『フィンランド人はなぜ午後4時に仕事が終わるのか』などの著書がある堀内都喜子は「大学院まで無料が当たり前で、生活費補助もあるため、この国では子どもの教育費のために親が貯金するという発想がない」と話す。

 学生ローンは存在するが、交換留学や旅行で海外に行くためなどに借りることが多いという。一定期間内に卒業できれば、返済の一部は政府が肩代わりする。

 大学教育が無料なのはフィンランドだけではない。経済協力開発機構(OECD)によると、スウェーデンやノルウェーなど他の北欧諸国も軒並み無料だ。ドイツやフランスも、国公立大の1年間の学費は平均で数百ユーロと、日本の感覚では無料に近い。

 

 

 「終わりのない成長を目指し続ける資本主義体制はもう限界ではないか」

 そんな思いを世界中の人々が抱えるなか、現実問題として地球温暖化が「資本主義など唯一永続可能な経済体制足りえない」ことを残酷なまでに示している。しかしその一方で、現状を追認するでも諦観を示すでもなく、夢物語でない現実に即したビジョンを示せる論者はいまだに現れない。

 

 本連載では「新自由主義の権化」に経済学を学び、20年以上経済のリアルを追いかけてきた記者が、海外の著名なパイオニアたちと共に資本主義の「教義」を問い直した『世界の賢人と語る「資本主義の先」』(井手壮平著)より抜粋して、「現実的な方策」をお届けする。

 

 『小泉純一郎の「民間でできることは民間に」は正しかったのか…「利用者を無視する」日本の民間企業のヒドすぎる実態』より続く

最も成功した社会主義国?

 日本社会を表す言葉として人口に膾炙したものの一つに、「最も成功した社会主義国」というものがある。

 これだけ格差拡大が意識され、子どもの貧困も深刻な問題となった今となっては、日本を社会主義的だと考える人は減っており、もはや死語と言って差し支えないかもしれない。

 それでもたまに、子どもの運動会の徒競走に順位を付けないような平等主義や、政府による民間の経済活動への過度な干渉(レバ刺しの提供を法律で禁止し、客の求めに応じて提供した焼肉店店主を逮捕する国など、本物の社会主義国でもないかもしれない)を指して、今でも用いられることもある。

日本の財政の在り方

 ただ、国の財政の在り方を見る限り、日本は社会主義的とは程遠い。

 まず、国民全体の所得の中からどれだけが税金と社会保険料で取られているかを示す国民負担率を見てみよう。日本は47・9パーセント(2020年度)で、ネットでは江戸時代の苛烈な年貢の取り立てになぞらえて「五公五民」(5割が税金として取られる)というキーワードが話題となった。

 ただし実はこの水準は、国際比較ではそれほど高くはない。先進7ヵ国(G7)で比較すると、国民負担率が最も高いのはフランス(69・9パーセント)で、イタリア(60・8パーセント)、ドイツ(54・0パーセント)、日本と続く。

 日本より低いのは、イギリス、カナダ(ともに46・0パーセント)、アメリカ(32・3パーセント)で、日本はG7中ちょうど真ん中となる。なお、国民負担率にはGDPに対する税・社会保険料で算出する方法もあるが、これだと日本はアメリカに次ぐ低さとなる(データはいずれも2020年)。

 

社会保障は中程度だが
 中程度の負担に対して、給付の水準はどの程度なのだろうか。年金や医療、生活保護といった社会保障支出の給付総額の対GDP比で見れば、日本はこれもちょうど真ん中に位置する。ただし、中身を詳細に見ると、日本は人口の高齢化から年金や医療が社会保障支出に占める割合が高く、低所得層に対する家賃補助など、諸外国では当たり前となっている住宅関連の支出がほとんどないなど、見劣りする項目もある。

 さらに圧倒的に足りないのが、教育関連の支出だ。初等教育から高等教育までの政府支出の対GDP比を比較すると、フランスが4・7パーセントで最大なのに対し、日本は経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均4・3パーセントも下回り、3・0パーセントで圧倒的に最下位である。

 ハーバード大学の1年間の学費が授業料だけで約5万4000ドル、寮費なども合わせると約8万ドル(約1200万円)に上るようなアメリカよりも教育への公費支出が少ないというのは驚きだが、返済不要の奨学金が国際的にもまだまだ少ないことなどが大きな要因として挙げられる。

 また、大学や大学院までの高等教育も無償なのが当たり前となっているヨーロッパ諸国と比べると、ようやく少しずつ返済不要奨学金などを拡充してきているとはいえ、本人負担が原則の日本は相当見劣りするのが現状だ。

