サイパン戦で北端に追い詰められ、家族で海へ飛び込んだ女性に以前取材した。共に救出された幼い弟に、米兵は自分のシャツを脱いで着せてくれた。死より恐ろしいと教育された「鬼畜米英」の優しさ。波間に消えた父を悼み目を潤ませた女性に自決を促した国の罪深さを思った。

 

 民間人を巻き込む大規模な地上戦が行われ、日本人約5万5000人が犠牲となった太平洋戦争のサイパン戦の組織的戦闘の終結から、7日で80年を迎える。日本の委任統治領だった旧南洋群島で展開された「南洋戦」の実相を知る人が少なくなる中、国から民間被害者たちへの補償は行われず、司法に求めた救済の道も閉ざされている。戦後も差別の中に置かれた、戦争孤児の女性たちが抱く思いとは。(山田雄之)
 

◆5歳で孤児となった女性「何でも不平等」

 

 

 「私は捨てられ者よ。何でも不平等。サイパンであった戦争、どれだけの国民が分かっているんだろ」
 

 沖縄県うるま市の祖堅秀子さん(85)が嘆いた。両親が開拓で移住したサイパンで7人きょうだいの三女に生まれ、5歳で迎えた地上戦で孤児となった。
 

 米軍の砲撃で家が燃え、山中を逃げた日々を鮮明に覚えている。壕(ごう)の一つで、泣きやまない男の子を「みんなが犠牲になる」と日本兵が絞め殺そうとした。母や幼い妹らと逃げており、「私たちも危ない」と家族で壕を飛び出した。
 

◆母は撃たれ、父は消息不明に
 母は川で水を飲む時に機銃で撃たれて動けなくなった。父も新たな壕に移ろうと妹らを連れて出たきり消息不明に。「バンザイクリフ」と呼ばれる崖付近にたどり着いた。一緒に逃げた姉に、日本兵から渡された手りゅう弾を持って「身投げしよう」と抱きつかれたが、祖堅さんは「お父さんは戻る」と説得。捕虜として米軍に捕まった。

 

 

 飛行場の造営に携わっていた父には「もう負け戦だ」と伝えられていた。祖堅さんは「国は分かっていたのに降参せず犠牲を増やした」と憤る。
 

 終戦後は沖縄に引き揚げたが、生活は苦しかった。仕事に出る兄の娘を連れながら小学校に通い、帰れば家事。夜空に浮かぶ星を母に見立て、「育てもしないくせに」と泣いて恨んだこともある。高校卒業後、本当は看護師になりたかったが、家計を支えるためにあきらめて米軍基地で兵隊の家庭の世話などをした。結婚後、旧防衛庁の職員に採用され、25年間勤務した。
 

◆民間人と元軍人・軍属とで補償に格差が
 50代のころ、元軍人・軍属と民間人との戦後補償の差に気付いた。看護師になった友人は父親が軍人として亡くなり、家族で恩給を受けていた。祖堅さんは「軍人だけが特別じゃない。私の親だって同じ尊い命だ」と心が痛んだ。

 

 

 退職後は心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんだ。山中で「亡くなった人のように布をかけて」と頼む母親を置いてきた記憶が、不意にフラッシュバックする。テレビで流れるサイレン音に空襲警報発令を想像して体が震えた。
 

 国に謝罪と損害賠償を求め、南洋戦被害者ら45人が2013年に提訴した国家賠償請求訴訟に参加した。「国に過ちを認めさせないと、いつかまた間違える」との危機感からだ。沖縄でも今、南洋戦を知らない人に出会う。「太平洋戦争における地上戦の始まりであり、沖縄戦とサイパンの悲劇はつながっていた。どうか知ってほしい」
 

◆家族全員を失った女性の痛み
 家族全員をサイパン戦で失った恩納村の大城スミ子さん(89)は「逃げる怖さ、家族を亡くした寂しさ、食べ物がないひもじさ…。たくさん重なり、何も考えられなかった」と振り返る。沖縄から移住した両親の元に生まれ、姉、弟3人と7人暮らし。サトウキビ農家だった父が自宅で弾く三線(さんしん)に合わせて、歌うのが楽しかった。

 

 

