きょうの潮流
 

 「生きてよかったんだか、悪かったんだか…」「この生活には耐えられない」。東日本大震災のとき、避難所の人たちは絶望と不安のなかにいました

 

▼水や食料、電気や暖をとるものもない。雑魚寝の床からは寒さがしんしんと。身も心も震える日々だったとふり返ります。生活環境の悪化などによって、およそ3800人が災害関連死と認定されています

 

▼同じような光景は今も。能登半島地震の過酷な避難状況、心身ともに大きな負担を強いられている被災者。教訓は生かされていません。岩手で避難所生活を経験した女性が思いを寄せていました。「能登は、もっと寒いだろうに」と

 

▼あの日から13年。原発事故の影響もあり、いまだ3万人近くが故郷を追われています。くらしや生業(なりわい)の再建はきびしく、被災者の孤独死も続いています。宮城民医連の健康調査では、被災者の半数弱が生活は苦しいといいます。医療費を理由に受診を控えることも。重度の抑うつ状態が疑われる人は全国調査の倍以上でした

 

▼復旧であって復興ではない―。東北の被災地で何度も耳にした声です。つくり直された道路や建物。しかし人々の生活や街のにぎわいは戻らない。震災への不備や対応の冷たさは、いかに政府が苦難にある国民を突き放してきたかを物語ります

 

▼被災地で必死に生活を立て直そうとしている人たち。生きていてよかった。そう思えるように支え続けることこそ政治の役割ではないか。被災者のありようは、この国の姿勢を映しています。

 

<311メディアネット いのちと地域を守る2024>13年を経た「あの日」

 

 東京新聞や河北新報など全国の地方紙、放送局でつくる「311メディアネット」の防災ワークショップ「むすび塾」が2月、東日本大震災の被災地で開かれ、各紙の若手記者が宮城県内の4カ所の震災遺構などを巡った。初めて被災地を訪れた本紙記者(28)が、13年を経た「あの日」を伝える。

 

 

◆混在する漂流物と生徒の日常  気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(気仙沼向洋高校旧校舎)

 

3階の教室に残る自動車について説明する語り部の芳賀世剛さん

 

 流されてきた冷凍工場が校舎に激突し、外壁がえぐられている。4階まで津波で浸水した痕跡が、線のようにくっきり残っていた。

 

渦を描くように成長したカイヅカイブキの木

 

 教室内に自動車や大木、トイレに応接ソファ…本来そこにあるはずのないものがある。転がったロッカーや泥にまみれた教科書、実習用の作業着。漂流物と生徒の日常が混在していた。

 語り部の芳賀世剛(せいご)さん(14)=市立階上(はしかみ)中2年=は「悲惨な事実から目を背けずに伝えることで、多くの命が守られるきっかけになれば」と話す。

 被災時、学校には生徒や教職員ら約250人がいたが、高台や屋上に避難して命を取り留めた。津波が対流して渦を巻いた中庭にはカイヅカイブキの木が。この13年で、枝が渦を描くように成長したそうだ。

◆43人の魂 遺構に  南三陸町震災復興祈念公園(旧防災対策庁舎)


鉄骨だけになった旧防災対策庁舎

 

 そびえ立つ3階建ての鉄骨が青空を背に鈍く光る。その鉄骨はいろいろな向きに折れ曲がっている。

 旧庁舎は屋上まで津波にのまれ、町職員ら43人が亡くなった。屋上で奇跡的に生き残った佐藤仁町長(72)が言う。「震災後、しばらくはここに来なかった。言葉にするのもはばかられる場所。でも、43人の魂は今もここにある」

 今月1日、佐藤町長は震災後に県に移っていた旧庁舎の所有権を町に戻し、震災遺構として恒久的に管理する方針を表明した。

◆石碑に校歌 静かな学びや  石巻市震災遺構大川小学校

裏山から校舎を望む。窓や扉が失われていた

 

 石碑に校歌の歌詞が刻まれていた。「われらこそ あたらしい未来をひらく」。ここで、児童74人、教職員10人が犠牲になった。

 校舎に立ち入ることはできないが、ほぼ当時のまま保存されている。なぎ倒された渡り廊下。体育館の屋根は消え、残ったカーテンが風に揺れていた。

 静かな場所だった。周囲には町も家もなにもない。ほかの震災遺構と比べて案内板などが少ないのが、少しだけ気になった。

◆震えた一夜の痕跡  山元町震災遺構中浜小学校

 

児童らが寒さをしのぎながら一夜を過ごした屋根裏倉庫

 

 海岸から300メートルの場所に位置し、屋上に「垂直避難」した児童や教職員ら90人は全員生存した。津波が屋上より高かったら、もう逃げ場はなかった。

 寒さと余震の中、児童らが一夜を過ごした屋根裏倉庫には、段ボールのほか、図工の作品や運動会のポンポンが落ちていた。毛布が足りず、少しでも暖を取るためにかき集めたという。