 大学が無料というのはどういうことなのか、日本にいてはイメージがつかみにくい。そこで、北欧フィンランドの大学に日本から留学した女性に話を聞いた。

外国人でも無料
 「外国人の私でも、本当にただで大学に行かせてくれるの?」

 フィンランドの首都ヘルシンキ近郊に住む木村愛恵(28)がこの国に来たのは2015年冬だった。

 埼玉県の公立高校を卒業後、短期の就労が可能なワーキング・ホリデー制度を使って英国で働いた。大学進学も考えたが、英国の大学の学費は日本よりはるかに高い。そんなとき、フィンランドなら英語で授業が受けられ、外国人でも学費が無料だと知り、受験を決めた。

 大学とはお金がかかるものだと思っていた木村にとって、学生生活は驚きの連続だった。所得制限はなく、誰でも学費は無料。学生寮の家賃は月290ユーロ(約4万5000円)と安く、学生食堂の食費も約半分を国が補助する。フィンランド人ならさらに学生手当や住居手当で月500ユーロ前後を国から受け取れる。

 3年間でマーケティングなどの学士号を取り、現地でファッション関連の企業に就職した。

 

フィンランドの学費
 フィンランドは2017年以降に入学した欧州連合(EU)域外の学生に対しては、英語で教えるコースでは学費を徴収するようになった。だが、自国語のコースや博士課程は無料のままだ。

 自身も留学し、『フィンランド人はなぜ午後4時に仕事が終わるのか』などの著書がある堀内都喜子は「大学院まで無料が当たり前で、生活費補助もあるため、この国では子どもの教育費のために親が貯金するという発想がない」と話す。

 学生ローンは存在するが、交換留学や旅行で海外に行くためなどに借りることが多いという。一定期間内に卒業できれば、返済の一部は政府が肩代わりする。

 大学教育が無料なのはフィンランドだけではない。経済協力開発機構(OECD)によると、スウェーデンやノルウェーなど他の北欧諸国も軒並み無料だ。ドイツやフランスも、国公立大の1年間の学費は平均で数百ユーロと、日本の感覚では無料に近い。

 

「実は増税が正解...?」 慶応大教授が訴える「増税」がもたらす意外すぎる効果

 
税負担で可能に
もちろん無償化は高い税負担によって支えられている。税と社会保険料が国民所得に占める割合を示す国民負担率(2019年)は、フィンランドの61・5パーセントに対し日本は44・4パーセントで、先進国では低い部類に入る。

日本に限らず増税への拒否感は強い。だが、人が社会の中で生活するのに必要な医療、教育、介護などを「ベーシックサービス」として、消費税を上げることで無償化することを提唱するのが、慶応大教授(財政学)の井手英策だ。
 
消費税1パーセント分の税収は約2兆4000億円。井手は、消費税率を1パーセント上げるだけで大学の授業料はすべて無償化できると訴える。仮に6パーセント引き上げれば、医療や介護だけでなく、義務教育に伴う給食費や修学旅行費といった自己負担まで無料にできると試算する。

その上、低所得の約1200万世帯には月々2万円の住宅手当を支給することも可能だという。年収200万円以下の世帯の場合、消費税率6パーセントの引き上げによる追加支出は年間約10万円で、年24万円の住宅手当だけで負担増加分を上回るとそろばんをはじく。
 
低所得でも安心を
低所得層への支援としては、一定の現金を給付する「ベーシックインカム」がより知られている。だが、現金給付は2020年に政府が行った1人10万円の特別定額給付が約13兆円かかったように膨大な予算が必要になる。

本来の目的以外の使用の恐れもあるのに対し、教育でも介護でも、サービスの現物給付ならばそうした可能性は限りなく低い。井手はこれらに所得制限を設けず、皆が負担し、皆が受益者になる方式にすることが社会の分断を招かず望ましいと主張する。
「資本主義の先の社会を一足飛びに目指すのではなく、次の時代に行くまでの歴史の踊り場を現実的に乗り切る仕組み」としてベーシックサービスを位置付ける。「世帯年収300万円のカップルでも、医療や大学までの教育が無料なら安心して子どもを産める」
 
前出の木村はその後、勤め先の業績悪化により整理解雇に遭ったが、月約1500ユーロの失業手当を国から受け取りながら、新たな職に就くためにプログラミングの専門学校に通うことを決めた。もちろんここでも学費は無料だ。

現在はこの学校で学ぶが、失業と再教育が珍しくないため、10代から40代まで幅広い年齢層の級友に囲まれる。毎年4週間は連続して休暇が取れる労働環境にひかれ、永住も考え始めた。
 
