悩ましい現実。この問題は白人、非白人間の問題は勿論、ちゃんと今仕切りに日本でも「アイヌ人権侵害」「朝鮮人人権侵害」を判例で警告されても尚やめることなく発言をくり返している国会議員がいる。その姿勢をも含めて、卑しい姿勢をきっちりと抗議し続ける必要性を感じる。

 

アジア人が白人社会で、きちんとリスペクトを払われるようにするため、私たち一人ひとりがもっと働きかけていくことが、アジア人と白人、またその他の非白人の人々のためにもなることだと思う。

 

 

2024年3月10日、アメリカで行われた第96回アカデミー賞授賞式。全世界が生中継で注目したその晴れやかな場で、アジア人俳優を差別する振る舞いがあったのではという疑惑がある。アメリカで大学教員をしていた柴田優呼さんは「欧米では、アジア人がそこにいないものとして無視される現象がしばしば起きる。それを『気のせいだ』と問題視しないことは間違っている」という――。

 

前年は『エブエブ』旋風で中国系俳優がダブル受賞したが…
2024年の第96回アカデミー賞授賞式は、昨年と打って変わった展開となった。昨年は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』主演の中国系マレーシア人で、香港映画界でも活躍してきたミシェル・ヨーが主演女優賞を受賞した。共演者であるベトナム華僑でアメリカ人のキー・ホイ・クァンも、助演男優賞を受賞。ヨーの主演賞受賞は、アジア系俳優では初めての快挙。クァンの助演男優賞受賞も、アジア系俳優では38年ぶりのことで、日本でも受賞を喜ぶ声が広がった。

それまで2020年頃から、コロナ禍のアメリカでは、アジア系の人々をターゲットにした暴力事件が多発してきた。「ブラック・ライブズ・マター」運動を全米に広げた黒人に比べ、おとなしいと思われてきたアジア系アメリカ人から強い抗議の声が上がり、それをアメリカのメディアも大きく報道した。アジア系の人々の存在が以前よりアメリカ社会でクローズアップされるようになり、そうした中で起きたオスカーのダブル受賞だった。それまで影の薄かったアジア系の人々も、ようやく日の目を見る時がきたように思われた。

ところが今年のアカデミー賞授賞式は暗転。昨年の高揚感に、冷や水を浴びせるような出来事が起きた。最初は、助演男優賞を受賞したロバート・ダウニー・Jr.が、昨年受賞したキー・ホイ・クァンからトロフィーを受け取る際のことだった。ダウニー・Jr.はクァンを一顧だにしないまま、トロフィーだけ片手で彼から取ると、壇上にいたティム・ロビンスと握手し、サム・ロックウェルとは互いのこぶしを当てて、しっかりあいさつを交わした。その間クァンは全く無視され、受賞者の名前が入った封筒を渡すことすらできない様子がカメラに映し出された。

 

白人の受賞者が前年受賞者のアジア人俳優を無視?
受賞トロフィーは、前年受賞者が渡すのが恒例だ。だが今回は珍しく、過去の受賞者が5人も壇上に並び、その中央にキー・ホイ・クァンが立つ設定となっていた。このため対応の落差が際立つ結果にもなった。プレゼンターが5人になるのは、2009年に行われた形式にならったもの(2010年にも規模を縮小して行われた)。俳優同士のつながりや交流も披露することができる、といった理由で今回、復活していたのは皮肉だ。その時は白人に交じってハル・ベリー氏ら黒人俳優も一部壇上に上っていたが、アジア系俳優の姿はもちろんなかった。

ロバート・ダウニー・Jr. の振る舞いに続いて起きたのが、主演女優賞を受賞したエマ・ストーンを巡る一幕。ストーンに授与するためミシェル・ヨーが手にしていたトロフィーはなぜか、ヨーの隣にいたジェニファー・ローレンスの手元に移り、トロフィーは、ローレンスからストーンに渡された。ローレンスを後ろから止めようとするサリー・フィールドの姿がカメラに映った。

授与後、エマ・ストーンとジェニファー・ローレンスは間髪を入れず、ハグ。続けてストーンはサリー・フィールドともハグしたが、近くにいたミシェル・ヨーは素通り。壇上にいた他の2人に軽く挨拶した後、最後にストーンは申し訳程度に、ヨーにも軽く挨拶した。

クァンと目を合わせなかったロバート・ダウニー・Jr.
キー・ホイ・クァンにしてもミシェル・ヨーにしても、栄えある前年受賞者にふさわしい扱いだったようには見えなかった。この出来事に対し、X(旧ツイッター)などで、大きな批判の声が上がった。海外在住者や渡航経験者の間で、自分も同じような扱いを受けた、という投稿が相次いだ。このアカデミー賞授賞式の様子を見て、やっとあの時の自分の経験が何だったかわかった、という声もあった。キーワードは「透明化」。まるでその場にいない人であるかのように無視されることだ。

 

私自身、約20年海外に住み、教員として大学で教えたりしてきたが、白人がマジョリティーの国々では、数えきれないほどそうした扱いを受けた。食事や買い物など日常の場面だけでなく、大学内部や学会などでもそうだった。あまりによく起きるので気のせいだとは思えず、何か自分に問題があるのだろうかと思ったほどだ。でも香港や台湾、東南アジアで経験したことはない。明らかに私がアジア人女性であることと関係している。

これは人種差別というほど露骨ではないが、日常生活の行動や表現において、ささいな形で起きるマイクロアグレッション(自覚なき差別)の結果だと言えるだろう。今回のアカデミー賞授賞式で私たちが目にしたのも、それが形を取った出来事のように思える。Xでは問題にしすぎだという声も上がったが、こうした出来事を無視するべきでない理由は2つある。

