安倍政権で起きた“悪夢”の元凶。立憲民主党を歪めた「野田佳彦率いる保守反動派」と“共存不可能”な議員たちが今すべきこと

 
玄場は「野田さんが立憲をひっぱていくべき」と反省どころか、悪夢から覚醒出来ていない保守姿勢の人間が立憲民主党に根を張っている。小池百合子と合併したくて近寄って行ったが門戸を閉め出されて路頭に放り投げられた人間は立憲民主党は一端役職から去ってもらうべきだ。
 
 
プロフィール:高野孟(たかの・はじめ)
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

立憲民主党内で“内部矛盾”を上手に激化させる方策について
6月6日に立憲民主党内の旧社民党系を中心とする左派グループ「サンクチュアリ」の勉強会で講演した。昨年5月にも同グループに呼ばれて講演しており、その要旨は本誌No.1207(23年5月22日号)に掲載した。似たような趣旨の部分もあるけれども、現時点での私の同党への絶望感と、党内リベラル左派として存在感を持つ同グループへの期待感を表しているので、若干の修正・脚色を加えて掲載する。

私が立憲に萎えてしまう理由
実は1カ月ほど前に、旧総評系労組の平和フォーラムやそれと繋がる市民連合などのコアの方々と、立憲民主党の9月代表選をどうしたらいいか、何らかの提言をし、圧力というわけではないが行動を起こすべきだという話になった。そのためのメモを持ち寄って改めて議論することになり、それからしばらくして私が「さあ、今日一日かけてそのためのメモ作ろうか」と思ったその朝の5月15日付「東京新聞」に出たのが「次期戦闘機条約、衆院通過」という記事だった。

日本とイギリス、イタリアが次期戦闘機を共同開発しそれを第三国に輸出できるようにする条約に、自公と維新だけでなく立憲も賛成して衆院で可決された。戦闘機というのは最強力の大量殺戮兵器の1つであり、それを他国と共に開発すること自体がどうかと思うのに、それを積極的に輸出しようというのは一体どういう魂胆なのか。

この前提として、政府は3月に武器輸出ルールを緩和し、日本から第三国への輸出を解禁することを閣議決定した。この問題を遡ると、何と2011年12月に野田政権が武器の国際共同開発を「包括的に例外化」する方針を打ち出していて、それを受ける形で14年3月に安倍晋三政権が「武器輸出3原則」を撤廃したのだった。

この東京新聞記事では、この他にも、自衛隊の「統合作戦司令部」を創設するための関連法、高市法案と呼ばれ機密保護法をさらに外延化する「重要経済安保情報保護法」などにも、立憲が「相次いで賛成している」と指摘されている。

この記事を読んで、私がこれから9月の立憲代表選に向け何かを提言しようかという気持ちが萎えてしまうのは、仕方のないことだった。
 
立憲を歪めた元凶は野田佳彦である
武器輸出解禁に限らず、第2次安倍政権になって起きている悪いことのほとんどは野田政権時代に始まっている。
 
16年9月に民進党の新代表となった蓮舫が野田を幹事長に指名したことに私は心底驚いて、次のように当時の「日刊ゲンダイ」コラム(同年9月23日付)に書いた。

第1に、安保法制。野田政権の国家戦略会議フロンティア分科会は12年7月、憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使を認めるべきだと提言し、それを「能動的な平和主義」と名付けた。それと連動して自民党もほぼ同時期に「国家安全保障基本法(概要)」を発表して政権交代後に備えた。

第2に、武器輸出。藤村修官房長官は11年12月、佐藤・三木両内閣以来の武器輸出3原則を見直して「包括的な例外協定」案を発表した。それを受けて安倍は14年4月、同3原則を廃止した。

第3に、オスプレイ配備。米国の言いなりで受け入れ、12年10月に沖縄に配備を強行させた。

第4に、尖閣国有化。12年9月、中国への根回しを欠いたまま尖閣諸島の国有化に踏み切り、日中関係が一気暗転、安倍政権の扇情的な「中国脅威論」キャンペーンに絶好の材料を提供した。

