きょうの潮流
 

 「総員死ニ方用意」の文字。乗組員たちは遺書をしたため、親元に形見を送りました。死地に赴く特攻作戦。1945年4月6日、戦艦大和が向かった先は沖縄でした

 

▼当時の連合艦隊首席参謀はこう主張していたそうです。「沖縄のあの浅瀬に大和がノシ上げて、一八吋(インチ)砲を一発でも射ってごらんなさい。日本軍の士気は上がり、米国軍の士気は落ちる。どうしてもやらなくてはいかん」。(吉田満・原勝洋著『ドキュメント戦艦大和』)

 

▼しかし翌7日には米軍の猛攻をうけ、沖縄のはるか手前の海で撃沈。乗組員3332人のうち、3056人が亡くなったとされています。きょう沖縄「慰霊の日」を前に、「平和の礎(いしじ)」には昨年に続き大和乗組員の名が多く刻まれました

 

▼沖縄戦で亡くなったすべての人々を対象とし、戦争の実相を後世に正しく継承するという礎。新たな刻銘をふくめ、これで24万2225人の名前が記されたことに。戦後50年となる95年の建立後、今も増え続けています

 

▼本土決戦の捨て石とされ、失われていったあまたの命。ふたたび軍備が強化され、辺野古の米軍新基地建設でも大浦湾の工事が強行されようとしている沖縄。デニー知事は今年の「慰霊の日」に、来年の戦後80年に向けて沖縄の思いを力強く発信すると

 

▼大和の沈没後に救助され生還した乗組員は、のちの世に伝えたい思いを残しています。「絶対に昔の軍国時代みたいにならないようにして、平和な世の中を送ってもらいたい。それだけが願いです」


 

【写真特集】「慰霊の日」 祈りに包まれる沖縄(随時更新)

 

 

この日も沖縄県民の「辺野古新基地建設反対」の声を無視して基地建設は続いている。

 

 

礎に刻まれた両親や集落の人たちの名前を見て当時を思い出して涙ぐむ97歳の女性=23日午前8時6分、糸満市摩文仁の平和公園(喜瀨守昭撮影)

 

 沖縄は23日、「慰霊の日」を迎えた。おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦で、多くの尊い命や文化遺産が奪われた沖縄戦から79年。激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では同日、県と県議会主催の沖縄全戦没者追悼式が開かれる。20万人以上の戦没者に思いを寄せ、恒久平和を願う1日。各地の表情を写真で伝える。

 

 

朝の光に照らされる平和の礎=23日午前6時過ぎ、糸満市摩文仁(高辻浩之撮影)

 

 

朝日が照らす荒崎海岸。波の音だけが響く=23日午前6時20分、糸満市(又吉康秀撮影) 

 

 

大雨で故障し、点火されない「平和の火」(左)を見ながら会話する家族連れ=23日午前6時42分、糸満市摩文仁の平和祈念公園(ジャン松元撮影)

 

 

朝日に向かって手を合わせる家族=23日午前6時11分、糸満市摩文仁の平和祈念公園(ジャン松元撮影)

 

 

轟の壕入り口でたまった落ち葉を払う平和ガイドの女性=23日午前7時20分、糸満市内(又吉康秀撮影)

 

 

魂魄の塔に供物を捧げる市民=23日午前7時20分すぎ、糸満市米須(滝本匠撮影)
 

 

ひ孫もそろって魂魄の塔に手を合わせる家族ら=23日午前7時50分ごろ、糸満市米須(滝本匠撮影)

 

 

静かに手を合わせて平和を祈り、魂魄の塔を後にする遺族ら=23日午前7時23分、糸満市米須(大城直也撮影)

 

 

平和の礎の刻銘を見つめ、手を合わせる家族=23日午前6時24分、糸満市摩文仁の平和祈念公園(ジャン松元撮影)

 

 

父や姉ら親族の名前が刻まれた「平和の礎」に花などを手向け、目頭を押さえる81歳の女性。「冥福を祈るつもりで来た。できる限り健康で、来年もこられるようにしたい」=23日午前7時7分、糸満市摩文仁の平和祈念公園(小川昌宏撮影)
 

 

親子3世代で訪れ、礎に刻まれた父親の名前をじっと見つめる男性(右)と手を合わせる家族ら=23日午前7時11分ごろ、糸満市摩文仁の平和祈念公園(喜瀨守昭撮影)
 

 