 あの日、被災地には悲しいほどに美しい星空が広がったという。人々はどんな思いで空を見上げ、朝を待ったのだろうか。

◆命守るすべ 問いかけてこそ伝承 東北大・佐藤翔輔准教授

 

 

 東日本大震災の被災地は、他の被災地と比べて「伝える」ことが進んでいる。これは「遠野物語」のように、東北には古くから伝承文化があることと、これまでに何度も津波が押し寄せたことが関係している。

 震災後に調べると、あちこちに「かつてここまで津波が来た」という石碑が残っていた。だが長い年月で埋もれ、あまり教訓として生かされなかった。

 震災遺構は維持費もかかるが、忘れ去られないために必要。人の流れが生まれ、視察に訪れる人も増える。人は直接見聞きしたことの方が記憶に残るので、語り部による伝承も不可欠。その際は美談にしてはいけない。また、震災前の町並みを再現した模型も効果的。かつてこの場所に日常があったことが伝わりやすく、インパクトが大きい。

 

 言葉で伝えるときには、被害の実情を伝えるとともに「もしあなたならどうしますか」と問うことが大切。自分事として考えることで、いざというときに命を守る行動ができる。それが伝承の本当の目的だ。

 文と写真・昆野夏子

 

 

<社説>3・11から13年 能登半島からの警告

 

 

 「原子力災害対策指針については、特にこの地震を受けて見直さないといけないところがあるかというと、私はないと考えています」。原子力規制委員会の山中伸介委員長は、1月末の定例記者会見で、こう述べました。

 北陸電力志賀原発のある石川県・能登半島。地震による道路の寸断=写真、志賀町=や家屋の倒壊などにより、原発事故で放出される恐れのある放射線から逃れることの難しさがあらためて浮き彫りになりました。

 

 ところが規制委は、その現実を見た後でも、見直しは微調整にとどめ、「避難と屋内退避を適切に組み合わせることで、被ばく線量を抑える」という原子力災害対策の基本方針を維持していくというのです。
 文字どおりの当事者である志賀町の稲岡健太郎町長が、同じ現実を見て、再稼働容認から慎重へと態度を変えたのとは対照的です。規制委の姿勢には当事者意識が希薄、いや、どこか他人事(ひとごと)の感じさえ漂います。

 2011年の福島第1原発事故の際には、避難先や避難ルートなどがあらかじめ決められておらず、特定の施設に避難者が集中したり、道路が渋滞したりするなどの混乱が生じ、多くの周辺住民が長時間、被ばくの危険にさらされました。それを教訓に翌12年、発足したばかりの規制委が策定したのが、原子力災害対策指針。県や市町村はこの指針に基づいて、地域の実情に応じた防災計画や広域避難計画を定めています。

 

 現行の指針では、大量の放射性物質が外部に飛散するような原発事故が発生した場合には、渋滞などの混乱を避けるため、原発から5キロ圏内の住民の避難を優先し、5~30キロ圏内は、放射線量が一定量を超えるまでは屋内退避としています。

 しかし、能登半島を襲った地震の猛威を考えれば、それはとても現実的とは言い難い。

 土砂崩れや路面の崩落、ひび割れなどが相次ぎ、志賀原発周辺では、県が原発災害からの避難ルートと定める国道や県道11路線のうち、7路線が通行不能。避難ルートにつながる町道なども各地で寸断され、30キロ圏内の同県輪島市と穴水町では8集落で435人が孤立状態に陥りました。

◆現行指針は通用するか
 今月はじめ、志賀原発の正門前から輪島市方面に車を走らせました。国道249号を北上する県の避難ルートです。発災から2カ月以上たち、通行止めこそ解消されていたものの、路面はパッチワークのように応急の補修が施され、ひび割れや段差も目立ちます。

 傾いた信号の下をくぐって峠道に入ると、ところどころに土砂崩れの跡があり、復旧工事のための片側交互通行区間が続きます。地震直後、その上、雪でも積もっていたら…。有事の際の大混乱は、想像に難くありませんでした。

 さらに屋内退避の前提も崩れたというべきでしょう。

 石川県によると、住宅被害は志賀町だけで6400戸以上。原発事故に備え、被ばく対策を施した学校や病院などの「放射線防護施設」も、30キロ圏内にある21施設のうち6施設で損傷や異常が生じ、2施設は閉鎖に。すべての施設で断水になりました。万が一の時、乳幼児や高齢者、傷病者らが一時避難する先に想定されている施設が、こんな状況なのです。

 

