たとえ“焼け石に水”でも賃金アップはなくてはならない。来年以降も続くのだろうか。

「大企業には余力があり、賃上げ税制も続くので期待する人も多いでしょう。ですがそれらより、今後の消費が大問題です。仮に、物価がもっと高騰して消費が冷え込んでしまうと、企業は儲かりませんから、賃上げはもうしないでしょう。いったん上げた給料は下げられず、賃上げはリスクとなります」(荻原さん)

給料が上がっても、財布のひもをゆるめてはいけない。来るかもしれない大増税に備えが必要だ。

 

 

日本銀行(以下、日銀)は3月19日、2016年2月に導入された「マイナス金利政策」の解除を決めた。あわせて長短金利の操作や、上場投資信託などの買い入れの廃止を決定。短期金利の利上げは2007年以来、17年ぶりのことだ。

 

大転換を後押ししたのは賃金アップだ。日本労働組合連合会(以下、連合)が3月15日に発表した2024年春闘の第1回集計では、平均賃上げ率は5.28%。実に33年ぶりの5%超だ。連合所属の中小企業も4.42%と好調だ。

「大手企業は賃上げを行う余力があっての結果ですが、中小企業は違います。賃上げどころではない企業が多く、賃上げした企業も人手の流出を防ぐため、厳しい財政のなか“苦し紛れ賃上げ”を断行しているのでしょう」

そう指摘するのは、エコノミストの斎藤満さん。大手企業は純利益が過去最高を更新し、内部留保も約570兆円と、資金が潤沢だ。

そのうえ、岸田文雄首相が旗を振る「賃上げ税制」もある。大企業で7%以上の賃上げを行うと、法人税が最大35%差し引かれるという賃上げ支援だ。

「今なら、国の支援を受けて賃上げができる。それに給料アップは、人材集めに強力な宣伝効果を発揮します。大企業にとっては一石二鳥の賃上げです」(斎藤さん)

中小企業にはもっと手厚く、2.5%の賃上げで最大45%の法人税カット、赤字企業には控除額の5年繰り越しも用意されている。

だが、経済ジャーナリストの荻原博子さんは「賃上げなどできない中小零細企業が多い」と指摘する。

「日本では、大企業が下請けから利益を吸い上げるシステムがまかり通っています。下請け企業の原材料費や人件費などコストが上がっても、取引価格を上げてくれる大企業は少ないでしょう。

加えて、コロナ禍で国から借りたゼロゼロ融資の返済や、インボイス制度など、財務状況は厳しさを増しています。さらに、多くの中小企業は元々赤字で法人税を払っていませんから、賃上げ税制のメリットがありません。企業の存続さえ怪しい中小企業が多いのです」(荻原さん)

賃上げ税制を利用できるのは大企業ばかり。岸田首相は中小企業の惨状を知ったうえで、大企業を優遇しているとしか思えない。

 

9割の雇用者は連合に所属していない
とはいえ、連合の集計では、中小企業の賃上げ率も4.42%と高水準にある。ちまたでは「夫の会社は給料アップなんてない」といった嘆く声が多いが……。

「連合は労働組合の全国中央組織です。だから、労働組合のない企業に勤める人は連合とは関係なく、統計に含まれません」(荻原さん)

厚生労働省によると、雇用されて働く人のうち労働組合に所属する人の割合は、35年前から10ポイント以上減少して、2023年は16.3%だ。

また、全労働組合員のうち、連合に所属するのは68.6%。とすると、全雇用者のうち連合に所属するのは、16・3%×68・6%=11・2%にすぎない。もちろん、自営業者やフリーランスも連合とは無縁だ。つまり、連合のデータに労働者の9割は無関係。日本経済の実態を表すものとはいえないのだ。

だが、マイナス金利の解除も連合の賃上げ率を根拠とする。これほど固執するのはなぜだろう。

「たとえば、少子化対策の財源にひとり500円程度の負担が必要だと公表した際も、岸田首相は『賃上げがあるから実質的な負担はない。“子育て増税”ではない』と発言しました。賃上げという土台が必要なのでしょう」(荻原さん)

無理やり感のある賃上げだが、私たちにとっていいことなの?