 

「遊ぶだけの大学生にお金を出す必要は無い!」 大学教育無償化に反対する人を一蹴する「衝撃の抜け道」

 
あまりに低い日本の公的補助
大学は無償で行けるようにするべきか。学費がかかることが当たり前の日本からすると意外なことだが、世界的には無償または極めて低額の国も多く、日本の学費は高い部類に属する。
 
日本でこの議論をすると、無償化に反対する人たちからは主に2つの反論が返ってくる。1つは、「大学進学で利益を得るのは何より本人なのに、なぜ国がお金を出す必要があるのか」というもので、もう1つは「なぜ勉強もせずモラトリアムを無為に過ごすだけの学生にまで国がお金を出す必要があるのか」。

その2つとも重なるが、「経済的な事情から大学進学をあきらめて高校(あるいは中学)卒業後に働いている人も納めた税金で学生を支援するのはおかしい」という論点もよく提起される。
 
奨学金を借りられても…
これらはいずれも一見、筋の通った反論である。まず、労働政策研究・研修機構の「ユースフル労働統計(2022)」によると、平均的な高卒正社員男性の生涯賃金の推計は2億5410万円なのに対し、大卒正社員男性の場合はそれが3億2780万円まで跳ね上がる(いずれも退職金と定年後の平均引退年齢までの非正社員としての収入を含む)。生涯で7000万円も収入が変わってくるならば、奨学金を借りて大学に行っても、十分お釣りがくるではないかという理屈はもっともらしい。
 
だが、このロジックの重大な欠陥を2点指摘したい。1点目は、そのような理屈で大学進学への経済的な障壁を維持し続けることは、結局、余裕のある人だけが大学に行けるという状況を温存し続け、格差を再生産することにつながるということだ。

長い目で見れば奨学金を借りてでも大学に進学したほうが本人にとっても得な選択肢だとしても、一日でも早く就職して家計を助けなければならないという状況は十分あり得る。

また、奨学金を借りても十分なお釣りがくるというのは、あくまで統計的に見ればという話であり、実際には中卒や高卒でも事業で成功する人もいれば、大学院博士課程まで修了しても窮乏生活を送る人もいる。さまざまな可能性が考えられる中で、進路選択に直面する本人が、安全策として一日でも早く収入を得ることができ、親の負担もなくせる就職を選んだとしても何ら不思議はない。
 
「経済的に」進学が難しい
実際、東京大学大学院教育学研究科の大学経営・政策センターが2006年11月に行った「高校生の進路に関する調査」によると、その年に高校を卒業し、進学せずに働いている回答者の44・4パーセントが「経済的に進学が難しかった」と回答している。

政府はようやく重い腰をあげ、2020年から日本学生支援機構の給付型奨学金を拡充したが、奨学金があっても多くの場合、それだけで生活費まですべてカバーできるわけではない。給付型支援の対象も本稿執筆時点では住民税非課税世帯とそれに準ずる世帯(年収の目安380万円未満)に限られているが、その枠に入らなくてもさまざまな事情から大学進学の余裕がないと感じる子どもや、行かせる余裕がないと考える親も多いだろう。
 
政府は2023年12月、「異次元の少子化対策」の目玉として、3人以上の子どもを育てる家庭に対して大学を無償化する方針を打ち出した。だが、3人とも扶養下にあることが条件で、たとえば第1子が大学を卒業して働き始めたら下の子も対象外となる。

また、「貧乏人の子沢山」ということわざとは裏腹に、現代では収入が高い層ほど子どもが多い傾向があることも研究で明らかになっている。完全な無償化に向け一歩前進とも言えるが、多子世帯に限定した支援は多くの場合、児童手当の所得制限緩和と同じようにさらなる高所得者優遇になってしまう点でも問題だ。
 
「国家」にとっての教育
もう一点の大きな誤りは、国として考えるべきは個人の利害得失ではなく(個人の幸福はもちろん大事だが)、国家にとっての費用と便益である。

先ほどの生涯賃金の例で話を単純化すると、2022年度の大学進学率は56・6パーセントだが、人口の56パーセントが3億3000万円の生涯賃金を得ることができ、残りは2億5000万円の生涯賃金しか手にできない国と、たとえば9割が3億3000万円を稼げる国なら、どちらがより多くの税収を得られるだろうか。また、どちらが国際競争力という点で優位に立てる可能性が高いだろうか。
 