第5に、原発再稼働。野田内閣は12年6月、3・11後初めて大飯原発3、4号機の再稼働を決定し、7月から運転させた。また同時に、再稼働の「新安全基準」を定め、それを担う「原子力規制委員会」を設置する法案を成立させた。同委員会は12年9月に発足し、せっせと再稼働推進に取り組み始めた。それを受けて安倍は、全面的な原発復活・輸出路線に突き進んだ。

第6に、TPP。最初に「参加を検討する」と言ったのは菅直人首相だが、野田は11年11月「参加のため関係国と協議に入る」と表明、12年に入り各国に政府代表団を派遣し始めた。それを引き継いで安倍は13年3月、TPPに正式に参加表明、甘利明特命大臣を任命しして交渉をまとめさせた。

第7に、消費増税。野田内閣は12年2月に「社会保障・税一体改革」大綱を閣議決定し、8月に「14年に8%、15年に10%」とする消費税法改正案を成立させた。これをめぐる安倍との駆け引きの中で、やれば負けると分かっている解散・総選挙を打って、同志173人を落選させ、安倍に政権をプレゼントした。

その野田が蓮舫の傀儡師になって、一体どのように自民党と対決して政権を奪い返すというのだろうか。見えているのは「自公民大連立」という悪夢の予兆だけである。――以上が日刊ゲンダイからの引用。
 
枝野=立憲の本筋はどこにあるのか
このような野田に代表される立憲内部の保守反動派と、サンクチュアリはじめリベラル派は、もはや共存不能であり、キッパリと決別しなければならないのではないか。
 
なぜなら、2017年秋、蓮舫の後を継いだ前原誠司代表が突如として小池百合子の希望の党に合流しようという解党路線を提起、あれよあれよという展開の中で、かろうじて枝野幸男が踏み止まって立ち上げたのが「立憲民主党」である。

私は当時、毎日新聞「夕刊ワイド」欄に頼まれて、阿佐ヶ谷駅前と新宿西口での枝野の演説に立ち会ったが、枝野が「私がたった1人で立憲民主党を立ち上げましたぁぁ!」と声を張り上げると、取り囲んだ聴衆から「ありがとぉぉーっ!」という絶叫コールが湧き起こった。見れば、その主力は2015年安保法制反対の国会デモに連日参加したであろうシニア世代。彼らは民進党がなくなったらもう投票する政党がなくなってしまうと絶望しかかっていて、枝野が救いの神に見えたのだ。

その意味で、15年安保法制反対デモと17年立憲立ち上げは直結していて、そこを外したら立憲の存在意義はゼロとは言わないが、どこを根っこに戦って行くのかの原点を失ってしまう。そこに、野田派のほか国民民主や無所属からのバラバラとした合流組との間の大きな矛盾が存在する。
 
毛沢東『矛盾論』を俟つまでもなく、矛盾には敵対的と非敵対的とがある。敵対的とは和解不能ということで、議論するだけ無駄で、組織としては分裂に行きつかざるを得ない。出来るだけそうなることを避け、あくまでも組織の内部で、お互いの主張を尊重しつつ合意可能な部分は認め合い、共存をすることを追求するのが非敵対的矛盾で、これが組織運営の根本である。そうは言っても、何事においても事を荒立てずに穏便に過ごそうとするのは逆に最悪で、むしろ積極的に議論を盛んにして、どこで一致出来てどこでは一致出来ないのかを常に顕在化させていく「熟議」の術に長けることが、その組織を活性化させるコツである。これが、物事を“内部矛盾”として処理するということである。

そういう観点からすると、リベラル派の大きな塊であるデモクラッツの皆さんはおとなしすぎる。事あるごとに日々声を挙げ、記者会見を開き、公然と執行部を批判し、「我々はこう考える」」「我々であればこうする」という高度の知的オルタナティブを提起し続けなければならない。
 