花や線香に、持参した祖母の写真を並べる49歳の女性。「母は高齢になったけど元気だよと伝えた」と話し、「私の娘が似ていると思う」と写真の祖母に語りかけた=23日午前7時25分、糸満市摩文仁の平和祈念公園(小川昌宏撮影)

 

 

平和の礎の刻銘を見つめ、手を合わせる女性=23日午前6時50分、糸満市摩文仁の平和祈念公園(ジャン松元撮影)

 

 

ひめゆり学徒の思いを次代に 戦後生まれの平和祈念資料館長の決意

 
「ひめゆり平和祈念資料館」 
沖縄慰霊の日に、行ってきました。
普天間朝佳館長にもお会いしてきました。
リニューアル後、初めて訪問しましたが、胸に迫る展示の数々。絶対に見に行くべき、みんなで見に行って支えるべき資料館です。
 
 
 6月上旬。沖縄県糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」では、修学旅行で訪れた中学生たちがメモを取りながら展示を見て回っていた。有名な「ひめゆりの塔」と同じ敷地内にあり、多くの学生や観光客らが足を運ぶ。新型コロナウイルス禍前までは、元ひめゆり学徒たちが来館者を迎えていたが、その姿はもうない。

 第二次世界大戦末期の沖縄戦で日本軍による組織的戦闘が終結して23日で79年。「証言員」として沖縄戦の体験を館内で語ってきた30人のうち21人が世を去り、存命の元学徒たちも90代半ばとなった。「彼女たちがいてこその資料館だったので、寂しさはある。コロナ禍が落ち着いたので『また戻りませんか』と声をかけたが、『もう無理よ』という答えだった」。館長の普天間朝佳(ちょうけい)さん(64)は残念がる。

 資料館がオープンしたのは1989年。23日の沖縄慰霊の日で開館35年を迎え、これまでに約2400万人が訪れた。普天間さんは8代目で、初の戦後生まれの館長だ。

「ひめゆり学徒隊」の…
 

 

<社説>週のはじめに考える 沖縄を再び戦場にしない

 
 太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激烈な地上戦の戦場となった沖縄県。きょう「慰霊の日」を迎えました。1945(昭和20)年の6月23日、日本軍による組織的戦闘が終わった日とされます。

 あれから79年。沖縄には依然、多くの米軍基地が残り、情勢緊迫を理由に自衛隊も増強されています。再び戦場になるのでは…。県民の不安は募りますが、沖縄を再び戦場にしてはなりません。

 今年4~5月、沖縄戦跡の一つが報道公開されました。那覇市の「首里城」地下に旧日本軍が構築した「第32軍司令部壕(ごう)」。総延長約1キロに及ぶ5本の坑道のうち司令部中枢に近い「第2坑道」と「第3坑道」と呼ばれる区域です。
 
 第3坑道は「守礼門」の地下にあり当時の牛島満司令官の「司令官室」があったとみられます。
 県が管理する坑道内部への立ち入りは通常、崩落の危険があるとして禁止されていますが、今回、地元メディアが記録のため内部に入りました。報道公開は2020年の「第5坑道」以来です。

 坑道は地下13メートルにあり、高さ1・2~2・8メートル、幅1・3~2・8メートル。所々に落石や水たまりがあり一部は崩落していました。

 太平洋戦争中の44~45年に米軍の進攻に備えて築いた旧日本陸軍の拠点で、壕内には司令官室のほか参謀室、将校室、作戦室、通信室、救助室などがあり、千人以上の将兵らがいたとされます。

◆住民巻き込まれ犠牲に
 沖縄攻略のために太平洋地区の戦力を結集した米軍は45年3月26日、慶良間列島に上陸。4月1日には1500隻近い艦船と、延べ約54万人の兵員で沖縄本島に上陸を開始しました。苛烈な沖縄戦の始まりです。

 日米両軍の激しい攻防の末、米軍は5月11日、司令部のある首里に総攻撃を加えました。第32軍は同22日に首里から南部への撤退を決め、放棄した壕を自ら爆破したとされます。

 しかし、南部撤退は住民保護を度外視した展望のない消耗戦でした。すでに南部に避難していた住民を戦闘に巻き込み、多大な犠牲を強いることにもなりました。

 南部に逃れた住民の多くが「鉄の暴風」とも呼ばれる米軍の猛攻撃で犠牲になったのも、将兵と混在していたため、攻撃対象とされたからでした。壕に避難していた住民が日本軍の兵士に壕から追い出されたり、自決を強いられたという証言も多く残ります。
 
