安倍元首相が国士と賞賛した葛西敬之が死の床についた。政界と密接に関わり、国鉄の民営化や晩年ではリニア事業の推進に心血を注ぎ、日本のインフラに貢献してきた。また、安倍を初めとする政治家たちと親交を深め、10年以上も中心となって日本を「事実上」動かしてきた。

本連載では、類まれなる愛国者であった葛西敬之の生涯を振り返り、日本を裏で操ってきたフィクサーの知られざる素顔を『国商』(森功著)から一部抜粋して紹介する。

法で定められた借入金
国鉄の借入金については、日本国有鉄道法第42条の2に定められてきた。基本的には長期財源に充当することを目的として運輸大臣の認可を受け、国鉄が鉄道債券を発行して資金調達する。

一定の時期までは国会予算の枠内でその債券の発行限度額等を決議してきた。そこから資金調達の特例ができた。東海道新幹線の建設資金のため、国際復興開発銀行(世界銀行)からも融資を受けられるようになる。

復興開発銀行は第二次大戦後の復興のため、ワシントンD.C.に本部を置かれた国際金融機関であり、通常の銀行借り入れより金利が低い。そこまではまだしも、よかった。

 

赤字を増幅させた東海道新幹線建設費
しかし新幹線の建設費がかさみ、その後も国鉄は資金が逼迫した。そこで、大蔵省理財局の管理する財政投融資制度を使った政府保証鉄道債券を発行し、借り入れをしたのである。すると瞬く間に負債が積み上がっていった。すでに卒寿を迎えている須田は、すこぶる記憶力がよく、そのあたりの台所事情をよく覚えている。こう悔やんだ。
「実は初めの頃に財投の枠内で調達してきた政府保証鉄道債券は条件がよかったのです。ですから、その枠を増やすべく、われわれは毎晩のように理財局へ通いました。しかしそれだけでは資金が足りない。ですから、政府の認可をもらって私募債を発行しました。これは縁故債といい、市中の銀行などに引き受けてもらいました」

市中銀行の借入金利に比例し、むろん財投金利も上がっていく。7年以上の長期金利で見ると、1961年4月の6.5%が74年2月には7.5%、10月になると8%になった。この金利が国鉄の経営を袋小路に追い込んだ。須田が続ける。

 

「年利にして7%以上。いちばん低い当時の応募者利回りでの公募債が7.053%で、他はたいてい7%の後半、8%近くになりました。そんな金を借りたもんだから、いっぺんに金利負担が増えたのです。最初はわずかな赤字でしたけど、政府からの出資がないので、借入金利がかさんで赤字が雪だるま状に増えていきました。

かといって、赤字を補填するために運賃値上げをしようとしても、政府や国会が物価対策とかなんとか言ってなかなかそれを認めない。そうしてだんだん国鉄は経営の自由度を失っていきました」

出口の見えない赤字問題
葛西が新人研修を終え、若くして本社に勤務し始めたのはそんな時期だった。自著『未完の「国鉄改革」』によれば、この頃、本社の経理局資金課にも配属されたとある。

もっとも当人は、そのあと政府の行政官留学試験に合格し、いったん国鉄の勤務から離れる。1967年に米ウィスコンシン大学マディソン校大学院に官費留学した。米国の経営を学んで経済学修士号を取得し、69年に大学院を卒業して本社に戻った。このとき国鉄はすでに赤字が膨らみ、経営が傾いていた。須田が言う。

「私と彼が仕事で接点をもったのは、国鉄が(民間の)会社になる直前からです。営業局が旅客局と改称され、私は旅客局の設備課長や営業課長を務めてきました。一方で彼はずっと経理局にいて、主計第一課の補佐や総括の課長補佐として国鉄の予算づくりを担うようになった。主計第一課は大蔵省の窓口でもあり、経理サイドからモノを見る。営業畑のわれわれはお客さん相手ですから、運賃値上げをしたくない」

 

営業関係の部署でいえば、葛西には名古屋管理局の貨物課長の経験があるくらいで、若い頃からもっぱら経理や総務、それに労務の仕事をこなしてきた。須田は営業、葛西は経理・総務と所管部門が異なっていたが、会社の赤字解消という課題は共通している。国鉄の赤字解消は財務と営業という社内における違いだけでなく、政治問題にも直結し、解決策の出口が見えなくなっていく。

