そのとき、初対面であった加藤は万事心得たとばかり対応してくれた。年内にも実施される予定の総選挙(結局12月16日投票となった)に臨むための政権構想づくりに着手することとなった。

 

 

この時期に菅はわたしにこう洩らしていた。

「実は我々のブレーンには大蔵省出身のすごい大学教授がついているんだ」

安倍の新たなブレーンとはいったい誰なのか。大蔵省出身と聞いて、すぐに旧知の財務省官房長の香川俊介(昭和54年大蔵省入省)に連絡をとった。これまでの経緯を簡単に説明したのち、

「安倍さんのブレーンに御社(財務省)出身の大学教授がいると聞いたのですが、心当たりはありませんか」

と尋ねると、香川は

「うーん、誰かなあ」

と唸って黙りこんでしまった。

謎の「ブレーン」
財務省という役所は、霞が関最大の権限(予算編成権、徴税権)を有し、かつ最強のシンクタンクでもある。さらに永田町に対しても濃密なネットワークで情報収集に怠りなかった。その現場指揮官である香川にも「安倍側近という大学教授」の名前がとっさには思い浮かばない。しかし、さほど時間が掛からず、その新たなブレーンの一人が静岡県立大学教授の本田悦朗だとわかった。

安倍が総理の座を退き逼塞(ひっそく)していたこの数年のあいだに、山梨県鳴沢村の別荘でご近所付き合いをしながら経済や金融のレクを受けていたという。香川にとっては大蔵省入省の一期先輩に当たる。大蔵省現役官僚のころの評価はいまひとつの人物であった。その本田が安倍に説いたのが「無制限金融緩和」である。

 

当時、1990年代のバブル崩壊以降、日本経済はデフレに喘ぎ、「失われた10年」に次いで「失われた20年」というフレーズが使われて久しかった。民主党政権下でさらに沈みゆく日本経済の立て直しこそ、新政権に課せられた最大の使命であることはわかっていた。しかし、この無制限金融緩和政策なるものだけで、果たしてデフレ脱却、日本経済の再生となるのかどうか。まずは安倍ブレーンの考えを聞いてみようと考えた。

総選挙の投票日までに安倍の新たな政権構想を発表するには、「文藝春秋」の2013年1月号(2012年12月10日発売)の締切に間に合わせなくてはならない。それは11月末に迫っていた。あと一ヵ月ほどしかない。

加藤を通じて安倍本人の了解を得ることが出来、この枠組みが決まった。あとは月刊誌の編集現場が論文の形を整えてくれるはずだ。加藤総裁特別補佐を中心に構想の骨子が固まっていった。この間、財務省幹部とは連絡を取り合っていたが、実は安倍と財務省の関係は微妙なものであった。

 

 

「あの安倍晋三が帰ってくる...」やり手政治記者が語る、第二次安倍内閣成立を前に財務官僚がパニックに陥った驚きのワケ

 
民主党政権と霞が関
民主党政権の3年間、とくに三人目の首相となった野田佳彦政権の官邸では財務官僚の影響力は絶大であった。

民主党政権の生みの親である小沢一郎の構想として、発足当初は「脱・官僚」すなわち役人を排除する政治主導を唱えていた。副大臣ポストを新設し、政治家が政策決定の主軸となるべく、役所に乗り込んだ。譬えていえば、「企業(省庁)を社長(大臣)、専務(副大臣)、取締役(政務官)で運営するから、部長以下の社員(官僚)たちは口を出すな」という体制を構築しようとした。

しかし、この大胆な改革は一年も経たずに破綻する。霞が関は大混乱を生じ、あらゆる局面で政治が行き詰まっていく。社長や役員だけでは、会社は回っていかない。

もちろん、民主党の言う「脱・官僚」の理念がすべて間違っていたわけではないだろう。党にもそれなりに優秀な人材は揃っていたし、それまでの自民党政治と決別するという点からも大いに意味があった。

だが、「事業仕分け」に象徴されるように、すべての政策をゼロベースとするなど、余りに拙速に過ぎた。そこに東日本大震災対策の不手際も加わって、菅直人政権以降、民主党は政権のガバナンスを失っていく。
 
帰ってきた「混沌」
政治家主導は影を潜め、当初の目論見どころか逆に財務省を中心とした「官僚主導」としか言いようのない形になっていく。政策づくりも国会対策も政治スケジュールの肝心なところまでも、役人に頼ることとなった。

