きょうの潮流
 

 上を下への大騒ぎだったにちがいない。江戸市中には「異国船渡来の節は騒ぎたててはならぬ」との町触(まちぶれ)も。黒船来航から1年後、ペリー率いる米艦隊がふたたび姿を現しました

 

▼開国か交戦か。緊迫のなかで結ばれた条約は言葉の壁にもかかわらず交渉のたまものでした。その経過を追った加藤祐三著『幕末外交と開国』には、格別の偏見や劣等感を抱かず、熟慮し行動した幕府側の姿勢が明記されています

 

▼国を開き、歴史を大きく変えることになった日米和親条約が締結されたのは170年前の今頃でした。そのあと両国は戦争の相手となり、日本は一時占領されるなど複雑な道すじをたどってきました

 

▼そして、現在―。「日本は米国と共にある」。岸田首相が米議会で宣言しました。国内では見せられない喜色満面の笑みを浮かべて。「日本の国会では、これほどすてきな拍手を受けることはまずない」。演説のつかみで使った自虐ネタは、この人の厚顔無恥ぶりを表しているかのよう

 

▼米国が果たしている役割はすばらしいと天までもちあげ、私たちは米国のグローバル・パートナーであり続けると誇らしげに訴えかけた首相。日本を米国の戦争に巻き込む危険も顧みずに。いったい、背負っているのはどちらの国なのか

 

▼裏金事件もそっちのけで、この演説に備えスピーチライターを雇い、出発前から練習にいそしんでいたそうです。列強のいいなりにならず、主張すべきは主張した歴史はどこへ。いまこそ国中で大騒ぎするときです。

 

日の丸復活を阻んだのは国だった つきまとう経産省の呪縛

 

 

連載「石に魅せられて」
 技術者は自らつくる半導体を「石」と呼ぶ。半導体の材料となるシリコンが珪石からつくられるためかもしれないが、実際のところはわからない。石に魅せられた日本の技術者たちは、かつて築き上げた半導体王国の絶頂と転落に何を見ていたのか。石にかけた、彼らの生き様を追う。(敬称略)

 

 1959年、5千人以上が犠牲となった伊勢湾台風が名古屋を襲った。

 停電で真っ暗の部屋に、小学校でつくったゲルマニウムラジオのニュース音が響く。母は「よかった、通り過ぎたみたい」と安心した。自分の手作りラジオが役に立ち、上田潤(75)は得意げだった。

 

伊勢湾台風の高潮で浸水した名古屋市港区稲永町(当時)=1959年

 

 東大で物理工学を学び、大型コンピューターの計算スピードに興味を持った上田。卒業後には、コンピューターをつくっていた沖電気工業に入り、半導体を開発した。ラジオだけでなく、色々な製品を動かす司令塔としての半導体の魅力にとりつかれた。

 だが、上田は40代の半ばから約20年もの間、半導体の研究開発の現場から離れる。94年に半導体メーカー10社で立ち上げた「半導体産業研究所」に出向したためだ。

 日本の半導体産業の「復権」を目指す。それが各社が協力して立ち上げた組織の目的だった。

 設立の前年、世界でトップシェアを誇ってきた日本の半導体出荷額は、米国に抜かれていた。上田は復権のための戦略づくりを担う。

 設立のための会合は、幕末の攘夷(じょうい)派の志士たちが会合を重ねた京都の屋敷で開いた。「維新前夜だ」と参加者は高揚していた。

 日本を追い落とした米国は、半導体を戦略物資として官民一体で強化してきた。対抗するには、日本もまずは民間が手を組み、政府とも一体となった産業政策が必要だと上田は考えていた。

驚かされた役人根性
 監督官庁である通商産業省の部屋では、金目の話はしづらい。担当者が寄りやすいように、庁舎から徒歩5分ほどの富国生命ビル23階に事務所を置いた。

 

 担当の役人が代わると、時間に余裕がある人には「半日コース」、忙しい幹部には「2時間コース」を用意し、半導体産業の経緯をレクチャーした。

 

半導体産業研究所の設立記者会見=1994年、上田潤さん提供

 ところが、国の政策に翻弄(ほんろう)され続ける。