 この現実が語っているのは、リアルな災害時に現行の指針は通用しない-ということなのではないでしょうか。抜本的な見直しが必要と考えるのが自然でしょう。

 無論、能登半島だけの問題ではありません。日本の原発のほとんどが半島の付け根や先端など交通網の脆弱(ぜいじゃく)な海沿いの過疎地に立地しています。柏崎刈羽、伊方、浜岡、島根…。避難の実効性を疑う声が各地から聞こえてきます。

◆立ち止まって考えよう
 政府はもう「福島の教訓」を忘れたらしく、昨年、「原発復権」に大きくかじを切りました。

 能登半島地震の発生から13日後、ようやく被災地を訪れた岸田文雄首相は、志賀原発の再稼働について記者から問われ、「新規制基準に適合すると認めた場合のみ、地元の理解を得ながら再稼働を進める方針は変わらない」と答えています。やはり、現実を見ていないとしか思えません。

 あの大震災から、今日でちょうど、13年。危険な「非常口なきマンション」に国民を住まわせ続けてよいわけがない。一度、立ち止まって考えよ-。「能登半島からの警告」ではないのでしょうか。

 

 

主張
東日本大震災13年(上)
高齢化、経営難に寄り添え

 

 甚大な被害をもたらした東日本大震災・原発事故から、11日で13年です。震災に加え、深刻な不漁、コロナ禍、物価高騰の“4重苦”で、住民の暮らしと生業(なりわい)が困難に直面しています。地域の再建・維持に国が責任を果たし続けることは、能登半島地震の被災者も励ますことになります。縮小・打ち切りではなく、被災者の要求に沿った再強化が求められています。

見守り細り増える孤独死
 13年がたつなかで災害公営住宅入居者の高齢化と生活苦がすすみ孤独死が相次いでいます。入居には所得制限があり、もともと自力再建のむずかしい高齢者が多いのに加え、一定の所得を超えると出ていかなければならないため、働き盛りの世代が抜け、見守りやコミュニティーの維持を担う人が減っているのが一因です。

 団地を見回り、支援が必要な人を見つけ、相談にのる生活支援相談員の配置数はピーク時(2016年度)の790人から22年度には296人と半分以下になっています。10年間の復興・創生期間の終了時に相談員の配置事業を打ち切った自治体もあります。岩手県の場合、相談員が配置されている災害公営住宅では、コミュニティー形成の拠点となる集会所の利用が月15~20回あるのに対し、配置のない約7割の団地では月0~2回にとどまっています。すべての集会所に相談員を配置する、入居の所得基準を引き上げるなどで、コミュニティーの維持を図り、孤独死を防ぐ必要があります。

 生活再建のために借りた災害援護資金が返せない状況が生じています。13年間で完済する必要がありますが、22年9月時点で、最初の支払い期日が来たのに滞納している割合が35%、57億円を超えます。死亡などの場合は支払い免除になりますが、国は相続人に返済を求めています。自治体には免除の裁量がありますが、自治体の負担になるので、ためらうのが現状です。国の責任で支払期間延長や免除対象者の拡大を行い、年金生活者など今後も返せるめどがない人は直ちに免除すべきです。

 被災から立ち上がった事業者の経営支援も重大な課題です。中小業者がグループをつくって経営再建を図るためのグループ補助金は地域経済再生に役立ってきました。しかし4重苦のなかで経営がたちゆかず、廃業や倒産に至る例がでています。その場合に、補助金を使った施設・設備を売却・処分すると補助金を返さなければなりません。水産加工などで、取れる魚種が変わって別の機械を買いたくても元の機械を処分できないなどの事態も起きます。実情に即した柔軟な支援で事業者と地域経済を支えなければなりません。

同じ苦しみを繰り返すな
 東日本大震災から13年、阪神・淡路大震災からは来年で30年です。しかし避難所は依然、劣悪で、住宅や事業再建は「自己責任」とされ国の支援は不十分なままです。大規模な復興計画で建設が長引き、よそに移ったまま結局、戻れない事態も防ぐ必要があります。大震災の教訓を総括し同じ苦しみを繰り返させない政治の取り組みが待ったなしです。東日本大震災の復興特別所得税の約半分を大軍拡の財源に流用して国民に増税を押し付けることは許されません。被災者が希望をもてるよう国は抜本的に支援を強めるべきです。

 

上空から見た被災地の「いま」 東日本大震災から13年

 
 
 東日本大震災の発生から2024年3月11日で13年となります。発生当時の写真と比べながら、被災地の「いま」を上空から見ました。
 
 岩手県山田町では、津波と火災で住宅の4割以上が全半壊し、死者・行方不明者は800人を超えました。震災後は高さ9・7メートルの防潮堤が完成、被害を受けた地域はかさ上げが行われました。

 仙台市若林区の荒浜地区は高さ約10メートルの津波に襲われました。児童・教職員87人と住民233人が屋上に避難した旧荒浜小学校は震災遺構として保存され、堤防の役割も果たす東部復興道路(かさ上げ道路)がその横にできていました。