 国民学校3年だった1944年6月、米軍が上陸。壕から壕へ逃げる中で家族は離散。父は空襲の犠牲になったと人づてに聞き、一緒だった母は砲弾の爆発で血まみれになり、亡くなった。大城さんは捕虜になり収容所にいたが、終戦後、家族は誰も現れなかった。
 

 沖縄に帰った後も、親戚の家を転々とした。「みんな苦しかった。文句なんて言えない」と大城さん。中学に通うのを途中でやめて、米軍基地で働いたり、農作業を手伝ったりした。
 

 結婚して子ども8人を産み、現在は孫8人、ひ孫2人の大家族となった。幸せだが、「戦争がなければ、家族はみんな死なずにすんだ」との思いは消えない。南洋戦国賠訴訟では原告として法廷で証言し、学校の平和学習でも体験を伝えてきた。「こんな思い、もう誰にもしてほしくない」
 

◆「南洋戦は歴史の空白にされようとしている」

 

 

 同訴訟の弁護団長だった瑞慶山(ずけやま)茂弁護士(81)は「南洋戦は世間からもあまり知られず『歴史の空白』にされようとしている」と現状を憂う。政府は、元軍人・軍属やその遺族に計約60兆円の補償金を払う一方で、援護法で準軍属に当たる「戦闘参加者」を除き、多くの民間人を「国と雇用関係になかった」と放置した。瑞慶山さんは「国策だった戦争の犠牲者として、軍人も民間人も何ら変わりはない」と断じる。
 

 自身もパラオで生まれ、1歳の時に乗った避難船が沈没、3歳の姉が水死した。2010年から無料相談を受け付け、補償の枠外に置かれた南洋戦や沖縄戦の被害者の声を聞いた。家族を失い、今も後遺症やPTSDで苦しむ人の話は「どれも悲惨。手りゅう弾などで集団自決を迫り、壕を追い出すなど、日本軍の民間人への加害も許せなかった」。
 

◆南洋戦国賠訴訟の「非情判決」
 祖堅さんたちのような孤児も多い。瑞慶山さんは「なんとか生き延びたが、戦後も望む教育や生活を得られてはいない。人生そのものが被害を受けた」と受け止める。
 

 南洋戦国賠訴訟は2018年に那覇地裁で敗訴。戦争被害やPTSD、日本軍の加害行為が認定され「誠に残虐非道」とまで言及されたのに、「法的根拠となり得るものが存在しない」と請求棄却された。国家賠償法施行前の行為は、国は責任を負わないとする「国家無答責」の考え方に阻まれた。二審判決も支持し、2020年に最高裁で敗訴が確定した。
 

 現在、国会議員らも救済立法運動を進めるが、対象は空襲や沖縄戦など国内の被害者にとどまり、南洋戦は外れている。瑞慶山さんは「同じ被害なのに不当。南洋戦が軽視され、差別の中で差別が生まれている。別の救済特別法の動きを模索したい」とする。
2015年9月、南洋戦被害を巡る国家賠償訴訟の口頭弁論前に那覇地裁前で開かれた集会=瑞慶山茂弁護士提供で

◆戦争被害の補償「過去の問題ではない」

 沖縄では自衛隊が南西諸島防衛を強化し、名護市辺野古の新基地建設も進む。瑞慶山さんには「太平洋戦争で戦った日米が一緒に敵国と向き合おうとしている。また戦場になる状況がつくられつつある」と映る。
 

 2004年成立の国民保護法では、武力攻撃事態などの場合、国の要請で協力した国民が死亡や負傷したら損害を補償する、と規定される。「決して過去の問題ではない」と瑞慶山さんは強調する。「協力しなかったり、要請されなかったりした人は、補償の対象外ということ。政府は今も、戦争に巻き込まれる国民を救わない論理を貫いている」
 

◆デスクメモ
 サイパン戦で北端に追い詰められ、家族で海へ飛び込んだ女性に以前取材した。共に救出された幼い弟に、米兵は自分のシャツを脱いで着せてくれた。死より恐ろしいと教育された「鬼畜米英」の優しさ。波間に消えた父を悼み目を潤ませた女性に自決を促した国の罪深さを思った。(恭)