 

アジア人の「透明化」は問題視するべきではないのか
1つは、アジア人である私たち自身のためだ。というのは、こうしたマイクロアグレッションを受けると、知らないうちに心理的に大きな負担がかかる。自身もアジア系アメリカ人男性であるデラルド・ウィン・スーは著書『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(明石書店)で、そう指摘している。

今回多くの人たちがXで声を上げたということは、ささいなことのように見えて、喉に刺さった小骨のように、そうした経験がずっと彼らの心に引っかかっていたことを示している。こうしたことがきっかけで、海外留学や就労、移住、海外とのビジネスや海外旅行を考えていたのに、二の足を踏むようなことになったとしたら、個人的にも大きな損失だ。そんな不利益を、私たちがこうむるゆえんはないからだ。

もう1つは、マジョリティーである白人のためだ。彼らにしても、差別的な振る舞いをしたように見られたくはないはずだ。しかし今回、実際はどうであれ、彼らが多くのアジア人やアジア系の人々に良くない印象を与えてしまったのは確かだ。

多数派である白人は自分たちの差別意識に気づいていない?
マイクロアグレッションの特徴の1つに、加害者が自分の行為に気づかない、ということが挙げられる。ダメージを避けるために、アカデミー賞のように世界の衆目を集める場で、アジア人の同輩に対しどのように振る舞うべきか、彼らは知っておくべきなのだ。もちろん日常生活でも、同じように振る舞うべきだが。

ではこの2つのケースで、彼らはどうすればよかったのだろう。一言で言えば、ロバート・ダウニー・Jr.はキー・ホイ・クァン、エマ・ストーンはミシェル・ヨーの存在をきちんと認めて応えればよかったのだ。英語で言う「acknowledge」をするという行動を取ればよかった。例えば、目を合わせて握手やハグをしたり笑顔で短く言葉を交わしたりするという、ただそれだけのことだ。

ロバート・ダウニー・Jr.はクァンからトロフィーを受け取る時、そうすれば良かったし、エマ・ストーンはミシェル・ヨーではなく、ジェニファー・ローレンスからトロフィーを受け取る形になっても、その場ですぐヨーに対し、皆にわかる形で謝意を示すべきだった。またローレンスもヨーに対し、授与役をさせてもらったことを感謝するしぐさをするべきだった。それが「acknowledge」する行為を通じて、リスペクトを示すということだ。

だが、彼らはそうした行動を取らなかったので、本意ではなかっただろうに、まるで植民地時代や奴隷制の下、非白人を無視して平気な白人植民者であるかのようにも見えてしまった。

 

「エマの親友と一緒にトロフィーを渡したかった」
ここでもう一つ考えたいのは、ミシェル・ヨーの対応だ。ヨーはインスタグラムで「エマ・ストーンの親友であるローレンスと一緒に、トロフィーを渡したいと自分が考えた」と明かした。これをどう考えるべきだろうか。私から見ると、ヨーの意図は成功したとは言えない。上記で述べたように、もしそうであるならヨーの計らいに対して、ストーンとローレンスが謝意を示すジェスチャーを取らないと、この目的は完遂しない。それなしには、2人の態度が失礼に見えてしまうことに変わりはないからだ。

エマ・ストーンがミシェル・ヨーに、トロフィー授与時に即座に謝意を示さなかったのも、ミシェル・ヨーの意図が正確に伝わらず、とまどっていた可能性もある。

ミシェルが一人でトロフィーを渡さなかった理由は?
また、なかなか直視しにくいことだが、マイクロアグレッションの被害を受けた当人が、加害者のために、わざわざ言い訳をしてあげることも、少なからず起きる。

そもそもなぜミシェル・ヨーは、自分一人でトロフィーを渡さなかったのだろう。なぜローレンスと一緒に渡すことを考えたのだろう。ヨーは先述のインスタグラムで、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で共演したジェイミー・リー・カーティスとの友情にも言及しており、アジア人女性と白人女性との間のシスターフッドの存在を強調したかったのかもしれない。だが、そのように受け取っている人はほとんどいないのが現状だ。

私が気がかりなのは、ミシェル・ヨーにどこか気後れはなかったのかということだ。歴史的に白人が牛耳ってきたアカデミー賞授賞式の場で、「この場の主役は白人のあなたたちで、アジア人の私ではない」という意識がどこかになかったのだろうか。

 

ミシェルの振る舞いは後進のアジア人のためにならない
欧米では、アジア人女性は往々にして、自己犠牲を美徳とする、というステレオタイプを押し付けられてきた。オペラ「マダム・バタフライ」のストーリーはその典型だ、とアジア研究の分野では長く批判されてきた。本来そのつもりはなくても、結果として、ミシェル・ヨーはそのステレオタイプを自ら演じてしまわなかっただろうか。

ミシェル・ヨーが主演した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、アジア系移民の世代間格差が大きなテーマで、最終的には、理解できない娘のことを母が受け入れる物語となっていた。でも残念ながら、アカデミー賞授賞式でのヨーの行動は、アジア系の娘たちのロールモデルになるもののようには見えない。

若い世代のために「自己犠牲をするアジア人」から脱するべき
私がアメリカの大学で教えていた時、アジア系アメリカ人やアジア人の女子学生がクラスにたくさんいた。教室では彼女たちは活発で、白人や黒人やヒスパニック系などの学生たちに交じり、それぞれ自分の個性と性格に基づいて、思い思いに行動していた。彼女たちが教室を出て社会に入っていった時、アジア人女性というカテゴリーに押し込められ、自己犠牲の名の下に、自分より白人女性を優先するのが良いことであるかのような経験はしてほしくない。