「勉強せず遊んでいるだけの学生になぜお金を出すのか」という疑問への答えはさらに簡単だ。進級や卒業の要件を厳しくして、遊んでいるだけでは卒業できないようにすればいいだけである。よく言われることだが、これは有償か無償かにかかわらず、多くの国の大学で当然に実践されている。また、有償であってもほとんどの大学に補助金が入っているわが国でも、本来当然実施すべきことでもある。

どんな大学でも、たとえばすべての科目について一律で成績下位20パーセントは単位を与えないといった運用はやろうと思えばすぐにでも可能だ。それに反対する大学関係者は、単なる職務怠慢としか思えない。落第させるにはその根拠となる精緻で客観的な成績評価が必要になり、それよりもほとんどの学生に単位を与えてしまったほうがはるかに楽だからだ。
 
「増税」しか道がないのか
大学進学をあきらめて就職した人が働いて納めた税金を大学生支援に使うのか、という論点は、感情論としては理解できる。ただ、制度変更の前後で損をしたと感じる人たちが一定数生まれることは致し方ない。

こうした不公平はたとえば幼児教育・保育無償化の前に子どもを幼稚園や保育園に通わせた場合や、不妊治療の保険適用前に不妊治療を終えた場合も同じだ。また、一定の時期を過ぎたら使えなくなるそれらの補助と違って、大学に通うことは高校卒業から何年たっていても原理上は可能であり、公平性の観点からも比較的問題は小さい部類に入るだろう。
 
ここでは高等教育の例を取り上げたが、ほかにもここでは触れなかった住宅補助など、他国では当然の権利だと考えられているが、日本では個人がすべて負担するべきだと思われているものもある。

それでは、そのためのお金は誰がどうやって出すのか。オーソドックスな財政論の立場からは、恐らくは消費税が最も適した財源ということになる。法人税や所得税のように景気変動とともに大きく税収が上下することもなく、広く薄く皆が負担するため、重税を逃れてお金持ちが海外に移住したり企業が本社を海外に移転させたりするような事態も起きにくい。なにより、日本の税率10パーセントは20パーセント超えも珍しくない欧州諸国と比べると、まだまだ引き上げの余地があるようにもみえる。

それはそれで一つの考え方ではある。しかし、本当にそれしか道はないのだろうか。
 
 

「ザイム真理教」と呼ばれても…エリート官僚たちが国民の目の敵になってまで「増税」を続ける「隠されたワケ」

 
「ザイム真理教」と呼ばれても
財政の在り方を巡っては、借金(国債発行)を極力抑え、身の丈に合った暮らし(=税収の範囲内での政府支出)を目指すべきなのか、それとも、財政赤字を許容してでも、将来のための投資や景気の下支えに使うべきなのかという論争が長らく日本でも海外でも続いてきた。

財政再建派や緊縮財政派などと呼ばれる前者の主張は大体こうだ。歳出を削減して困る人がいたとしても、借金頼みの財政を続けていれば、いずれ金融市場の信頼を失う。
 
これまで日本国債を買ってくれていた銀行などが、借金を返済する日本政府の意思や能力を疑い始めれば、われ先にと国債を投げ売りし、政府が借金する際の金利が高騰、財政危機になるか、円が売られて通貨危機になるか、あるいはその両方が起きる。株価も下がるし、円の急激な減価を通じて悪性のインフレも起きるだろう。
 
トップエリートが信じる「教義」
そうなったときの国民生活への影響は甚大で、多少の痛みを伴ってでもその前に歳出を削減し、増税などで歳入を増やす努力を進めなければならない。財政危機がいつ来るのかはわからないが、目先の痛みを恐れたり、次の選挙で当選することしか考えていない政治家の圧力に屈したりして放漫財政を続けてはならず、将来世代のために財政健全化を進めることこそが責任ある行動である。

政府内で財政を直接預かる財務省の官僚はほぼ一人残らずこの立場だ。そこにほとんどの主流派経済学者やエコノミストも、そして新聞やテレビの大手メディアもおよそ例外なく同調してきた。
 
正直に言えば、私もその一人だ。長年財務省を取材してきた実感として、日本のトップエリートとされてきた彼らは、鼻持ちならないほどプライドが高いことはあっても、私心を持って仕事をしていると感じたことはほとんどない。

彼らは「ザイム真理教」などと揶揄され、増税を試みて多くの国民の目の敵にされながらも、まさにその国民の生活や未来を守るためと信じ、それこそ殉教者的なひたむきさで職務に向き合っている。