 沖縄本島南部に撤退した第32軍は糸満市摩文仁周辺の壕に司令部を移しましたが、戦況は好転することなく、6月23日、牛島司令官の自決によって日本軍による組織的な戦闘は終わります。

 約3カ月続いた沖縄戦では県民の4人に1人が犠牲になったとされますが、第32軍の南部撤退以降の約1カ月間に住民の犠牲が集中しています。軍隊は住民を守らない-。沖縄戦の多大な犠牲から得た県民の教訓です。

◆「基地のない島」は遠く
 沖縄は戦後、日本本土と切り離され、米軍による住民の人権軽視の苛烈な統治が続きました。

 沖縄の施政権が日本側に返還された1972(昭和47)年5月15日の本土復帰は、沖縄の人々にとって、戦争放棄と戦力不保持、基本的人権の尊重などを定めた日本国憲法への復帰であり、願い続けた「基地のない平和な島」が実現する機会でもありました。

 しかし、米軍基地はそのまま残り、基地に起因する騒音や環境被害、米兵らによる事件・事故など深刻な被害は変わりません。

 復帰当時、在日米軍専用施設が所在する比率は本土と沖縄県で4対6でしたが、今では3対7に拡大しています。基地負担を沖縄県民に押し付ける構図です。

 名護市辺野古沿岸部では多くの県民が反対する中、普天間飛行場(宜野湾市)の代替施設建設が強行されています。同じ県内移設では基地負担の抜本的な軽減にはならないにもかかわらず、です。

 さらに近年、台湾や沖縄県・尖閣諸島を巡る緊張を背景に「有事への備え」として米軍に加えて自衛隊も増強されています。米軍や自衛隊の基地が攻撃対象となり、再び戦場になるのでは、との懸念が県民の間で高まっています。

 もちろん、沖縄を戦場にして県民に犠牲を強いるようなことは、二度とあってはなりません。そのためには軍事力ではなく、あらゆる外交力を駆使して紛争を抑止する。そのことを、すべての日本国民がいま一度確認しなければならない、沖縄慰霊の日です。

 

沖縄戦を指揮した牛島司令官の軍服を展示 陸自、旧日本軍との連続性示す 施設を改修中で今後の扱いは「未定」

 

沖縄戦で県民に多大な犠牲を強いた張本人である旧軍の牛島司令官の軍服を陸自が那覇駐屯地で展示していたそうです。自衛隊は旧軍と陸続きの組織なのですか?違うでしょう。県民を苦しめ、アジアの諸国民を殺害してきた旧日本軍の軍人を自衛隊が「先輩」だと思っているなら、大間違い。

 

 

沖縄の陸上自衛隊第15旅団が、沖縄戦を指揮した牛島満・日本軍司令官の軍服を那覇駐屯地内の展示施設に陳列していたことが22日までに分かった。旅団によると施設は今月から一般公開を休止してリニューアル作業をしていて、今後の軍服の取り扱いは未定。沖縄住民に多大な犠牲を強いた責任者をしのぶ遺品の展示は、日本軍と自衛隊の連続性を示している。(編集委員・阿部岳)

 

牛島司令官の軍服は中将の襟章が付いた上下で、ガラスケースに入れられている。妻から寄贈を受けたとの説明文も添えられている。15旅団の公式ホームページ(HP)でも写真を紹介している。

 展示施設は広報資料館「鎮守(ちんじゅ)の館」。沖縄戦の経過をジオラマと映像、ナレーションで伝える「戦史模型」がある。ナレーションで日本軍を「わが軍」と呼ぶほか、スクリーンには「皇国の春」を待ち望む牛島司令官の辞世の句を投影する。施設では15旅団の活動も同時に紹介している。

 15旅団は本紙取材に対し「広報資料館は展示を分かりやすくし、建物の老朽化に対応するため刷新を予定している」と説明。軍服や戦史模型の取り扱いについて「今は決まっていない」と述べた。今月上旬から一般公開を中止していて再開時期は未定だという。

 15旅団はHPにも牛島司令官の辞世の句を掲載しており、皇国史観を受け継ぐものと批判されている。市民団体などが相次いで削除を要請しているが、22日時点でも削除はされていない。

 今年4月には、陸自第32普通科連隊(さいたま市)がX(旧ツイッター)に「大東亜戦争」という用語を使って投稿。侵略戦争の正当化だと批判され、その後削除した。中央の陸上幕僚監部は本紙取材に対し「情報発信の趣旨が正しく伝わるよう、広報実施担当官などに指導している」と説明した。