ミシェル・ヨーは既に、アジア人初のアカデミー主演賞受賞という偉業を成し遂げた。それは、これまで他の誰にもできなかったことだ。多くのプレッシャーの中でそこまで達成した彼女に、全てを求めるのは酷なことでもある。

だから、彼女が到達してくれたところから、今後さらに私たちがバトンを引き継げばいいということだ。アジア人が白人社会で、きちんとリスペクトを払われるようにするため、私たち一人ひとりがもっと働きかけていくことが、アジア人と白人、またその他の非白人の人々のためにもなることだと思う。

柴田 優呼(しばた・ゆうこ)
アカデミック・ジャーナリスト
コーネル大学Ph. D.。90年代前半まで全国紙記者。以後海外に住み、米国、NZ、豪州で大学教員を務め、コロナ前に帰国。日本記者クラブ会員。香港、台湾、シンガポール、フィリピン、英国などにも居住経験あり。『プロデュースされた〈被爆者〉たち』(岩波書店)、『Producing Hiroshima and Nagasaki』(University of Hawaii Press)、『“ヒロシマ・ナガサキ” 被爆神話を解体する』(作品社)など、学術及びジャーナリスティックな分野で、英語と日本語の著作物を出版。

 

 

ハリウッドで「アジア人透明化」はなぜ起きた?差別に声を上げ続ける俳優・松崎悠希さんの思い

 
 
3月10日にハリウッドで開かれた第96回アカデミー賞授賞式の舞台上で、アジア系の俳優が白人の俳優によって無視された、あるいは敬意を欠いたように見える映像が中継され、大きな話題になりました。ハリウッドで俳優として20年以上活動してきた松崎悠希さんは、アメリカ映画界の根深いアジア人差別について改めて指摘し、SNS上などで怒りの声を上げました。今回の一件をどう見たのか、なぜこのような問題が起きたのか、松崎さんに聞きました。(聞き手・渡辺志帆)
 
いつものこと……でも傷をえぐられる思い
――今年のアカデミー賞の「アジア人の透明化」と指摘された授賞シーンを見てどう感じたか、率直なところを教えてください。

最初に見た時には、「ああ、いつものやつか」というぐらいの認識でしたね。ああいう風に、まるでそこに存在しないかのように扱われることは、見覚えがあるというか、よくあることだったので。

特にキー・ホイ・クアンさんは2回、無視されていましたね。オスカー像をロバート・ダウニーJr.さんに渡した時にも無視され、そのあと封筒を渡そうとした時も無視されたので、あれはさすがに傷をえぐられるような感じはありました。

ミシェル・ヨーさんに関しては、最初に公開された映像のアングルは、確かに(隣にいた俳優ジェニファー・ローレンスさんがヨーさんから)オスカー像を奪っているように見えたんですが、後々公開された別アングルやヨーさんの公式インスタグラムを見ると、もしかしたら(ローレンスさんはストーンさんの親友といわれることから)本当にヨーさんが「配慮」して、ローレンスさんと一緒に渡そうとしたことは、可能性としてあり得ると思いました。

しかし、両者がその後、仲の良さそうな写真を公開したりしていましたが、実際に仲が良かったモーメントを自然に撮影したのか、それともハリウッド俳優が雇う「パブリシスト」と呼ばれる対外宣伝部隊が、ネット上の「炎上」を察知して、そういう写真を撮影し公開することで火消しに走った可能性も十分に考えられます。

というのも、ああいう晴れ舞台で、昨年の受賞者であるクアンさんやヨーさんが無視された可能性があること、いないかのように扱われたことを認めること自体、アジア系俳優のコミュニティーにとってすごく屈辱的なことなんです。もしそのことに2人が怒ったら、それはアジア系俳優の地位の低さを、世界の注目が集まる場で認めてしまうことになってしまいます。せっかくアカデミー賞のお祭り騒ぎで盛り上がっているところに水を差すことにもなります。

それに、ダウニーJr.さんとストーンさんも、大賞の受賞で舞い上がってしまったことによる不注意の可能性も大いにあるので、今回のことだけで2人をまるで差別主義者かのように扱うことは、さすがにフェアじゃないと思うんですよ。
 
欠いていたリスペクト
クアンさんの件については、僕はダウニーJr.さんにアジア人に対する明確な差別意識があって、あえて差別的な行動をした、とは全く考えていません。そもそも、あのお祭りの場でそんな差別的な行動をする理由がありませんからね。

僕は今回の一件は、ダウニーJr.さんにクアンさんに対するリスペクトがなかったために起こってしまったと考えています。ではなぜクアンさんにリスペクトがなかったのか。それはクアンさんが、アカデミー賞というコミュニティーの中では、去年カムバックして現れた「ぽっと出のお客さん」だと思われているからだと思います。

ハリウッドという白人社会は、これまで何十年にもわたって、白人が主人公の作品を大量生産し、そうした作品にアカデミー賞などの数々のアワードを与え、白人俳優に権威性やリスペクトを与え続けてきたのです。そして我々アジア系俳優はその恩恵を一切受けることができなかったし、ほんの数年前まで、アジア人俳優に与えられる役なんて、ほんのおまけ程度にしか存在しなかった世界です。そんな世界ではリスペクトを得られるような輝かしいキャリアなんて、なかなか築けませんよね。ジャッキー・チェンさんとか、サンドラ・オーさんなど、ごく少数はいましたが。