政治とは「矛盾のマネジメント」である
政治とは何かという問いに対する1つの答えは「矛盾のマネジメント」である。
 
毛沢東に即して言えば、1937年に盧溝橋事件から上海事変へという日本軍の対中侵略の本格化という局面変化を受けて、それまで血で血を洗う泥沼の内戦を繰り広げていた国民党政権と共産党反乱軍が急遽和解・停戦して共に日本の侵略に立ち向かうことに合意した「国共合作」がその鮮やかな一例である。

それ以前は、中国国内における国民党=資本家&買弁勢力と共産党=労働者・農民との間の国内階級矛盾が中国情勢の「主要矛盾」であり、その矛盾の性格は致命的に敵対的=非和解的矛盾であったけれども、日本の対中侵略が本格化すると中国と日本の国家・民族間の敵対関係が「主要矛盾」に成り上がり、国民党vs共産党の対立は「副次的矛盾」に格下げになる。その瞬間を捉えて国共合作の政治工作を仕掛け、中国の持つ全ての力を対日戦争に集中させるというのが、巧みな政治戦略だった。

このように、局面変化に応じた「主要矛盾」の変化、すなわちその局面での主要課題の転換を鋭く察知してそれに応じた戦略方針を機敏に打ち出すことこそ、政治家の仕事であるはずだ。

日本での一例を挙げると、古い話で恐縮だが、1994年の村山政権の誕生がある。93年8月に細川政権が成立し「55年体制の崩壊」ということが言われたものの、後継の羽田政権を含め改革派政権は10カ月しか持たず、自民・さきがけ・社会3党の村山政権が誕生した。私はこれに大反対で、何故ならこの時の政局の主要問題は「どうしたら自民党を引き続き野党の立場に押し込めて塩漬けにし、金権・腐敗体質を徹底的に改変出来るか」であり、従って、その時の日本政治の「主要矛盾」は細川政権与党8派と自民党との間の非和解的矛盾にあった。

が、その当時、社会党の長老グループや伊東秀子ら左派の一部の間には「村山さんと河野さん(洋平=自民党総裁)とでハト派政権を作るんだ」といった言説が飛び交った。これはとんでもない妄言で、その当時、そんなことは現今の課題でもなく、従ってまた国民的関心事でもなかった。そのような村山と武村正義=さきがけ党首の迷妄の結果として、村山政権は次の橋本龍太郎政権に道を開き、以後自民党政権が続いていることを思えば、「矛盾のマネジメント」がいかに難しいかが理解できよう。

そういうわけなので、サンクチュアリの皆様には是非、立憲内部で上手に矛盾を成熟・発現させつつ、党内の保守反動派を克服して立憲をまともなリベラル政党に育てて行って頂きたいと思う。
 
 

立憲の腰砕け。野党第一党が聞いて呆れる「岸田軍拡」擦り寄り姿勢の醜態

 
 
存在意義ナシ。岸田の大軍拡と対決できぬ立民党の体たらく
5月11日に立憲民主党内の旧赤松広隆グループ「サンクチュアリ」の勉強会で講演した。時間の関係で省略した部分を含め若干増補しつつ以下に再現する。
 
米誌『タイム』報道でも明らか。日本は世界からどう見られているか
岸田政権は未曾有の大軍拡に向かおうとしている。単に軍事費が今の1.5倍に膨れ上がるという量的な拡大にとどまらず、その予算を用いて「反撃能力」といいながら実は「敵基地先制攻撃能力」を取得し、「専守防衛」原理を葬り去るという質的な転換に進もうとしているという意味で、まさに大軍拡なのである。米誌『タイム』が近々発売の5月22日号のカバー・ストーリーに岸田を取り上げ「日本の選択/首相は数十年来の平和主義を捨て、自国を真の軍事大国にすることを望む」という標題と前書きを付ける予定であることが報じられた。〔後に外務省が抗議し、若干表現が和らげられたものの〕世界から見れば今の日本がそう見えているのは疑いのない客観的な事実であるのに、日本国民だけが何の危機感も持たずにボーっとしているし、国会でも維新を除く全野党が公明党をも引き込んでこれと対決する戦線を張らなければならないという時にその気配さえ見えない。
 
