一足早く多喜二の墓参りに。明日が多喜二が原稿料を母セキさんに送り、セキさんは夫の墓を…。しかし、この墓に多喜二が母よりも早く…小鳥が囀るなか坂道を登っていき。6月2日はセキさんが誇らしげにこの坂道の頂上に「小林家の墓」を多喜二の原稿料で立てた日の墓に辿り着く。明日は何人の方がここに集まるであろうか?周りの墓と比べても歴史と重々しさを感じる立派な墓である。暫く佇んでわき上がってきた思いは、彼の生き様は今を生きる私達に何を訴えてくるだろうか?優しく芯のしっかりとして多喜二の生の声を聞きたくてならない。

 

 

行きはバスで、帰りは徒歩で、小樽の散策は気持ちが良い。昔私が住んでいた頃の社宅を思い出すような家並みが残っていたり、花々がソッと咲いている光景は気持ちまで穏やかにさせてくれる。そして年配の方が背を丸めながら坂道をゆっくりと登っていく…。

 

会場に20分前に到着、続々と集まって来る市民。

 

小樽多喜二祭市民による創作劇
母セキさんの熱演に並みだボロボロ。小樽多喜二祭はこの市民劇が特徴。演劇好きが集まって毎年堂々として演劇を披露する。今回は朗読と母セキの多喜二を胸に抱いたまま生き切った人生を描いた。
インターナショナルの歌声と共に登場。
1933年2月20日、小林多喜二は東京築地警察署での特高の拷問により斃れ、署の裏にある前田病院に運ばれ直後午後7時45分絶命した。
その時、同じく日本プロレタリア作家同盟(ナルブ)の同志として活動していた詩人壺井繁治は、豊多摩刑務所に収監されていた。
彼が多喜二の死を知ったのは22日、面会に来た妻の壺井栄が看守の目を盗んで見せたメモ紙「コバヤシコロサレタ」からであった。
壺井繁治のこみ上げる怒りと同志小林多喜二を失った悲しみを、追悼詩「2月20日」と戦後1946年多喜二の母セキに捧げられた「2月20日ー小林多喜二のお母さんへ」の2つの詩と、三浦綾子の不朽の名作「母」より、反戦平和、国民主権を掲げて闘った戦前の闘いで命を奪われた小林多喜二と息子多喜二を軍国主義国家権力の弾圧でコロサレタ母セキの怒りと苦しみを、歌と語りと朗読で構成したもの。
きっちりと仕上げてきた小樽市民に感謝。母セキは「あんちゃんが心臓病で死ぬわけがない」と絶叫し「さあ~立て」と呻く場面は圧巻であった。子を産み育てる母にこの様な辛苦を与える日本を復活させてはいけない。会場に集まった市民は静まり返った中で構成劇にのみ込まれていった。今日は存分に多喜二を感じ、小樽の誇の人「多喜二」を再確認したであろう。
感謝感謝の日であった。

 

ああ、またこの二月の月が来た。
 本当にこの二月という月が
 いやな月、声をいっぱいに
 泣きたい どこへ行っても泣かれない
 ああ でもラジオで
 少し助かる
 ああ涙が出る
 めがねがくもる

 

 

出演者との交流会。私は初めて一人一人と飲み交わすのは初めて。小樽の人々は底抜けに明るい。そして多少の事では動じない。多喜二が根っから好きな人、演劇が好きでたまらない人。心が和む交流会であった。食べきれないほどの料理。気を利かしてくれた方が折りに綺麗に入れて手渡してくださった。優しい人々である。