――今回、「自分も『透明化』された経験がある」とSNS上で共感の輪が一気に広がったことも特徴的でした。

本当にあるあるすぎて、僕だけじゃなくて、日本からの俳優としては、在日コリアンの朴昭熙(パク・ソヒ、日本名ソウジ・アライでも活動)さんもSNSで「数え切れないほど経験した」と発信していましたね。

ただ、ハリウッドで活動するアジア系の俳優たちは、表だって「差別だ」とはなかなか言いません。「ノイジー(うるさい)マイノリティー」と思われるので。もちろん、アジア系俳優同士では「あれはひどいよね」って言い合いますけど、それを「外」には出しません。

なぜかって、アカデミー賞という映画界最大のお祭りが行われているところに水を差して「あいつ空気読めないな」と思われるのも嫌ですし、今でも映画界の上層部で決定権を持っているのは基本的に白人なので、そういう人たちに敵対心を示すことで煙たがられる可能性があるからです。
 
「言わないと、変わらない」
――構造的にハリウッドで権力を握っているのは白人で、彼らと現場で仕事をする上では言えないわけですね。

その感覚はものすごくあります。ハリウッド作品に「日本からの俳優」がキャスティングされた場合は、もう常にそういう「配慮」ばかりです。でも、これまでのハリウッドの映画界を作ってきたのは白人の映画人たちで、その歴史の中で我々アジア系俳優はキャリアを築いてきたため、ハリウッドが持つアジア人に対する差別意識をアジア系俳優が批判する行為は、これまで自分のキャリアを作ってくれた人たちを批判すること、つまり恩をあだで返すような行為になるわけです。だから本音は「差別的だ」と思っていても、普通はなかなか言えないわけです。だから口に出して言うのが僕ばっかりになるんですよね(笑)。

例えば僕は「ピンクパンサー2」(2009年)の主要キャストの中で、僕だけポスターから除外されたことなどを「アジア人の透明化」の一例として批判してきました。この映画は僕が出演した作品の中では大作にあたる作品ですので、自分のキャリアを築いてくれたその作品を、自分で批判しているわけです。それってなかなか難しいことなんです。

「ラストサムライ」(2003年)もそうです。

「ラストサムライ」は僕が最初に出演した超大作映画ですし、セリフをもらい、(米国撮影のための)ビザも手配してもらった「恩」のある作品なわけですが、それでも僕は「白人の救世主」のフォーマットだと批判しています。

「白人の救世主」とは、白人の主人公が「文化的に劣った別の国」にやってきて、主人公は人間的な問題を抱えていて、最初はその文化になじめなくて、ひどい扱いを受けるけれど、少しずつ心を打ち解けられる存在ができて、その劣っていると思っていた文化の素晴らしさにどんどん感化され、最終的にはマイノリティー社会のために立ち上がり、人間的に成長する、というもの。日本を描く作品はほぼ全てこれなので、「白人の救世主」のストーリーテリングを批判することイコール、日本が関わる作品を批判することに、ほぼなっちゃうんですよ。

試しに、日本が舞台のハリウッド映画やドラマを思い浮かべてみて下さい。ほぼ例外なく「白人の救世主」の物語のはずです。つまり表立って「白人の救世主」のフォーマットを批判すると、日本が関わる作品で働けなくなるリスクが常にある。だから、文句を言うこと自体、怖いわけです。

でも誰かが言わないと、気づかないし、変わらない。

英語のことわざに”The squeaky wheel gets the grease.”というのがあります。キーキー鳴る車輪は油を差してもらえる、という意味です。つまり、鳴らない車輪は油を差してもらえない。文句を言って初めて変わる。アメリカはそういう社会なんです。日本でいうところの「沈黙は金」は全く通用しません。

僕は2022年にツイッター(現X)で、ハリウッドの日本に対する差別的な描き方や、日本を描く際に多様性を一切排除するスタンスを思い切り英語で批判したところ、400万回以上読まれるほど話題になり、同じ内容を英インディペンデント紙にも寄稿しました。

この僕の意見は、ハリウッド中の脚本チームの共同チャットで共有され、広く読まれました。日本が関係する、とある新作ドラマでは、僕の知り合いの脚本家が、このツイートを脚本チームでシェアしたところ、「この指摘されている内容は、もろに自分たちの作品のことじゃないか」と制作陣が焦り出し、作品内での日本の描写が改善されたそうです。

つまり実際にハリウッドで20年活動した日本人俳優が「身内」を批判してまででも声を上げたことで、それまで日本を「多様ではない社会」「一元的な社会」という風に描くことに対して何の疑問も持っていなかったハリウッドのテレビ人・映画人たちが、初めて「自分たちがやってきたことはステレオタイプの増強だったんだ」と気づき、それによってハリウッド作品に登場する日本人のキャラクターが多様化された、ということです。
 
ステレオタイプな日本の描かれ方を変えたい
ハリウッドは元々、日本人というものは「人種」で、当然のように「東アジア人の見た目」だと思っていたので、日本人役のオーディションでは、ミックスルーツの日本人俳優を、ほぼ例外なく排除していました。でも私にその行為を「差別的だ」と指摘されたため、最近では日本人役のキャスト募集案内を見ると「Japanese(日本人)」のあとに「any ethnicity(人種指定なし)」と書いてあるケースが増えてきました。つまり、日本人は人種ではないと、ようやくハリウッドは気付いたんです。

日本を描く際は、日本からの映画人を制作陣に加えないと批判されることも学んだようで、最近は入れるようになってきています。

――真田広之さんは、ハリウッドの制作陣による日本の戦国時代ドラマ「SHOGUN 将軍」の主演とプロデューサーを兼務しています。真田さんとは、日本の描かれ方について語り合ったことはありますか。