他国へのミサイル攻撃を容認するかの姿勢を示す立憲民主党
とりわけ問題なのは、野党第一党=立憲民主党が、他国領域へのミサイル攻撃を容認するかの姿勢を示していることである。同党の外務・安保戦略PTは22年12月20日に、政府・与党の安保3文書の閣議決定を受けてそれに対する見解「外交安保戦略の方向性」を打ち出した。この日の会合には、いわゆる左派系の議員も多く押しかけて大いに議論を仕掛け文言の修正を図ったと聞いているが、出来上がったものを読むと、びっくり仰天せざるを得ない。
 
まず、自民党が「敵基地攻撃能力」を途中から「反撃能力」と言い換えるようになったのは、敵基地攻撃能力では「先制」攻撃をするかの印象を与えるのを避けるためだったが、野党としてはこのような言葉遊びによる本質隠しを暴き、実際には「敵基地先制攻撃能力」であることを正しく指摘することから議論を始めなければならない。が、同党は「反撃能力」の言葉を当然であるかに認めてしまっている。これが《腰砕けその1》である。

次に、「反撃能力の行使は専守防衛を逸脱する可能性があるので賛同できない」と言っている。これを正しい日本語で書けば「反撃能力の行使はもちろん保有も専守防衛を逸脱するので反対する」となるはずである。「反撃能力の行使は」という言い方は「保有するのは仕方がない」という前提に立ってその「行使」の仕方だけを問題にしているように聞こえる《腰砕けその2》。

さらに、「専守防衛を逸脱する可能性があるので」というのは特に欺瞞に満ちた文章で、これでは「反撃能力の行使に専守防衛を逸脱する可能性がある場合とそうでない場合とがあるので、前者の場合は賛同できないが、後者の場合は賛同する」という意味になる《腰砕けその3》。
 
島嶼防衛のためならば必要のないミサイルの長距離化
文書はまた、「一方で、……我が国島嶼部などへの軍事的侵攻を抑止し、排除するためのミサイルの長射程化などミサイル能力の向上は必要である」と言っている。自民党が「ミサイル能力の長射程化」を目論んでいるのは、次項でも明らかなように、「敵基地」を含む「他国領域」をミサイル攻撃したいがためである。それに対してこの文書は、「島嶼部への侵攻を抑止し排除する」、すなわち専守防衛的な使い方のためであればミサイル能力の長距離化は賛成だと言っている。しかし、島嶼防衛のためであればミサイルの長距離化は特に必要がない。この訳の分からぬ文章は、専守防衛のためと称してミサイル能力の長距離化を図ろうとする自民党の誤魔化しに寄り添っているだけである《腰砕けその4》。

それに続くのは「しかし、他国領域へのミサイル打撃力の保有については、それが政策的な必要性と合理性を満たし、憲法に基づく専守防衛と適合するものでなければならない」というものである。これも以上と同じ虚偽レトリックで、「他国領域へのミサイル打撃力の保有」には、「政策的な必要性と合理性を満たし、憲法に基づく専守防衛と適合するもの」とそうでないものとがあり、前者には反対するが、後者には賛成するという意味である。「専守防衛と適合する他国領域へのミサイル攻撃」などというものがあるとすればどういうものなのか、是非とも教えていただきたいものである《腰砕けその5》。