特に野田政権では、財務省の丹呉泰健(昭和49年入省)—勝栄二郎(昭和50年同)—香川のラインで官邸が動いていた。その様子を、野に在る安倍や菅をはじめ自民党の有力政治家たちは苦々しく眺めていたのである。

この時期、ある自民党の閣僚経験者に財務官僚たちの振る舞いを聞いたところ、

「あいつらは、ずっと政権に居るからな」

と吐き捨てるように言っていた。官僚は政治家個人に仕えるのではなく国家に仕えるのだから、彼らを責めても仕方ないようにも思える。しかし、野党時代の冷や飯が寛容を許さないようであった。安倍は亡くなった後に出版された回顧録でこう記した。
 
皮肉なことに、民主党政権が誕生した時と同様、政権奪回を目前にして、財務省は自民党に敵視されることとなった。

——あの安倍晋三が帰ってくる。

霞が関にとっては民主党という暴れ馬がいなくなったが、ほっとする間もなく第一次安倍政権時代の悪夢が蘇る。しかも、「無制限金融緩和」と聞き慣れぬことを言っている。同時期、財務省のみならず日本銀行もパニックに陥っていた。
 
 

キーワードは「2%」…文春元編集長が語る、第二次内閣発足に向けた安倍晋三の「秘策」立案の舞台裏

 
安倍の政権構想
急ピッチで政権構想づくりが始まった。「新しい国へ」と題した安倍の新しい政権構想は次のように書き始められる。

「『自民党は変わったのか』『安倍晋三は本当に変わったのか』——総選挙を真近に控えて、有権者の方々からそうした疑問の声をいただくことがございます」

「総理大臣を務めていた頃の自分を振り返ると、今にして思えば、やや気負いすぎていたと思う部分もあります。(中略)挫折も含めて、あのときの経験が私の政治家としての血肉となっていることを実感しています」

安倍は、自身が大きな挫折を経験した政治家だからこそ、日本のためにすべてを捧げる覚悟がある、と続ける。
 
「東日本大震災から一年半が過ぎても、復興は遅々として進まず、被災地に赴けば、『安倍さん、何とかしてください』という悲痛な声を聴かされました。さらに日本経済は低迷を続け、その足元を見るかのように、近隣諸国は、わが国の領土をめぐり圧力をかけてきています」

民主党政権下での失政を受けて、安倍はいの一番に経済・復興、そして第二に、外交面における課題を指摘する。

「日本にとって、喫緊の課題が経済対策であることは誰の目にも明らかです。現下の経済状況における最大の問題は、1997年以来の長引くデフレに他なりません。デフレは労働者の雇用を奪い、社会保障を危機に陥れ、国民生活を疲弊させます」

「デフレ退治」を高々と宣言した瞬間だった。その対策のために何をするべきなのか。
 
これまでにない「対デフレの秘策」へ
「政府と日本銀行が政策協定を結び、明確なインフレターゲットを設定します。具体的な数字は、専門家との議論の過程で決まっていくわけですが、わが党としては物価目標『2%』を目指すべきと考えています」

この「2%のインフレターゲット」こそ、本田教授をはじめイェール大学の浜田宏一教授たちブレーンが練り上げた安倍の秘策であった。まさしく、後に誰もが知ることになる「異次元金融緩和」を始めようとしていたのである。金融のバルブを目一杯広げることで、ハイパワードマネー(現金通貨と日銀当座預金の合計・要は通貨の総量のこと)を十二分に供給して信用創造を膨らませ、一気に景気回復させようという目論見である。

しかし、実は、当初案では「2%」ではなかったのだ。初めの設定は「3%のインフレターゲット」であった。

民主党政権下での物価上昇の目処が「1%」であったことからみると、「3%」はかなり高めの設定であった。おそらく政権争奪の選挙を目前に控え、その目玉にすべく目標を景気よくぶち上げておこうとする姿勢であったことは想像に難くない。
 
緩(ゆる)やかなインフレを継続的に続けることで経済成長を取り戻すといった主張で、リフレ(再膨張)派といわれる。当時の金融理論においても、リフレ派の旗頭で、ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンが「4%」を掲げるなど、かなり高めの物価上昇設定を示していた。

しかし、草稿段階でこの数字を見たとき、ほんとうにそんなことが可能なのか。わたしはその実現性について財政・金融当局者たちの意見を聞いてみようと考えた。