真田さんとは「ラストサムライ」で同じシーンで共演しているんですが、直接お話しする機会はほぼありませんでした。

彼は日本を描く際は細部までこだわることで有名ですし、奇妙な日本描写があったら、ちゃんと「直してほしい」と言う人だと聞いています。例えば、日本家屋のセットで、雨が降っている外と、室内とを隔てているものが障子だったりするんです。「雨が降ったら溶けますよ!」と(笑)。そういうことがハリウッドでは平気で行われるので、誰かが突っ込まないといけない。僕や真田さんは、僕たちが世界に向けて発信している「日本像」が、「世界が考える日本像」に影響を与えることを知っているんです。その責任の重大さも。

――最近は動画配信サービスで、ハリウッド発ではない作品もたくさん出てきています。いろいろな国の視聴者が見る前提となると、ハリウッドも配慮せざるを得なくなってくるのではないですか。

その国の市場を意識して配慮することは確かにあります。でも逆に言うと、その国の市場を意識しないという決断をした場合、本当に意識しないんです。

例えばApple TV+制作のドラマ「Pachinko パチンコ」は、韓国市場を狙って日本市場を捨てています。だから日本ではほとんど宣伝もされていないし、キャスティングも日本に向けたものではなくなっている。在日コリアンの物語のはずなのに、在日コリアン役で出ている在日コリアンの俳優がパク・ソヒさんしかいない。逆に、韓国のスターたちをキャスティングしています。
 
日本の描かれ方、50年前で止まっていないか
――ビジネス的な理由で配慮されないとなると悔しいですね。ハリウッドで活動する松崎さんが、その描き方はおかしい、と声を上げ続けてきた情熱の原点は何ですか。

ハリウッドが出す作品は世界中に広まっていきます。先ほど真田さんのお話しでも言ったように、我々日本からの俳優が「日本人」というものを描き、世界に向けて発信すること、日本人を「表象(ひょうしょう、representation)する」ことによって、世界が考える「日本人像」が変わるんですよ。

だから、ただ「出演できました、うれしいです」じゃダメなんです。どんなふうに日本人のキャラクターを演じなければいけないか、どんなふうに世の中に出していかなければいけないかを常に考える必要がある。その責任が我々にはあるんです。

今、僕が特に心配していることがあります。日本からの俳優たち、映画人たちが、「ちゃんとした日本」を世界に伝えたいと思うあまり、制作やキャスティングに関わる際に、「様式美」という日本人が考えるステレオタイプな日本像・日本人像を、「これこそが日本・日本人だ」と押しつけ、世界に出していくことで、一元的で多様性の欠如した日本像を世界に発信していないか、ということです。

――わざわざ日本から来たのだからと、つい、いかにも日本的なところを出してしまいそうですが、そこに問題があるということでしょうか。

最近増えてきたハリウッドと日本との共同制作の作品などを見ていても、その部分が毎回引っ掛かります。 制作には多くの日本人が関わっていますし、映像的にもゴージャスです。じゃあ、そこで我々が描いている日本像は、いわゆる我々日本人が考える「様式美的な日本像」になっていないか。それが社会に与える影響、つまり「これこそが日本人だ」と限定する行為によって、逆に「排除されている日本人」がいないか、という部分です。

そもそも、なぜハリウッドが考える日本像が全然アップデートされずに古臭いままかというと、彼らは黒澤明や小津安二郎、もしくは1960~1980年代のヤクザ映画や怪獣映画が大好きで、それらの作品にリスペクトを払おうとする際に、そこで描かれていた「古い日本」を再現しようとしてしまうからです。その見た目、雰囲気は半世紀ぐらい前の日本なので、それをハリウッド映画やドラマ内で再現することで、日本像が半世紀前に戻ってしまい、現代社会の日本には存在する多様性が消えてしまうんです。本当にそれで良いのか、と思います。

世界的にヒットした「ゴースト・オブ・ツシマ」(2020年)というゲームがあって、今、実写化計画が進行していると報じられています。 もともとのゲーム版で表情のモーションキャプチャーなどで出演していた俳優はアジア系アメリカ人です。彼らがまずオリジナルを演じたわけです。

それが、実写版では、アジア系俳優ではなく、日本から連れてきた「様式的な日本人」のキャストになると言われています。

これでは、せっかくアジア系アメリカ人の俳優たちが紡ぎ出した世界観の「うまみ」だけを、我々日本からの俳優が奪うことになるのではないか、と心配しています。現代の技術をもってすれば、ゲーム版と同じように、アジア系俳優が英語で芝居しても、唇の動きを含め、後で自然に日本語に吹き替えることができるはずなのに、それではダメな特別な理由があるのでしょうか。

――なるほど。とはいえ、もともと中世の日本を舞台にしたゲームなんですよね。

そうです。ただし、フィクションの、時代劇です。ここは、ものすごく気をつけて考えなければいけないところです。

「日本人が考える様式美的な日本」を出すことが、日本人像を「良くすること」になるとは限らない。僕が「オーセンティック(authentic)な日本人俳優」という言葉があまり好きではない理由の一つは、「オーセンティック」は「様式美」、つまりステレオタイプという意味だからです。海外の人が考えるステレオタイプな日本像・日本人像と、日本人が考えるステレオタイプな日本像・日本人像。結局両方ともステレオタイプの押し付けをしていませんか、と思うんです。
 
