きょうの潮流
 

 4月に検定に合格した中学校の歴史教科書が沖縄戦に関して「中学生から高校生の男女」が「志願というかたちで学徒隊に編入」されたと記述しています。地元紙は、日本軍による住民の「根こそぎ動員」の一環であり、「志願」とするのは不適切な記述だと批判しています

 

▼問題の教科書は作家の竹田恒泰氏が代表取締役である令和書籍の『国史教科書』。「国史」という言葉自体が戦前の教科書の表題です。内容も、冒頭から『古事記』の「国生み神話」が登場し、歴代天皇の記述が多数あるなど戦前の国定教科書をほうふつとさせるものです

 

▼日本の侵略戦争について「快進撃」と記し、特攻隊の死を「散華」と表現しています。花が散るように華々しく死ぬという意味です。「慰安婦」に関しては「日本軍が朝鮮の女性を強制連行した事実はなく」などと、強制性がなかったかのように描いています

 

▼文部科学省はこんな教科書を合格させる一方で「従軍慰安婦」「強制連行」という用語は適切でないとした閣議決定を理由に、教科書を書き換えさせています。中学生に何を教えて、何を教えたくないのか。意図がありありです

 

▼今年は中学校で使う教科書が新たに決められる年です。検定では令和書籍以外にも育鵬社など侵略戦争を美化する教科書が合格しています

 

▼戦争を美化する教科書を中学生に渡すわけにはいきません。どのような教科書を使うか、現場教員の意見を尊重し、保護者・住民の声も反映させることが大切になっています。

 

 

『鉄の暴風』は今月、文庫本として出版されました。その「まえがき」は「七十九年前の地上戦で焦土と化した沖縄で今、再び戦争の準備が進んでいる。辺野古に(米軍)新基地の建設が進み、琉球弧の島々に自衛隊の拠点が新設され、強化され、攻撃を受けることを想定した避難訓練や疎開の計画まで持ち上がり、まるで戦前の新聞を読んでいるよう」だとし、「沖縄を二度と戦場にしない、という思い」を出版に込めたと述べています。

 沖縄戦の悲劇を再び起こさせないとの決意を新たに、岸田政権の「戦争国家づくり」を阻止するたたかいを大きくしていく時です。

 

 

名護博物館で「やんばるの沖縄戦」 慰霊の日に合わせて

 

 企画展「名護・やんばるの沖縄戦~ものからたどる沖縄戦『あのとき、私たちのまちは戦場だった』~」が6月17日、名護博物館(名護市大中4、TEL 0980‐54‐8875)で始まった。(やんばる経済新聞)

 

 6月23日の「慰霊の日」に合わせて開く同展。沖縄本島北部地域での沖縄戦をまとめた市史「名護・やんばるの沖縄戦」を基にし、「物から戦争を振り返る」をテーマにする。

 当時使われていたかばんや水筒などのほか、出征する兵士に贈られたという「千人針」のチョッキや家族へ宛てた手紙、戦死した住民を埋葬した時に建てられたという墓碑の現物など44点を展示。15歳以下の地域の少年が兵士として収拾された「少年護郷隊」の実状などを伝える音声付きの映像も流す。

 そのほか、名護市内を当時の学区に分けて、現在も見学できる戦跡の場所を紹介するほか、戦災を免れた建物の写真を現代の写真と並べて展示し、見比べることができるようにする。

 名護博物館学芸員の宮里ひな子さんは「伝えたいことがたくさんある中で、北部での戦時中の特徴やどうしても伝えたいことを選び抜いた。名護市は当時、日本兵や米軍の宿舎や沖縄県内各地から集められた住民の収容所を造るための場所となり、大勢の人が集まったことから病気や飢えで亡くなった人も多いという。そういった過去を、戦争を知らない世代にも知ってもらいたい。同展をきっかけに市内の戦跡へ足を運んでもらい平和への思いをはせてもらえたら」と話す。

 開館時間は10時~18時。月曜、第4木曜、祝日休館。入場無料。7月14日まで。

 

 

主張
沖縄戦「慰霊の日」
再び悲劇起こさぬ決意新たに

 

 

 沖縄はあす、「慰霊の日」を迎えます。1945年のアジア太平洋戦争末期の沖縄戦で命を失った20万人余の犠牲者らを追悼する日です。沖縄戦最後の激戦地・本島南部の摩文仁(まぶに)の丘の平和祈念公園(糸満市)では「沖縄全戦没者追悼式」が開かれます。

 岸田文雄政権は今、沖縄を、米国の対中国軍事戦略に基づく戦争の最前線に位置付け、自衛隊の増強を急ピッチで進めています。

 今月には、沖縄の陸上自衛隊部隊(第15旅団)がホームページに、沖縄戦を指揮した日本軍第32軍の牛島満司令官の辞世の句を掲載していることが分かり、「旧軍を美化するもの」と怒りの声が上がっています。

 沖縄戦で何が起きたのか、その教訓を広く共有することが今切実に求められています。

■乳幼児を殺害
 那覇市に司令部を置く第15旅団のホームページに掲載された牛島司令官の辞世の句は「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦(よみがえ)らなむ」というもの。「敗色が濃厚な沖縄の臣民は、天皇の国のために再び立ち上がってほしい」と解釈されています。

 沖縄戦は、「国体護持」を至上命令とし、本土決戦を遅らせる時間稼ぎのための捨て石作戦でした。

 第32軍の司令部が置かれた首里陥落を前に、牛島司令官は、すでに多数の住民が避難している南部に撤退し「持久戦」で戦争を引き延ばすことを決めました。

 そのため、南部一帯は軍民混在の戦場になりました。米軍の砲弾が吹き荒れる「鉄の暴風」の下、日本兵による壕(ごう)からの住民追い出しや食料の強奪、泣きやまない乳幼児や沖縄の方言を使った者の殺害など数々の悲劇が起こりました。

 沖縄戦を描いた「原典」とされる『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社、50年発行)は、南部の部落で「敗残兵が、子供を泣かすな、敵に知られるぞと怒声を発し、日本刀や、銃剣を突き付けて、…池に、『子供を抛(ほう)り込め』と脅され、親達は、仕方なく、子供達を池に抛り込んだ。はい上がろうとする子供は、頭を押さえつけて溺死させた」という証言を載せています。

■「まるで戦前」
 牛島司令官は6月23日(22日の説もあり)、摩文仁の司令部壕で自決し、日本軍の組織的戦闘は終結しました。しかし、自決に先立ち、「各部隊は各局地における生存者中の上級者之(これ)を指揮し最後迄(まで)敢闘し悠久の大義に生くべし」と徹底抗戦の命令を出したため、その後も戦闘は続き、数多くの戦死者を出しました。

 前出の『鉄の暴風』は今月、文庫本として出版されました。その「まえがき」は「七十九年前の地上戦で焦土と化した沖縄で今、再び戦争の準備が進んでいる。辺野古に(米軍)新基地の建設が進み、琉球弧の島々に自衛隊の拠点が新設され、強化され、攻撃を受けることを想定した避難訓練や疎開の計画まで持ち上がり、まるで戦前の新聞を読んでいるよう」だとし、「沖縄を二度と戦場にしない、という思い」を出版に込めたと述べています。

 沖縄戦の悲劇を再び起こさせないとの決意を新たに、岸田政権の「戦争国家づくり」を阻止するたたかいを大きくしていく時です。