「中小零細企業のうち、賃上げどころでなかった企業は、人材が離れ人手不足倒産に追い込まれるかもしれません。また、賃上げを断行した企業も、人材費コストを価格に上乗せできなければ、賃上げのツケがまわって倒産ということもありえます」(斎藤さん)

帝国データバンクによると、2023年の倒産件数は8497件と、前年より2000件以上増加。そのうち、人手不足倒産が260件と前年の1.9倍で、過去最多を更新している。’24年はさらなる倒産増加が見込まれるという。
日本総研の試算によると、“金利のある世界”が実現し、金利が2%、賃金コストが3%上昇した場合、中小零細企業の倒産件数は2割増加するという(2024年1月)。

「日本経済を山にたとえると“上はピーカン、下は土砂降り”です。しかも、下=すそ野は広い。一部の大企業は儲かって、中小零細企業は悲惨という二極化が進んでいます」(荻原さん)

賃上げ増税に、さらなる物価上昇の懸念も
不安しかない状況だが、私たちの生活はどうなるのだろう。

「国は賃上げ税制で法人税を優遇しますから、その分、税収が減ると考えられます。ですが、国家予算は年々拡大しているので、なにか別の財源を確保する必要があります。それが個人の所得税や社会保険料の引き上げに向かう可能性があります」(斎藤さん)

たとえ給料が上がっても、税金や社会保険料が増えたら、結局手取りは増えない。しかも、給料が上がっていない人、さらには職を失った人に大増税が降りかかったら、路頭に迷う人が大勢生まれるだろう。

「企業にすると、賃上げは人件費コストの上昇です。コストが増えたら商品価格を上げるでしょう。すると、物価がさらに上昇します。賃上げがあってもそれ以上に物価が上がり、また賃上げ、そして物価高騰と悪循環が起こります」(斎藤さん)

国は「賃金と物価の好循環」を強調するが、実際に起きるのは悪い循環だという。

「実際に受け取った給料から、物価変動の影響を除いた『実質賃金』は前年同期に比べてマイナスが22カ月続いています(2024年3月、厚生労働省)。国は、賃金が上がれば実質賃金がプラスになって家計が落ち着くと期待させていますが、物価の高騰が続くので、実質賃金がプラスにはならないと思います」(荻原さん)

日銀が4000人を対象に生活実感を問うアンケート調査でも、「生活にゆとりがなくなった」という回答が2022年ごろから50%を超え、高止まりの様相だ。スーパーで値上がりしないものはなく「買えるものがない」と肩を落とす人も多い。

「総務省の消費者物価指数(総合)では前年比3.2%の上昇ですが、実際の肌感覚とは大きく離れています」(斎藤さん)

先述の日銀調査で「1年前に比べ現在の物価は何%程度変化したと思うか」と問いがある。消費者が実感する物価高は、直近データでは平均で16.1%の上昇だ(上表参照)。消費者物価指数とは比べものにならないほど高い、これこそが私たちの実感なのだ。

「消費者が実感する物価高は、賃上げ率が5%を超えた程度の給料アップではカバーできません」(斎藤さん)

だが、日銀のマイナス金利解除を受けて、三菱UFJ銀行などが普通預金の金利を引き上げた。これは朗報では?

「三菱UFJ銀行の普通預金金利は0.001%から0.02%になりました。その差は20倍です。ただ、100万円を1年間預けた場合の利息が、これまでの10円(税引き前、以下同)から200円になるということ。ATMの時間外手数料などで消えてしまうわずかな金額です」(荻原さん)

たとえ“焼け石に水”でも賃金アップはなくてはならない。来年以降も続くのだろうか。

「大企業には余力があり、賃上げ税制も続くので期待する人も多いでしょう。ですがそれらより、今後の消費が大問題です。仮に、物価がもっと高騰して消費が冷え込んでしまうと、企業は儲かりませんから、賃上げはもうしないでしょう。いったん上げた給料は下げられず、賃上げはリスクとなります」(荻原さん)

給料が上がっても、財布のひもをゆるめてはいけない。来るかもしれない大増税に備えが必要だ。

 

 

われわれは「金利のある世界」に戻れるのか…?半ば死んでいた日本経済が動き出し、弱肉強食のゲームが始まる

 
 
 日銀が政策転換に踏み切ったことで、30年続いた「金利のない世界」が終わり、金利が存在する「当たり前の世界」がやってくる。だが30年間ゼロに金利に慣れ切った日本経済が、ニューノーマルに適用するのは簡単なことではない。
 
「当たり前の世界」が難しい
 金利というのは身近な存在だが、その本質を理解するのは意外と難しい。金利と物価には密接な関係があり、時間の概念も絡んでくるため、その影響は多岐にわたる。

 一般的に金利といえば、住宅ローンや企業の借り入れなど、お金を借りた時に支払わなければならないコストと理解されている。例えば100万円を金利1%で1年間、借りた際、返済時には元本の100万円に加えて1万円を貸し手に支払う必要がある。借り手から見れば、1万円は100万円を調達するコストであり、貸し手から見れば、1万円は100万円を貸した対価ということになる。