こう書くとあまりに単純だが、彼らほど(少なくとも偏差値的な尺度では)優秀な人たちが真剣に信じている「教義」ならば、恐らく正しいのではないか——これが私の出発点だった。もちろん、日米開戦を決めた戦前の軍部も当時の日本ではトップエリートだったわけだが。
 
 

小泉純一郎の「民間でできることは民間に」は正しかったのか…「利用者を無視する」日本の民間企業のヒドすぎる実態

 
優先されるべきは利用者のはず
 「民間でできることは民間に」――。

 約20年前の小泉政権の時代にさんざん繰り返されたフレーズで、白状すれば当時は筆者も何の違和感も持たずに受け入れていた。だが、当時の郵政民営化を巡る熱狂の中で、いったいどれだけの人が本当にそのロジックを理解した上で賛同していただろうか。

 政府の郵政民営化委員会のウェブサイトには「郵政民営化って何?」というコーナーがあり、そこには民営化について「民間に委ねることが可能なものはできる限り民間に委ねることが、より自由で活力ある経済社会の実現に資するとの考え方で、国または日本郵政公社が提供してきた郵政事業について、民間企業(株式会社)が経営を行うようにした改革のことです」と明記してある。一見もっともらしい説明だが、フランスやイギリスで水道が民営化された結果として料金が高騰し、サービスが劣化したことなどを見ると、「自由で活力ある経済社会」というのが何を指すのか、見え方は変わってくる。
「自由」というのは、市民的自由のことではなく、独占状態にある企業も含めた企業が営利を追求する自由(まさに新「自由」主義的な自由と言ってもいい)のことだろう。「活力ある」というのも、本来公共に属するべきものを市場に引っ張り出し、金儲けの道具に使うというゲームに参加できる人たちの活力であって、普通の人々の暮らしに郵政民営化で活力がもたらされることなど、あるわけがないことは冷静に考えればすぐにわかる。

 同ウェブサイトには、郵政民営化で実現したことの一例として、「4キログラムまで全国一律料金で送付ができ、ポストへの投函や追跡サービスも可能なレターパックのサービスを開始」や、東京駅前のKITTE(JPタワー)などの商業施設の開業などが挙げられているが、これらは民営化などしなくてもできたものばかりである。
 
郵政民営化の弊害は犯罪行為にまで
 その一方で、アメリカの生命保険会社アフラックが日本でがん保険を発売するのに全国2万4000の郵便局ネットワークを利用できるようにしたり、郵便局で投資信託が販売できるようにしたりと、恩恵は特定の業界や企業に偏る。

 急に営利企業の社員として生きていくことを求められた郵便局員らは、過大なノルマを押しつけられ、リスクを理解していない高齢の顧客に対する金融商品の無理な販売や、手数料目当ての保険契約と解約の繰り返しといったさまざまな犯罪的行為に走るケースが続出した。末端の郵便局員だけではない。経営陣もまた、民間企業として利益を上げるプレッシャーにさらされ、オーストラリアの物流企業トール・ホールディングスに出資して6000億円以上の巨額損失を出すなど、「武士の商法」はわかりやすく失敗し、本来国民の財産であった郵政事業の価値を毀損した。要は外資や国内の金融業界の食い物にされたのである。

 もちろん、公営事業にありがちな官僚的前例主義や無責任体質、政治介入などは論外だ。アニマル・スピリッツと呼ばれる利益への飽くなき欲求がイノベーションの重要な原動力となっていることも間違いないだろう。だが、民間に委ねたほうがいい業種と、民間に委ねるべきではない業種については、きちんと整理し直したほうがいい。

 それほど難しいことではない。筆者の考える重要な基準は

 (1)ほぼ例外なく皆が利用するものかどうか

 (2)それが独占的に供給されるものかどうか

 ――の2つだけである。

 水道がよい例だが、この両方を満たす場合は、それを民間企業が提供するという発想のほうがどうかしている。

 鉄道も、競合路線があるような大都市圏の一部を例外として、限りなく両方の基準を満たしている。少なくともヨーロッパ各国では、ドイツもフランスもイタリアもスペインも、そのような認識に立って鉄道は国営である。しかも、鉄道の例で言えば、日本の鉄道の定時運行は世界に冠たるものだが、需要に応じて値段を上下させるダイナミック・プライシングやネットでの切符購入など、ヨーロッパの国鉄のほうが明らかに先を行っているものもあり、民営のほうがサービスで優れているとは必ずしも言えない。

 水道や鉄道に限らず、これまで世界中でさまざまな経営方式が試みられ、失敗例も成功例も蓄積されてきている。日本でも、過去の決定にとらわれることなく、何が利用者のために最善なのかという観点から不断の見直しをするべきだ。