これはもう、腰痛でも深刻な腰椎多重変性すべり症を患っているような有様である。
 
「武器輸出3原則」見直しの扉をこじ開けた野田政権
外務・安保戦略PTの文書はまた、こう言っている。「真に必要な予算について積み上げた結果、防衛費の一定の増額につながったとしても理解できる」「しかし、GDP比2%や5年で2倍という増額目標については、最初から数字ありきにすぎず合理性に欠ける」「政府が防衛費のベースを大幅に上げるのであれば、恒久財源を充てるのが財政規律上、当然である」と。
 
これ、一体何のことか分かりますか。まず、防衛費の増額は理解する。しかしその増額は、いきなり「2%、2倍」と中身抜きで大枠の数字から決め込むのはダメで、「一定」でなければならない。しからば「一定」とはどのくらいのことなのか。

その次の一文は謎めいていて、「立憲としては『一定』で止めるべきだと思うが、それでも政府が……大幅に上げるのであれば」と、仮定の話のような言い方で、しかしそれに反対するのではなく、仕方なく(?)容認し、ただしその財源は「恒久財源を充てるのが当然」と条件を付けているだけである。

さらに「防衛産業の衰退が顕著なので、国内調達比率の増加、長期安定契約など調達のあり方と適正価格のあり方の検討、研究開発費の支援を行うなどすべきである」とも言っている。自民党は武器禁輸3原則を改めて殺傷兵器の輸出を解禁しようとしているが、防衛産業を救済しようとすれば国内需要だけではどうにもならず、必ずそこへ辿り着く。立憲はそれに反対する姿勢を持っているのかどうか。昔、同盟傘下の金属労組が「武器輸出を解禁して賃上げを」という春闘スローガンを掲げて世間を驚かせたことがあるが、その体質を受け継いでいる連合労組がこう言い出したら立憲は拒めないのではないか。
 
ちなみに、佐藤・三木内閣以来の「武器輸出3原則」見直しの扉をこじ開けたのは、他ならぬ野田政権である。2011年12月に当時の藤村修官房長官が「包括的な例外協定」を結ぶことで武器輸出を事実上解禁する案を発表、それを受けて安倍政権が14年4月、同3原則を廃止しそれに代わる「防衛装備移転3原則」を閣議決定した。
 
自民党の「抑止力」という罠に見事に嵌った立憲民主党
野党第一党がこういう腑抜けのようなことになってしまう原因の第1は、自民党側が仕掛けた「抑止力」という罠に見事に嵌ってしまっているからである。実際、先日、同党の幹部と懇談した際に、私がなぜ同党の防衛政策がどんどん曖昧化しているのかという趣旨のことを問うと、彼は即座に「いや一定の抑止力は必要だから」と答えた。さあ、ここでもまた「一定」だ。一定とはどのくらいなのか?それには答えがなかった。それは当然で、軍事的抑止力には「一定」などあるはずがない。それはお互いに相手を軍備で脅し合い、より深く疑心暗鬼に陥った側が侵略を躊躇うようになるかもしれないと想定する心理ゲームであるから、どこまでやったら相手は必ず折れてくるという基準はない。だから必ず際限のない軍拡競争に陥るのである。
 
一般論としてそうである上に、法理的に言っても「武力による威嚇」は国連憲章でも日本国憲法でも禁じられている違法・違憲行為である。そのどちらでも「武力による威嚇または武力の行使」と言われているように、行使可能な武力でなければ威嚇にならないし、また威嚇するつもりが相手の予想外の反応によって偶発的な戦闘に発展する可能性も大いにあって、両者の間に垣根がないので、両者はワンセットで禁止されているのである。こんなことは国際法と憲法の理解の初歩の初歩だと思われるが、「抑止力」と言われるとそんなことは頭からスッポ抜けて、野党第一党の幹部も「あ、一定程度は必要ですね」と口走ってしまうのである。

しかし抑止力は軍事的ばかりとは限らない。蟻川恒正=日本大学教授は「憲法9条の『陸海空その他の戦力はこれを保持しない』という規範は、日本が武力行使以外の選択肢を考え抜く知性を鍛えてきた。……軍事化への道を封じたからには、政治や外交で局面を打開する方法を決死の覚悟で探し出さなければならない」と指摘している(5月4日付朝日)。