 単純に言ってしまえばそれだけなのだが、利子については少し違った見方もできる。

 借り手は1万円を支払うことで、100万円を1年間自由に使う権利を手にしたともいえる。つまり利子の1万円は1年間の時間を金額に置き換えたものと言い換えることができるのだ。つまり利子を払ってお金を借りる行為というのは、お金を払って時間を買う行為と同義ということになる。これは非常に重要なポイントなので押さえておいてほしい。

 多くの国民にとって、もっとも身近な融資は住宅ローンだが、ほとんどの人は、単純に手元にお金がないのでお金を借りると考えているのではないだろうか。

金利の「時間的概念」をとらえる
 確かにその通りなのだが、上記で説明したように金利には「時間」の概念が含まれている。30年ローンを組んだ際には、返済度合いに応じ、最大30年間、時間(お金を払わなくてよい時間)を金利で買っていることになる。ローンの金利は一般的に長期になるほど高くなるが、それは、長期になればなるほど不確実性が高まってくるため、その分だけコストが上がってくるからである。

 つまり住宅ローンを借りる行為というのは、将来どうなるのかわからないという不確実性と勝負していることになる。この概念を理解した上でローンを組む人と、そうではなく漫然とローンを組む人には大きな違いが生じてくるはずだ。

 金利が持つ時間的概念はそれだけではない。金利と物価には密接な関係があり、金利の動きは、将来的な物価の上昇下落と連動している。

 先ほど金利1%で100万円を借りるパターンを引き合いに出したが、この事例では物価変動が存在しないことが前提になっている。過去20年の日本はまさにその通りであり、物価はほとんど上昇しなかったので、金利について考える際、将来の物価動向について気にする必要がなかった。

 だが金利が存在し、物価も上がるニューノーマルな世界ではそうはいかない。1年後に100万円を返済する時点で物価が5%上がっていたらどうなるだろうか。お金の貸し手は元本の100万円と利子の1万円の合計101万円を受け取ることになるが、物価はすでに5%上がっているので、貸しては差分の4%分だけ実質的に損をしてしまう。

 この状態でお金を貸すバカはいないので、物価の上昇が予想されるときには、貸し手はその分を金利に上乗せすることになる。今回のケースで5%の物価上昇が予想される時には、貸し手は最低でも当初利子の1%に加え、物価上昇分の5%を上乗せするので、最終的な利子は6%以上(100万円の場合には6万円以上)になる。

 この事例が示す意味がお分かりだろうか。
 
企業の資金繰りのあり方も変わる
 金利が存在し、その金利が継続的に上昇するということは、今後、継続的に物価が上がっていくと多くの人が予想していることにほかならない。

 金利がある世界では、時間の価値が飛躍的に高まるため、時間を買いたい人は多くのコストを払う必要が出てくる。経済活動の多くが新しい時間軸で動き始め、高い時間コストを吸収するため、多くのビジネスにおいてスピードを強く要求されるようになるだろう。金利のあるニューノーマルな時代のビジネスの感覚はこれまでとは180度変わると思ってよい。

 一連の話を今回の政策転換にあてはめてみるとどうなるだろうか。今回、日銀はマイナス金利を解除し、秋にはゼロ金利の解除に踏み切る可能性が濃厚だ。市場で本格的に金利が上がり始めるのは秋以降というのが教科書的な理解だが、現実はもっとシビアかもしれない。

 上記で説明したように、金利が存在する世界というのは時間の価値が高い世界である。市場は日銀のゼロ金利解除を待たない可能性もある。実際、今回の決定を受けてメガバンクは早くも預金金利の引き上げを表明しており、金融市場の反応は思いのほか早い。

 これまで多くの企業がゼロ金利でお金を借りることができていた。上記の理屈で考えれば、ゼロ金利ということは無制限の時間的猶予が与えられていたことを意味している。

 だが金利が発生した以上、時間のコストは大幅に増大することになるので、支払いを猶予してもらいたい企業は、相当なコスト負担を強いられることになるだろう。銀行側も従来の態度を一変させる可能性があり、企業の資金繰りの在り方も変わらざるを得ない。

弱肉強食のゲームが始まる
 企業は借り入れを返済して負債をスリム化するか、多額の利子負担を覚悟する必要がある。これらに対応できない企業は、容赦なく市場からの退出を迫られることになる。

 これまで半ば死んだような状態だった日本経済がいよいよ動き出すわけだが、それは壮絶な弱肉強食のゲームが始まりでもある。日本経済、あるいは日本国民にとって、長く長く続いたモラトリアムがとうとう終わりを告げることになる。

加谷 珪一