壺井繁治

「小林多喜二のお母さんへ」という献詞をもつ『二月二十日』

 

小林さんのお母さん

あなたの息子が殺されてから12年たちました

あなたの息子が警察につかまって

24時間とたたぬうちに殺されたことを知ったとき

僕は牢屋に繋がれていました

あなたの息子がどんな死に方をしたか

あなたの息子がどんな殺され方をしたか

僕はそれを詳しく知りたかったのに

ある日、面会に来た妻が

立会看守の目をぬすんでちらっと見せた紙切れで

「コバヤシコロサレタ」

ただそれだけのことを知ったきりです

お母さん

あなたはどんな思いでその知らせを受取りましたましたか

恐らくあなたは地獄そのものをじかに抱かされた思いをなされたことでしょう

僕でさえその知らせを受けて独房に帰ったとき

自分の胸に大きな穴をあけられたほどの痛手を負いました

その穴を埋めるため

お母さん

僕の全身の血は煮えくりかえりました

 

 

詩人壺井繁治は、この一九二〇年代の嵐のなかをコミュニストとしてくぐりぬけなければならなかった詩人たちの、典型的なひとりである。
 一九二九年、すでにアナーキズムと訣別してコミュニストとなっていた彼は『戦旗』の発行担当者となっている。そのために、検束、拘留をうけることが日常的となり、一九三〇年と三二年、二度にわたって投獄され、一九三四年、保釈の身となり、出獄している。
 詩人が生きたこの時代とかれの体験は、その詩のなかにも反映されている。一九二六年にかかれた『頭の中の兵士』『勲章』などの作品は、こんにちこれを読みかえしてみるとき、あらためて新しい感銘をわたしにあたえる。この風刺的な散文詩は、奇抜なイメージと、なかなか晦渋な比喩によって、当時のファシズムと軍国主義を批判し、これを痛烈に嘲笑している。

  ・・・一隊の騎兵は馬首を揃えて進軍した。・・・何処からともなく美しい一羽の蝶が飛んで来た。士官はそれを見つけるや否や、指揮刀を高く振り上げて、「止れっ!」と号令した。「おい、貴様たち!あの蝶を切り捨てて見ろ!見事に切り捨てた奴には褒美として勲章をやる」
 兵士達は、この号令に従って、われ先きにと剣を引き抜いて、その美しい蝶をめがけて斬り込んで行った・・・」(『勲章』)

 ここにすでに、この詩人の愛する蝶というイメージが現われている。このイメージに詩人が何を託したのかは、はっきりとはわからない。読者はそれをいろいろにおしはかるほかはない。しかし、この晦渋さ、難解さが、この散文詩を二重に生かしているのである。ひとつは、平板な自然主義的な描写の目立っていた当時のレアリズム詩のなかにあって、この散文詩はこのようなイメージと比喩によってひときわきわだっていること。もうひとつは、この晦渋さ、難解さによって、当時の検閲の眼をくらますことができたということである。その頃は、ちょっとした革命的な表現や言葉をふくんだ作品でさえ、しばしば発禁処分のうきめに合ったのであった.

 ″蝶″に託す人間の勝利と希望

 さて、拷問、投獄という地獄の体験は生まやさしいものではなかった。投獄されたことを知った詩人の母は、「心痛のあまり発狂(軽症)」したのでもあった。そして詩人は、

 ふるさとの母は
 愚かだけれど なつかしい

 という詩句ではじまる『ふるさとの母に』と題する、やさしい、うつくしい詩をかく。詩人はたんたんとほとんど客観的に「泥棒や人殺しだけが」牢屋に入れられると考えている母によびかけている。しかしこの詩の背後には詩人のわめきたいような激情がかくされ、抑えつけられているのである。そのことによって、この作品は詩としての力をもつことにもなる。

 おお、なつかしいふるさとの母よ
 私の仲間たちは
 まだ多勢牢屋につながれています
 そしてこれからもつながれるでしよう
 けれどもどうか達者でいて下さい
 どうして私達が
 そんなに牢屋につながれるかが納得出来る日まで・・・


 しかし情勢はますます悪化してゆく。第二次世界大戦が始まる。日中戦争がいよいよ深みにはまってゆく。一九四〇年、詩人は「標本箱に収められながらなお羽根をふるわせる蝶の登場する」詩「蝶」をかく。ここには、幾重にも屈折した詩人の想いが、標本箱の中の蝶というイメージと、胸に抱きしめて「長い冬を凌いできた」蕾というイメージによって描かれている。作者はこの詩を「一種の転向詩」とよんでいるが、この詩のなかの作者はまだ転向しきってはいない。「おお蝶よ/私の胸へ/春の溜息する方へ飛んで来い」とうたうとき、詩人の声は弱よわしいけれども、なお希望をかかげているのである。のちに詩人がみずから表現した言葉にしたがっていえば、この詩はたとえ弱よわしくあろうとなお「人間の希望と勝利へつながるものとしての敗北の歌」ということができよう。
 

 戦後、一九四六年、詩人は「小林多喜二のお母さんへ」という献詞をもつ『二月二十日』をかいている。ここには、多喜二を虐殺したファシズムの残虐さと共産義者たちの人間的な同志愛とが、また戦前と戦後とが、あざやかな対比のうちに描かれており、詩人の抒情がみずみずしく鳴りひびいている。この詩はやはり一九三〇年をつたえる記念碑的な作品である、といっていい。 (詩人)