 

 

「国鉄」の悲惨すぎる大失敗...春闘を牽引した「労働組合」が圧勝した理由

 
増える借入金
優男に感じた入社当初の第一印象とは打って変わり、再会した葛西はやり手の課長補佐に成長しているように感じた、と須田が述懐した。

「国鉄の赤字は、昭和40(1965)年代の半ばに四桁の1000億円を突破してしまいました。赤字が急増する大きな原因の一つが、昭和47(72)年の運賃値上げ問題です。3月に国会に値上げを申請したところ、たまたま沖縄返還協定が審議される国会と重なってしまいました。

運賃の値上げ法案は衆院を通過したものの、参議院に移った段階で国会はストップ。47年の運賃改正法などの法案審議は時間切れで廃案になってしまいました。国鉄運賃改定があんなに簡単に駄目になるのは大ショックで、翌48年にもう一回値上げ申請を出し直し、ようやく昭和49(74)年に実施された。

しかも経済対策閣僚会議で揉め、値上げの実施日がさらに半年もずれ、この年の10月まで延ばされた。延びた2年半、数千億という運賃の増収分が消えてしまい、この分だけ借入金が増えたわけです」
 
「マル生闘争」の末の経営危機
1955年から始まった自由民主党と日本社会党の二大政党を中心としたいわゆる55年体制の真っただ中のことである。

国鉄運賃の改定は常に与野党の国会審議で火種となり、簡単に決着できなかった。このときの運賃値上げでいえば、東京~大阪間の1等特急料金が1969年の6130円から1974年には7010円と880円上がった。その値上げでさえ、実に5年ぶりの運賃改定だった。国鉄の赤字は財投を受け皿にした鉄道債券の発行で賄っても足りない。利子だけで年に1000億円以上が吹っ飛び、それを運賃値上げで賄う悪循環が続いた。

おまけに国鉄の経営悪化の要因はそれだけではない。もっと深刻なのが、労使対立による労働組合運動の過熱である。労働組合運動については経営側の落ち度も少なからずあり、事態をややこしくしてきた。

労使関係が極めて悪化した最初は、1960年代後半だろう。はじまりは経営合理化に対する国労や動労(国鉄動力車労働組合)の反発だった。車両技術の進歩に伴い、機関車がそれまでの蒸気から電気やディーゼルへと替わり、機関助士が不要になる。加えて石炭やボイラー用の水を補給する動力基地が廃止され、その人員も余った。
 
このとき国鉄では佐藤栄作内閣で任命された磯崎叡新総裁体制で「生産性向上運動(マル生運動)」と称した経営の合理化に乗り出す。民間企業と同じような職員教育を日本生産性本部に委託し、経営効率化の名の下、強引な人員削減を始めた。

すると、国労と動労が猛反発した。世に「マル生反対闘争」とも伝わる。組合側の情報提供により、マスコミが国鉄の無茶なクビ切りを大々的に報じ、不当労働行為が次々と発覚していった。挙げ句、生産性向上運動は佐藤政権に対する政治問題に発展する。
 
労働組合に完敗
折しも沖縄の本土復帰を控えていた佐藤内閣は窮地に立たされた。そのせいで総裁の磯崎は1971年10月、国会で不当労働行為を陳謝し、生産性向上運動の中止を発表した。まさに国鉄の経営陣が労働組合に完敗した瞬間といえる。

勢いづいた国労や動労はこのマル生問題以降、経営の合理化に対するストライキを連発した。それがますます経営を圧迫した面は否めない。須田が補足説明する。

「労働組合がストライキをやるたび、とくに旅客のみならず貨物の輸送量がどんどん減っていきました。労働組合の争議による減収だけで、数百億円にのぼった年もあります。挙げ句、借入金の利子負担で首が回らなくなり、国鉄は経営破綻の危機に直面していきました。

国会でも『労働問題がひどいこんなところをいつまでも援助できない、ザルに水を入れているようなものだ』との意見が出る始末でした。国鉄は何も手を打っていないのではないか、と幹部が叩かれ、そうして最終的に国鉄再建監理委員会に改革が委ねられるわけです」
 
もっとも再建監理委員会が国鉄改革に乗り出すのは、もう少し先のことだ。