その通りで、リベラルな野党第一党は自民党に対して、抑止力と言えば軍拡による相手へ威嚇という無効で不法な手段しか思い浮かばないことの愚を説くのでなければならない。そしてそれに説得力を持たせるには、まさに政治的・外交的、経済的、文化的等々の軍事的以外のすべての抑止力を総動員して局面の打開を成し遂げるための「知性」と「決死の覚悟」を発揮しなければならない。なのに、自民党から「抑止力は必要だ」と言われて「あ、そうですね、一定程度なら」と言っているようでは、野党第一党として全くの役立たずということになる。
 
以上に関連して、野党第一党の腑抜けの原因の第2は、米日好戦派から繰り出されてくる「中国脅威論」「台湾有事切迫論」の心理操作に対して、この党が戦えないどころか、完全に巻き込まれてしまっていることにあるが、これは話せば長いことになるので、今日は省略し別の機会に譲ることとする。
 
自民党の補完勢力になり下がりながら衰退していく立憲民主党
野党第一党の腑抜けの原因の第3は、この党がなかなか抜け出ることができない「中道」という幻想にある。上に引用した文書を作った責任者である玄葉光一郎=元外相は、「安全保障政策はもう少し中道に寄る必要がある。少数だが国際情勢に関する現状認識が甘すぎる人が党内にいることは事実だ」と語っている(3月23日付朝日)。
 
しかし私に言わせれば、「中道」という言葉自体がすでに死語である。なぜなら、世界が西と東の両陣営に分かれて激しく対立した冷戦時代には、国内政治もまたそれを反映して右と左、保守と革新に分かれてイデオロギー的な対立に終始した。その時代には、左右とも両極端に偏りがちで、現実的な諸問題を解決するための建設的な対話さえろくに成り立たない有様だったので、その両者を批判する「中道」という位置どりがありえ、日本の場合それは例えば旧民社党だった。しかし、左右があればこその中道というのは、自らの確固たる立脚点を持たない浮遊的な中点にすぎず、せいぜいが足して二で割る折衷主義。結局のところは自民党の補完勢力になり下がりながら衰退していくしかなかった。今頃になって「中道」だなどと言っている立憲は、旧民社党化の道筋を辿っているのだと言える。

旧民主党の結党に関わった人間たちの思い
冷戦時代が終わって、1990年代以降は「日本政治でも、右と左でなく、保守とリベラルという対立構図が語られることが多くなった」と宇野重規は『日本の保守とリベラル』(中央公論新社、23年刊)で述べている。

保守もリベラルも、時代によって国・地域によって、さらには論者によっても意味やニュアンスが様々で、簡単に定義するのは難しい。しかも、「保守とリベラルは次元の異なる話で、必ずしも対にならない」と宇野が言うのはその通りで、その証拠に、「小日本主義」を掲げた石橋湛山やその継承者とも言える自民党内の宏池会などは「保守リベラル」と呼ばれたりしてきた。にも関わらず、冷戦が終わり社会主義体制が崩壊、国内でも社会党を中心とする「革新」イメージが後退すると「それに代わる政治的ラベルとして『リベラル』が復権することになった」(宇野)。

1993年の細川護煕政権(日本新党、新生党、さきがけ、公明党、社会党、民社党、社民連)、94年の羽田孜政権(社会党とさきがけが閣外へ)と村山富市政権(自民、社会、さきがけ)、95年の新進党結成と96年の民主党結成などが「革新に代わるリベラル」が台頭する動きとして大雑把にくくられた。とはいえ、新進党は「新保守」を自認し旧保守=自民党との保守2大政党制を目指すかのようなことを言い、「リベラル」という対抗軸を立てるという自覚はなかった。そのことに批判的だった(1)それこそ保守リベラル的なさきがけの中の鳩山由起夫を筆頭とする一団、(2)社民党系の横道孝弘=元北海道知事はじめ山花貞夫=元委員長や赤松広隆=前書記長、団塊世代中心の仙谷由人らニューウェーブの会のメンバー、(3)社民連の江田五月と菅直人、(4)日本新党でありながら新進党に合流しなかった海江田万里――といった人々が、保守に対抗するのはリベラルだという思いから結成したのが96年民主党だった。