チャンスを与えられないマイノリティー俳優たち
さきほど、白人中心のハリウッドで、アジア系俳優がキャリア形成させてもらえなかった、という話をしましたが、同じことが日本で、マイノリティーの俳優たち、例えば、ミックスルーツの俳優さんとか、セクシャルマイノリティーの俳優さん、ろう者の俳優さんたちに起こっています。これらの方々が、今の日本の作品で主役級を演じさせてもらえない理由は、これらの方々がキャリア形成させてもらえなかったからです。

これまで役を与えられなかったから、当然主役級を演じる機会もなかった。主役級演じる機会もなかったから、経験や知名度を得る機会もなかった。そして、経験や知名度が無いから、今でも主役を演じさせてもらえない。

だから今は、主役級がマイノリティーの設定の作品でも、当事者ではない俳優が主役級を演ずることになるわけです。よくマイノリティー当事者をキャスティングしなかった「言い訳」として、マイノリティー俳優の経験不足や知名度不足を挙げるんですが、これって卑怯だと思うんですよ。

マイノリティー俳優を排除して、キャリア形成をさせなかったのは自分たち業界側なのに。現在進行形で主役級をマイノリティー当事者の俳優に演じさせる機会を奪いながら、なぜその差別的な構造の上に居直っているのか。もしも「マイノリティーの物語」を描くのであれば、それがマイノリティー当事者の俳優たちのキャリア形成につながるよう最大限の配慮をする「努力義務」があると思います。そうでなければ、それは「マイノリティーの物語」を当事者の俳優たちから奪い、商用利用している行為だと思います。

現在、ハリウッドと日本の共同制作のお金をかけた壮大な作品に、「日本人」に見えないという差別的な理由で、ミックスルーツの俳優たちが、ほぼ完全に排除されていることで、彼らの俳優としてのキャリアがすごく不利になっています。でも「日本人」に見える俳優は、自分たちは今の状態でお仕事がもらえるから、もちろん不満など言いません。本当にそれでいいのか。僕は良くないと思うんです。

例えば、最近作られている時代劇は、視聴者である現代人の価値観の都合で「お歯黒」だってしていない。それならば、作り手が積極的により多様な世界観を描いていくことで、「様式美としての日本像」も多様化することができるのではないでしょうか。

――松崎さんは、その問題意識をもとに探偵ドラマ「モザイク・ストリート」(2022年)を制作しました。その中でトランスジェンダー、レズビアン、ミックスルーツというマイノリティーの俳優がそのままの属性で自然に登場し、役を演じています。

いわゆる「普通の役」をマイノリティーの俳優が演じて、マイノリティーであることがストーリーに一切影響を与えません。

日本の映像業界って、マイノリティーの俳優を雇う時にいろいろと理由をつけたがるんですよ。この役は、例えば、舞台設定が米軍基地に近いからアメリカ人とのハーフのキャラクターが登場するとか、犯罪のトリックでキャラクターの耳が聞こえないことが影響しているから、このキャラクターをろう者にしようとか。そういうふうにストーリーに絡めて理由があるときにだけマイノリティーを使おうとするんです。つまり「マイノリティー性」を都合の良い「ギミック(仕掛け)」として利用しているわけです。

一方マジョリティーの俳優にはその制限がないから、演じられる役どころが大量にあって、よりどりみどりなわけです。そうなると俳優としての経験がどんどん積めて、マイノリティーの俳優と、キャリアにどんどん差がつきます。しょせん「ギミック」扱いのマイノリティーの俳優たちは、構造的に不利な状況に置かれます。

この「マイノリティー俳優を起用する際は特別な理由が必要だ」という思い込みを解消するために作ったのが「モザイク・ストリート」なんです。なぜ主人公の探偵がトランスジェンダー女性じゃいけないんですか?何か問題がありましたか?なかったですよね?ということを見て、体験してもらう。実際に見てらえれば、ストーリーの方に興味がいって、主人公の3人全員がマイノリティーであることなんて忘れてしまう。これを一度体験してもらえれば、キャスティングの際にもうちょっとオープンマインドになれるはずです。

特に日本のテレビの人って「わかりやすさ」を求めます。分かりやすいキャラクターを集めて物語を進める。そこに「余計な要素」を入れたくないと言うんです。マイノリティーであることを「ノイズ」と認識して、ノイズを入れないようにするのがいいキャスティングだと思っているんです。そうやって「分かりやすい人物像」で物語を構成し発信することで、ステレオタイプとかジェンダーロールというものを自身が増長しているという自覚がない。自分が作っているものが社会にどんな影響を与えるかという意識がものすごく低い。

――それを見た視聴者の中で、ステレオタイプや性別役割分担の意識が再生産されてしまっているわけですね。

その通りです。日本人の役についても僕がそこまでこだわるのは、再生産が行われるからです。私たちがステレオタイプな日本人を描くと、それが世界中にバーンとぶちまけられ、世界の映画人の中で「日本人ってこういうものなんだ」というふうに、ステレオタイプの日本人像が増強され、その人たちが作品内で描く「日本人像」も同様にステレオタイプになる、という再生産が発生してしまうんです。
 
日本人より「アジア系アメリカ人」が優先されるハリウッドの序列
――ハリウッドの話に戻ると、今年のアカデミー賞で作品賞候補になった「バービー」には、トランスジェンダー女優のハリ・ネフさんが出演しています。主演女優賞候補で注目されたリリー・グラッドストーンさんは先住民族出身です。近年は製作費の大きな作品でアジア人が主人公の映画も出てきて、多様性の面で改善していると思いたくなりますが、どう見ていますか。

