日本の政治が政治が腐っていった経過なのだ!

政治に曖昧さが当り前に成り立っていくとこうなってしまうのだ。

 

 

【私が見た政界の裏金と機密費】後編

 昭和51年に発覚したロッキード事件の後、国会は与野党伯仲時代となる。私は昭和55年7月に、衆院議院運営委員会を担当する総務課長となる。それから平成4年2月に委員部長で退任するまでの10年間、激動する国会運営のドブネズミになったりナマズになったりした。内閣機密費と国会との不浄さを知り尽くした。

 

 与野党はもちろん、内閣、マスコミなどにこき使われるようになる。昭和60年になって、中曽根内閣の時だった。「この野郎」と思い、依頼されたこと全部ではないが「日記」をつけて大要を残し、いつか「恨みと仇」を晴らそうと計画した。それが「平野貞夫・衆議院事務局日記」(全5巻・信山社)だ。

 その中に、議院運営委員会の海外出張で、後藤田正晴内閣官房長官から機密費が出て、それを巡る議員団の秘話がある。内閣機密費と国会の当時の関係がわかりやすい。

 昭和62年の第108回国会で、中曽根内閣が「売上税法案」を強行採決しようとして、それに失敗し、新しく「税制改革協議会」を設けて、本格的な税制改革に着手しようとしていた時だった。野党対策が重要課題であった。

 当時の議運委員長は「越智伊平」という苦労人。土建業者で政治のことは苦手で、すべて私に相談してきた。

 6月11日から24日にかけ、「議運委」のメンバーで西独、オランダ、デンマーク、オーストリア、フランスを訪問した。参加者は田名部匡省、高村正彦(以上自民)、清水勇、阿部未喜男(以上社会)、近江巳記夫(公明)、中野寛成(民社)の理事と、谷垣禎一、自見庄三郎(以上、委員で自民)の9人の団員だった。共産党は参加しなかった。

 越智委員長が野党対策にこだわり、議員の夫人を同伴させることになる。そこで野党議員夫人の費用を後藤田官房長官にねだり、通常の機密費に上乗せすることになる。この扱いについて私の日記には次のように記してある。

(六月九日)近江氏より電話あり「夫人同伴でマスコミからの追及で費用のことが心配」と。越智委員長に伝える 「各議員から百五十万円を君に預けたと『預り書』を渡せ」との指示。

 要するに、夫人の旅費は機密費ではなく、野党議員が負担したという建前にするために、野党議員から150万円を「預かった」という書類を捏造するということだ。

(六月十日)中野、阿部、清水と野党の三人に説明。それぞれに「預り書」をおく。みんな「委員長の配慮に感謝」とのこと。

(六月十一日)新東京国際空港を出発。同十二日、西ドイツのボン着。

(六月十二日)午後四時半、越智委員長にホテルの部屋に呼ばれ、「後藤田官房長官に、出発の時に気をつかってもらったので礼の手紙をだしたい。書いてくれ」とのこと。越智委員長の名で万年筆で書いたところ、「各議員に署名させて一緒の名の礼状にしてくれ」とのこと。

「それはまずい。官房長官から気をつかったことは、派遣議員は表向きは知らないことですよ。それにこの文章で署名をさせるのは気の毒ですよ」というと、越智委員長は「僕が誤解されないためだ。文章はこれでよいので、署名をしてもらってくれ」と命ぜられる。各議員とも何事もなく署名、「いろいろご配慮をいただき、無事各国の議会制度、政治、経済について調査しています」との内容。

 自民党議員も、野党議員も機密費の授受について疑問をもっていなかった。これが自社55年体制の日本の国会の実態であった。(おわり)

(平野貞夫/元参院議員)

 

衆院議長の私邸にまで届いた“札束の山”…そこから与野党への分配が慣行に【平野貞雄が見た政界の裏金と機密費】

 

 

【私が見た政界の裏金と機密費】前編

 衆院事務局33年、参院議員12年と、半世紀近く政治のど真ん中にいた。宮沢喜一首相から「永田町のナマズ」と、皮肉なニックネームをつけられたこともある。不名誉の言い訳に私が衆院事務局時代、内閣機密費に「仕事」として関わったことを話しておく。
 

 多くの人たちは、昔から内閣機密費が大量に政党や政治家に流れて、政治を動かしてきたと思っている。内閣機密費がそうなったのは、昭和41年ごろからだった。理由は米・ソ冷戦下で、本来の機密費の役割である安全保障のための対外情報の収集や対応は、米国がやっていたからだ。

 佐藤栄作内閣が「戦後政治の終局」ということで、韓国との国交回復対策に韓国の政界・財界・マスコミに巨額の費用を使った。予算がなく政府が銀行から借金をした。昭和40年だった。借金の返済や対外対策に昭和41年度予算で、内閣と外務機密費を大幅に増大した。それまで自民党政権の国会対策の経費は、政権派閥の裏金が主流だった。

 その時、私は園田直衆院副議長(自民)の秘書で、園田副議長のところに佐藤内閣から届く個人的機密費を管理していた。昭和42年11月に園田氏は厚生大臣に就任して、私は事務局に復帰した。

500万円の内閣機密費を「恒例のものです」

 

 

 そして6年たって前尾繁三郎衆院議長秘書になる。昭和48年5月だった。7月中旬、田中角栄内閣の二階堂進官房長官が、前尾議長私邸に「500万円」の内閣機密費を持参した。「恒例のものです」と置いて帰った。前尾議長は二階堂官房長官が玄関を出るなり、100万円ずつ白い封筒に入れた紙袋を廊下に放り出し、私に「こんなことをするから、日本に民主政治が育たないんだ!」と怒って、私に処分しろと命令する。困った私は、100万円が入った封筒を拾い集め紙袋に入れ、国会に持ち帰り知野虎雄事務総長に相談した。

 知野事務総長は「4、5年前から、そんなことが始まっているようだ。前尾議長ならそう言うだろう。君が与野党の理事に丁重に渡しておくことで処理しては」とアドバイスをしてくれた。私は、野党第2党になって厳しく自社55年体制を批判していた共産党を除き、自・公・民の理事に届けたところ、公明は受け取らなかったので、品物に代えて三越本店から「お中元」を送った。

 残余のカネは議運委員長に渡した。園田副議長時代は個人として処理をされたものが、慣行となっていたことに驚き、内閣と国会の関係がこれでよいのかと心配になった。

 昭和51年12月の任期満了まで、中元と歳暮の時期に8回配分した。2年目から公明党が受け取るようになった。社会党の理事の中には、時期になると「平野君まだか」と声をかける者もいた。この慣行が現在もつづいているか、別の形となっているかは知らない。

 

(平野貞夫/元参院議員)