この結成過程に理念・政策面から関与した私は、〔保守リベラル+社民リベラル+市民リベラル=民主リベラル→民主党〕という図柄を描いて、「リベラルにも色々あるが、それらが大きく合流して自民党に拮抗しようというのが民主党で、これが出来て一定の力を持ち始めると、『新保守』という曖昧理念しか持たない新進党は必ず分裂して、その中の良質部分はこちらに合流してくるだろう」と見通しを語っていた。
 
見当違いで方向音痴の立憲民主党の末路
それでも、当時は「リベラル」という言葉の意味はよく理解されず、取材に来る記者たちの多くは「革新」の衣替えにすぎないと推測していた。欧州社民の「第3の道」模索などを例に出して、地球的な環境問題とか成熟社会ゆえのジェンダー問題とかを重視するので、旧来の社会主義派だけでなく保守の一部や市民運動とも共通基盤が出来るんだといった説明をしたこともあるが、そういう説明の仕方も我ながらまだるっこしくなって、途中からは、日本語で言うと、要するに、「明治以来の国権vs民権の原理的戦いで、ついに民権が勝利して『百年目の大転換』を成し遂げる」ということだと言うようになった。そして、民主党結成前夜に参加表明した全国会議員・候補者・秘書を都内ホテルに集めて行われた政策議論では、その「大転換」のイメージを図に描いて配布し、討論の素材とした
 
歴史の教科書では、薩長中心の維新が成功して藩閥政府が出来、たちまちのうちに「大日本帝国主義」に突き進んで破滅し、しかし戦後もまた大日本経済主義で成功して……という国権側からの勝利の歴史が描かれているが、実はこの図の裏側には、保守リベラル的な公武合体&開国論や民衆リベラル的な植木枝盛らの自由民権運動、中江兆民の「民約論」と小日本主義、美濃部達吉の「天皇機関説」、北一輝の社会主義、吉野作造の民本主義=社会民主主義、石橋湛山の「小日本主義」、鈴木義男の平和憲法草案など、民権主義の連綿たる歴史があった。戦後の「保守vs革新」図式はその国権vs民権の歴史の或る時期の姿であり、その「革新」が意味を失ったという場合に改めてこの時代における「民権」をどう表現するかということになって「リベラル」という言葉の包摂性が選ばれたということなのだろう。

それで、96年民主党の理念文書には、次のような「国権」と「民権」を対照する文章を盛り込んだ。

        《国権》←→《民権》
     官僚主導による←→市民主体による
      強制と保護の←→自立と共生の
   上からの民主主義と←→下からの民主主義と
  中央集権垂直統合型の←→多極分散水平協働型の
   国家中心システムは←→市民中心社会のシステムを
すでに歴史的役割を終えた←→築き上げなければならない

大日本主義から小日本主義へ、中央集権国家から地域主権社会へ、脱亜入欧から脱米入亜へなどの根本的な転換がここから発するのである。
 
話がだいぶ遠回りしたが、右と左の間には〔善かれ悪しかれ〕中道がありえた。しかし保守とリベラルの間には中道などというものはありえない。リベラルは徹底的に民権主義を追求することを通じて無関心層や無党派層を惹きつけなければならないが、その努力方向を「中道」と呼ぶのは見当違いの方向音痴である。ないものをあると錯覚してそちらに寄っていくと、あるはずの限界を知らず知らずに通り越して自民党に擦り寄って行ってしまうのは当然の成り行きなのである。

今回の立憲の外交安保文書はそのことを示している。