少しずつ良い方向には向かっているとは思います。ただ、まだまだ先は長い。

少し込み入った話になりますが、ハリウッドのアジア系コミュニティーの中には序列があるんです。上から「アジア系アメリカ人」、次に「英語がネイティブのアジア系俳優」、その下に来るのが、私を含む「その他のアジア人俳優」。残念なことですが、同じアジア系の中にも差別が存在します。私も実際に過去にアジア系アメリカ人の俳優からひどく差別された経験があります。

それから、この序列のせいで、アジア系アメリカ人が作品内でどのように描かれているかという表象が、アジア人の表象を「上書き」することが多いんです。

どういうことかというと、アメリカに住んでいるアジア系の人たちは、日々アジアンヘイト(アジア系に対する差別)と戦っているのですが、そのアジアンヘイトが生まれたのは、長年にわたってアメリカのテレビや映画がアジア人をひどく描いてきたことが根底にあるのです。モテないアジア人や滑稽なアジア人といった差別的な表象がそこら中にあふれていて、「アジア人を下に見ても構わない」といった認識が広まってしまった。映像作品での描写が、現実社会の差別に直結したわけです。

これを改善するために、ハリウッドのアジア系アメリカ人たちは、自分たちアジア系アメリカ人の描かれ方(表象)を改善しようと、これまで必死で頑張ってきました。そして実際、アジア系アメリカ人の表象には近年改善が見られます。

ハリウッドにおける「アジア系の表象の改善運動」は主に3パターンあります。

一つ目は、「アジア系アメリカ人」としての表象。これは米国に住むアジア系移民とアジア系アメリカ人の物語を、当事者であるアジア系アメリカ人の俳優や制作者が、リアリティーを持って描写するパターン。アメリカ国民が、その奥深いストーリーを映画やドラマを通して体験することによって共感が生まれ、アジア系アメリカ人がアメリカ社会で「人間扱い」されるようになります。「ミナリ」(2021年)や「フェアウェル」(2019年)、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(2022年)などもそうですね。

二つ目は、最近の映画で良く目にする光景ですが、アジア系アメリカ人のキャラクターが、ただ普通にいるという描かれ方。社会の一員としてアジア系アメリカ人が既に受け入れられていて特に理由なく存在することで、それを見ている人の中でも、アジア系アメリカ人がいる社会が「普通だ」と感じられるようになります。

そして、三つ目が、アジア系アメリカ人ではないアジア人の表象。キャラクターがアジア人だったり、アジア人の物語を描いたりする作品のパターンです。ここで描かれるのは本来「アジア人の物語」なので、アジア系アメリカ人の俳優や制作者は当事者ではありません。しかし、ハリウッド作品で描かれるアジア系のキャラクターは、アメリカ社会におけるアジア系のイメージに影響を与えるので、スタジオから雇われたアジア系アメリカ人の制作者や俳優は、無意識のうちにアジア系アメリカ人の表象でアジア人の表象を上書きしちゃうんです。

つまり、先ほどお伝えした「アメリカにおけるアジア系の中の序列」が発動し、作品で描かれる表象の優先順位がアジア人よりもアジア系アメリカ人の方が上に来てしまい、表象が「奪われる」事態が発生するわけです。

数年前に出た「リコリス・ピザ」という作品は、アジア系アメリカ人のコミュニティーから「アジア人差別だ」と指摘されました。1970年代のアメリカが舞台で実在の人物がモデルなんですが、作品に登場したアジア系のキャラクターが、英語がしゃべれない日本人女性2人だけだったからです。

この日本人役には、LA在住の日本からの俳優が雇われていて、俳優たちは、コメディーだと割り切った上で自分たちの役どころを演じきったのですが、その役どころが両方とも英語がしゃべれない設定で、しかも作品内に登場するアジア系俳優がその2人だけだったため、アジア系アメリカ人の表象として、「それは差別的だ」と問題になったのです。

こうなると、スタジオは、たとえ役が「アジア人」だったとしても、その役がアメリカ社会にどのような影響を与えるか、という意識の方が優先されます。

その結果、たとえ役が「日本人」であっても、「アジア系アメリカ人」、もしくは「英語ネイティブのアジア系俳優」がキャスティングされる事態が起こるわけです。在日コリアンの物語だったはずの「パチンコ PACHINKO」が、在日コリアンの俳優を置き去りにして作られているのも根源は同じだと思います。

――ハリウッドでは、日本のオーディエンスより前にアメリカ国内のアジア人コミュニティーから見たときの描かれ方がフェアかどうかが重視されるわけですね。日本人が「おかしい」と声を上げなければ、こうした序列は変えられないのでしょうか。

結局、市場の話なんですよね。日本市場がどんどん縮小していくと、発言権もどんどん弱くなっていきます。基本的にはアメリカ市場でどういうふうに見られるかが優先されます。
 
世界を変えるには、まず日本から
――私たち日本のオーディエンスにできることはあるでしょうか。

ハリウッドが描く日本人像を多様化するためには、まず日本が世界に向けて出す日本人像を多様化しなければいけないんです。例えば、韓国ドラマ「イカゲーム」ではパキスタン人のキャラクターが登場して、普通に存在している。それが世界中で大ヒットしたから、それを見た人たちが他の韓国作品を見た時に、パキスタン人のキャラクターがいても疑問を抱かない。韓国社会にはいるものだ、と思っているからです。それと同じことを我々もやらなければいけない。

つまり、日本が世界に出していく作品をまず多様化して、今の多様な日本社会を反映したものにする。それが世界でヒットすることによって、それを見た世界のハリウッドの映画人が、「今の日本社会ってこんなに多様なんだ」と感じることができる。それによって無意識下の日本人像がアップデートされて多様になる。そうすると、ハリウッドが出してくる日本人像も多様化される。