 

東アジアの平和構築へ草の根から運動ともに

志位議長が原水協・平和委役員と懇談

 
 
 日本共産党の志位和夫議長は21日、東京都内で原水爆禁止日本協議会と日本平和委員会の役員と「東アジアの平和構築への提言―ASEANと協力して」をもとに、東アジアの平和構築にとって不可欠の力となる草の根の市民社会の運動をどう国内外でつくるかなどについて懇談しました。

「提言」作成にあたっての四つのポイント
 志位氏は「提言」を作成するにあたって、心がけたポイントを4点にわたって説明しました。

 第1は、岸田政権が進める軍事同盟強化と大軍拡に対する平和の対案として打ち出したものだと説明しました。

 第2は、「現実的アプローチ」に徹したことです。志位氏は、一政党の立場で提案する場合、説得力ある提案をするには、現にある枠組みや、さまざまな取り決めに依拠して前に進めることが重要だと語りました。

 とりわけASEAN(東南アジア諸国連合)は東アジアサミット(EAS)を主催し、「ASEANインド太平洋構想」(AOIP)を提唱しており、そこに多くの国が参加し、賛同しているとして、現実にある枠組み、構想に依拠して前に進めることを考えたと強調。日中関係、北朝鮮問題などでも、これまでの国際的取り決めを踏まえて、前に進めることを重視したと語り、「理想は高く、アプローチは現実的にまとめた」と紹介しました。

 第3は、「インクルーシブ(包摂性)をあらゆる点でつらぬく」ことに徹したことです。志位氏は、世界に軍事ブロックによる分断や排除を持ち込むのではなく、あらゆる関係国を包摂するという論理を、「提言」のすべてにおいてつらぬいていると語りました。

 そのうえで志位氏は、世界を大きく見たときに、東南アジア、ラテンアメリカ、アフリカという三つの地域において、包摂の原理に立ち、非同盟・中立の流れが発展しており、非核地帯の形成という点でも共通しているとして、「提言」はこうした流れと響きあうものとなっていると考えていると述べました。

 第4に、東アジアに平和を構築するうえで、草の根の運動を各国でつくることを提唱しているということです。志位氏は、「草の根の運動が平和をつくるうえでいかに大きな力をもつかは、被爆者を先頭にした原水爆禁止世界大会の取り組み、核兵器禁止条約が教えてくれた。東アジアの平和にとって、草の根の運動をどう構築するかは一番重要な課題として、一緒に探求し、知恵も力も借り、連携してすすめたい」と語りました。

 原水協の安井正和事務局長は、今年の世界大会でフォーラム「非核平和の東アジアのために―政府代表との対話 日本と東アジアの運動との交流」を計画していると紹介。各国の政府代表や市民運動の代表とともに対話を積み重ねる第一歩にしたいと語りました。

 土田弥生事務局次長は、これまでインドネシアやマレーシア政府などと懇談してきた経験などを紹介し、フォーラムの準備状況を説明しました。

 高草木博代表理事は、「提言」にかかわって「北朝鮮の核・ミサイル開発などに対しても、『外交で解決できる道がある』という話し合いを提起していくことが大切。これは20世紀につくられた大原則だ」と強調し、「提言」の基本点がここに置かれていることへの賛意を語りました。

 平和委員会の内藤功代表理事は、「本当の平和は民衆に支えられてこそ実現できる」という「提言」の主張への賛同を強調しました。

 岸松江代表理事は、「提言」がジェンダー平等を中核にすえていることにかかわって、「家族を守るために戦場に行くのが『男らしさ』など、ジェンダーを総動員して戦争をする」と述べ、ジェンダー平等と平和を一体に追求することの重要性を強調しました。

 志位氏は、原水協や平和委員会と協力して、草の根からのとりくみを前進させる決意を表明。各国の人権問題と平和構築の対話との関係について、民主主義に対する考え方の違い、政治体制、社会体制、経済の発展段階の違いがあるなかで、「多様性の中の統一」の立場でASEANは対話をかさね平和をつくりだしていると指摘。「そうした努力のなかで、人権問題についても一歩一歩解決していくという姿勢が大切ではないか」と語りました。

 最後に志位氏は、「この問題は緊急の課題ではあるが、一朝一夕ではできない。東アジアに平和をつくる外交についての対話、懇談を全国の草の根でさらにすすめたい」と述べました。