もちろん、それとはまた別に「文句を言う」こともとても重要です。ただし、「日本人の描かれ方」に文句を言う際には、あなたが主張している「日本人像」も、様式美としての一元的な、現実には存在しない「単一民族国家の日本」じゃないですかということは、気をつけて頂ければうれしいですね。日本は単一民族国家ではないですし、様々なマイノリティー当事者が暮らす「多様な国家」ですので。

――大ヒットドラマ「梨泰院(イテウォン)クラス」にも主人公が経営する飲食店のスタッフに外国人キャストが自然に入っていましたね。

日本は本当に遅れているんですよ。でも「モザイク・ストリート」で御手洗若葉役で出演しているミックスルーツ俳優のグレイス・エマさんは、「モザイク・ストリート」の前に実写版の「映像研には手を出すな!」(2020年)にも出演しているんです。「映像研~」の原作漫画にはアフリカ系日本人の「さかきソワンデ」というキャラクターがいて、それを実写化する際に、テレビドラマ版の制作の方がイエローウォッシュ(原作で多様だったキャラクターの人種を東アジア人に変えてしまうこと)しなかったんです。

多様だった漫画原作を、実写化の際にもちゃんと多様に描いた好例です。クリエーター側の方々の意識というものは少しずつアップデートされている部分はあります。アップデートされていない作品の方がまだほぼすべてですけれど。

――日本の業界も少しずつ変わっているということですが、やはりお仕事はハリウッドの方が面白いと感じますか?

ハリウッドってすごく問題が多いところなんです。もともと白人社会で、大手制作会社で決定権を持っている人やプロデューサーは圧倒的に白人だらけ。そこから生まれてくるストーリーは、「白人の救世主」物語がほとんど。決定権を持つところになかなか日本人を含むアジア人を入れてくれない。物語がアジア人の話だったとしても、 今度はアジア系アメリカ人のプロデューサーによって、その「アジア人の物語」が上書きされてしまうことがある。

それらの様々な障害を乗り越えて、初めて現代の多様な日本を反映した作品が生まれてくると思うんですけど、それだったら逆に日本の作品のクオリティーを上げて世界に通用する作品を作ったりとか、日本で企画してハリウッドからお金だけ引っ張ってきて作品を作ったりした方が早いんじゃないかと思っているんですよ。

だから僕は今、日本にいて、日本の作品を手伝っているんです。そっちの方が早いじゃん、って(笑)。具体的にどんな作品に関わっているのかは、まだ詳細は言えませんが。

――世界市場を見すえた日本作品に関わっているということですか。

日本の作品のクオリティー向上のために、英語の翻訳や監修、英語の発音指導、現場の日英同時通訳なんかもやりますし、俳優への演技コーチや、キャスティングなどもやります。「何でも屋さん」です(笑)。

最近ではファンタジーの日本を舞台にした「ワイルドハーツ」という大作ゲームの英語版の録音監督、つまり演出を担当しました。日本人がゲームの英語版の録音監督をすることは、世界的にもかなり珍しいことだと思います。「モザイク・ストリート」を見たプロデューサーに「多様な世界観を作るのを手伝ってほしい」と声をかけてもらい、キャスティングもお手伝いしました。

ゲームに登場する多様なキャラクターの音声に計46人をキャスティングしたのですが、ガチンコ勝負のオーディションをした結果、半数以上がマイノリティーの俳優になりました。クリスタル・ケイさんやケイン・コスギさんも出てくれました。お二人とも、本当に素晴らしくて。

クリスタル・ケイさんは、歌手としては皆さんよくご存じだと思うのですが、実は英語でも日本語でも、お芝居が自然でめちゃくちゃうまいんですよ。しかし「特別な理由」がない限りミックスルーツの俳優を起用しようとしない、頭の古い日本のクリエーターたちは、クリスタルさんをなかなか「普通の役」では起用しようとしないので、日本では活躍の機会がほぼない。これって本当に機会損失だと思っていて、クリスタルさんみたいなすばらしい俳優さんが、ちゃんと活躍できる多様な作品を日本から積極的に作っていくことによってこそ、日本の作品が世界でヒットできるようになっていくと思っています。

■ハリウッドでの「アジア人の透明化」問題
アメリカ・ハリウッドで3月10日に行われた第96回アカデミー賞授賞式で、助演男優賞を獲得したロバート・ダウニーJr.さんと、主演女優賞を獲得したエマ・ストーンさんの態度をめぐってSNS上などで批判が起きた。中継映像からは、受賞した2人が前年の受賞者キー・ホイ・クアンさんとミシェル・ヨーさんからそれぞれトロフィー(オスカー像)を受け取った際に目を合わさなかったり、軽んじる態度を取ったりしたように見えたからだ。今年の受賞者2人が白人で、クアンさんがベトナム系アメリカ人、ヨーさんが中国系マレーシア人であったことから「アジア人の透明化」「差別ではないか」といった指摘が相次いだ。

【松崎悠希/まつざき・ゆうき】
1981年、宮崎県生まれ。日本映画学校(現在の日本映画大学)を中退し、18歳でニューヨークへ。俳優デビューを機にロサンゼルスに移住。現在はアメリカと日本を行き来しながら、俳優業のほか、プロデュースやキャスティングもしている。出演作は「ラストサムライ」(2003年)、「硫黄島からの手紙」(2006)、ドラマ「ヒーローズ」(2006~2010年)、「ピンクパンサー2」(2009年)など。

【編集部追記】「ゴースト・オブ・ツシマ」は中世の日本を舞台にしたゲームです。記事公開当初の表記を修正しました。